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人生に、意味がある場合とない場合。また、その判別ができないことについて

これは、私がそう考えているというだけなのだけれども、人倫の欠落している人生には、原理的に、意味がないと、思っている。

まずは、基本的に、人生には、意味がない、と思っている。無限に広大な、この世界で、人間の有限性を考えると、ほぼ、無に等しい。別の言い方をすると、神の無限と比較して、この世界には、さまざまな人間がいるけれども、そういった人間の間の差異は、人間の有限性を考慮すると、神の無限と比較して、無に等しい。

繰り返しになるけれども、無限から見れば、有限である人間の間の違いなど、全く無視できる。無限と比較すると、どんなに大きな有限も、無と変わらない。

幸福であるような人間も、不幸であるような人間も、無限と比較すれば、無に等しい。つまりは、何ら変わらない。世俗の幸福も、不幸も、無限と比較すれば、等しく無意味だ。

もとより、何が幸福で、何が不幸なのか、私たち人間には、わからないのではないだろうか。

言い方を変えると、誰が天国に行けるのか、誰が天国に行けないのか、私たちには、判別がつかない。デカルトも、『方法序説』の第1部で、同じようなことを言っているように、私には読める。

カルヴァン派の予定説というのも、誰が天国に行けるのか、行けないのか、あらかじめ決まっているというのも、たぶん同じような発想であって、結果から見れば、それは決まっているということになるのだろうけれども、人間の脆弱な認識力では、そんなことは、あらかじめとしては、わからない、ということなのではないだろうか。

最初に戻ると、人倫の欠落した人生には、意味がないと、私は考えている。ウィトゲンシュタインの伝記的事項を少し読んだりして、そんなふうに考えている。けれども、人倫が欠落している、あるいは、そうではない、というのは、結局のところ、自分では、あるいは、第三者の人間から見ても、つまりは、有限な存在である人間には、判断ができない事柄なのではないのだろうか。そのようなことは、人間を超えた存在、たとえば、無限の実在である神であれば、わかることなのだろうけれども、人間には、わからない。

かろうじて、人生に意味があるとすれば、倫理的な実践においてのみ、それはあるのだと、理論的には、そうなのだと、私は、思う。

でも、理論的には、そうなのだとしても、実際に、具体的に、自分の人生に意味があるのか、あるいは、他の人の人生に意味があるのかは、結局のところ、有限な存在である人間には、それが自分でも、他人でも、判断がつかないのだと思う。

今日は、そんなことを、考えていた。覚え書きとして、書きとめておこうと思い、あまりまとまりがないけれども、書いておくことにする。

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