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「オッカムのかみそり」の適用には注意するべき

今回は、こんな記事を読んだ。
高校物理で習う力学はじつは全部ウソ!?…「この世のものは全部波である」というかなり「ぶっ飛んだ」式(田口 善弘) | 現代新書 | 講談社(1/2) (gendai.media)
すこし、引用してみる。

たとえば、『学び直し高校物理』力学編で登場した「斜方投射」。これは屈折で理解できる。屈折では波長が短いところから長いところに入ると、光が波長が短いほうに向かって曲がることを説明した。また、波長が連続的に変わっていると光の軌跡が曲線を描くことを学んだ。

斜方投射では上に上がるほど速度が遅くなって波長が長くなるので(ド・ブロイの式)、斜方投射の軌跡は、屈折で理解できる。僕らはこれを「重力が働いて曲がった」と思っているがそれは「錯覚」であり、本当は「この世の物質はみなド・ブロイ波で表現される波なので波長が変わると屈折する」ということにすぎない。

高校物理で習う力学はじつは全部ウソ!?…「この世のものは全部波である」というかなり「ぶっ飛んだ」式

つまり、物体を斜めに投げ上げるとき、放物線を描くことになるが、
(1)高校物理では、重力の影響で、放物線を描く。
(2)量子力学では、波長の変化により、屈折するので、放物線を描く。
ということになる。

ここでは、同じ物理的事実について、相異なる2つの説明が与えられていることになる。

量子力学では、素粒子のふるまいなど、他の領域でも理解がうまくできるので(高校物理では、うまくいかないだろう)、適用範囲が広いということで、上記(1)と(2)のうちで、(2)が正しい自然界の描像なのだろうということになるようだ。

しかし、こと、斜方投射という一つの事実のみに注目して、2つの相異なる理論があるという状況を考えてみると、「オッカムのかみそり」を適用して、より単純な説明、すなわち、高校物理の説明が、適切なものとして選ばれるという事態にはならないのだろうか。

「オッカムのかみそり」には、特に何らかの根拠があるわけではなく、経験則に近いものであるから、その適用については、慎重に行わなければならないのだろう。

次の例として、私が好んで使うのは、今日が2024年6月30日だとして、
(1)太陽は、2024年6月30日までは、東から昇ってくる。7月1日からは、西から昇ってくる。
(2)太陽は、毎日、東から昇ってくる。
この2つについては、6月30日の夜時点では、どちらが正しいのかを判別することはできない。7月1日になって、どちらが正しいのかが判明しても、もともとの、6月30日を、1日だけ翌日(7月1日)に延ばせば、また、同様に(1)と(2)の理論の対立が継続する。この2つのうち、どちらが正しいのかは、経験的には、原理的に、判定できない。

それでも、「オッカムのかみそり」を適用すると、(2)の方が単純であり、(2)が適切な理論として選定されるということになるのだろう。しかし、「オッカムのかみそり」の適用は、結局のところ、無根拠である。

上の、物体の斜方投射の例でも分かるように、はたして、「オッカムのかみそり」をうまく適用できているのか、それさえも、原理的には、判定できないはずである。なぜなら、「オッカムのかみそり」は、原理的に、無根拠であるからだ。無根拠である以上、その適用の適切さについて、判定できる基準がないことになる。


(2024/7/1追記)
同一の物理現象(この場合は斜方投射)について、高校物理による記述と、量子力学による記述を比較して、後者が選択された。しかし、これが最終的な自然界の描写であるということは、おそらく全くないのだろう。
後世の人間が、全く異なる自然の描写に到達する可能性は、大いにある。というよりも、最終的、究極的な自然の描像に到達することなど、決してありえないのだろう。
そういった、究極的な自然の描像というものは、ちょうど、カントのいうような、統制的理念、あるいは、理想、のようなものであって、有限の存在である人間には、(限りなく)漸近はしても、決して到達できないものなのだろう。


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