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4年半務めた図書館スタッフを退職した時の話

精神的にも回復が進み、来月末までには社会復帰の目途もつくほどに展望が見えてきたので、職務経歴書にアレコレまとめる前に色々思い出しつつ書いてみようと思う。自分は新卒採用で内定が1つも獲得できず、「ほぼほぼニート」という状態で6年半近くを過ごした後、契約社員として図書館スタッフとして4年半を都内某所で働いていた。4年半という歳月は長いようで短いような、あるいは自分にとっては社会復帰の大きな一歩でもあり、2年にも及ぶ精神回復を必要とする療養期間のトリガーにもなった、振り返るには心境的にも非常に複雑な期間でもある。

多くの公立図書館では「指定管理制度」という、民間企業に実質的な運営や業務を委託する制度を採用している。「民間の活力を生かして図書館サービスの向上に繋げる」というのは、あくまで世間向きの非常に漂白された広告的なソレにすぎず、実態としては最低賃金ギリギリの給料で、公務員に匹敵するほどの業務量を、ボーナスも代替休日もない契約社員として委託されるような感じなので、誰もが想像する「椅子に座って調べ物をする静かな司書」というイメージからは程遠い、割と肉体的にもタフで、時に精神的には非常にシビアに削られる職業でもある。

ちなみに、自分は以前から司書を目指していたわけではない。むしろ、司書という仕事自体、まさに前職への応募の際に初めて認知したほど、図書館の業務も含めて何一つ知らないで生きてきた人間でもあるので、大学卒業時にこの仕事に就くなどとは一度も想像したことがなかった。ゲーム世代の人間なので元々本もほとんど読まないし、図書館に行く目的も絵本やかいけつゾロリといった児童書の貸し出しを目的とする位のものだったから、本当に何の関連知識も経験も持たずに仕事が決まってしまったのだ。

しかも、面接当日は酷暑にもかかわらずスーツで向かってしまい、その時に何を話したのかもほとんど記憶にない(笑)何より、実質的には「契約社員の体をしたアルバイト」への応募だったので、ビジネススーツでの来社は非常に珍しかったのだろう。質問を重ねるにつれ、採用担当の訝しい視線を勘ぐってしまい、これは無理だな…と落胆しながら、2週間の選考期間を経て、諦めかけて次のアルバイト先を応募したその2日後に、内定の電話が来たのだから、本当に未だにどうして内定に至ったのかすら分からない(笑)

今振り返れば、最初の配属先も実は非常に酷で険しい環境であったようだ。元々「都内までの通勤定期券」が欲しかった故に応募したのだが、その希望自体は受け入れられ…たまではよかったものの、その配属先が某区でも屈指の忙しさを誇る中央館(業務委託が多く、窓口などを担当するため、基本的に都内のソレは激務になることが多い)であったため、通常は1週間か2週間ほどは見習いとして緩やかに「本の整理」が続くそうなのだが、恐らく自分は3日ほどでカウンターに立ち、責任者の監督こそあれど、利用者の対応にほぼ通常のスタッフと同じように当たっていたと思う(笑)自分にとっては派遣バイト以来の久々の社会人生活で、いきなり超忙しい配属先となったこともあり、ここで失敗したら次はないという覚悟の中で、毎日とにかく必死だったのは覚えている。

正直言って自分が2年程度のニート生活を送り、そこまでのプレッシャーに晒されず入社したのなら、すぐに退社していてもおかしくない位の激烈な忙しさだったと思うけど、社会復帰の機会を失わないように必死だったので、無知ながらに色々なことを覚えて、なんとか社会人として生き延びるような日々が続いた。電話応対の経験もなかったので、そこからの研修は当時の責任者の方々も大変であっただろう。本当に当時の責任者の方々やスタッフの皆様には、ただただ感謝の気持ちしかない。

もちろん、業務内容や業務量の多さだけが大変なのではない。むしろ、それらは人間関係や職員からの信頼があれば、自分にとっては何も問題なくこなせる位に仕事に対しては真剣ではあったので、それほど精神負担には繋がらないのだが…いわゆる「利用者トラブル」が非常に厄介だったのは今も憶えている。基本的には責任者が対応することが多いのだが、この時の対応だけでも退社を決めるスタッフが相当数存在するだろうという位、図書館におけるクレームも非常に強烈なものが多い。詳細は割愛するが、個人的には低賃金であれだけ精神を削がれるのなら、若年層の人手不足が業界で深刻なのも致し方がないように思えるし、そうした光景を散々見てきた故に「政府が労働環境を変える責任がある」と言わんばかりに、やたらと繰り返すJリベラル的な言動が、いかに世間知らずと感じるようになったのも事実だが、それは割愛させて頂くことにする(笑)

そんな中でも、職場には割と男性スタッフも勤務していたので、その点は非常に心強かったのも憶えている。特に、40代の先輩とは職場からの最寄り駅が一緒だったので、遅番で一緒になった際には毎回色々なお話をしながら帰宅させて頂いていた。先輩には本当にお世話になったし、今こうして思い出すたびに色々な思い出が蘇ってくるのは、その時間が本当に充実していたということなのだと思う。

ちなみに、休日は毎日のように都内で遊んでいた(笑)この頃から酒を嗜みながら都内を散策する楽しみを覚えてしまい、連休というのはシフト制で代休ゼロの契約社員では、有休行使なしに中々実現せず貴重だったが、1日休みであっても夜遅くまで遊んでいたのは今も覚えている。残念ながら当時も今も友人は非常に少ないので、ほとんどが一人での時間ではあったが…それでも、自由にお金を使えて自由にどこへも行ける楽しみを毎回のように噛み締めていたので、この時は本当に社会復帰してよかったと思える瞬間だった。

そんな都内の超絶忙しい図書館でのスタッフとしての毎日も、1年半をもって諸事情により転属が決まってしまったことで、あっさり終焉を迎えてしまう。転属については自らの希望ではなく、企業側と行政側の都合によるものなのだが、こんなにもあっさりと職場が変わってしまうような感じは、正直継続するにはしんどいだろうと思うし、まだエリア内での移動なら大きなシステムの変更等への対応は不要だったりするが、エリア外への異動は覚えることも多く身体への負担も大きいだろうと内心震えてもいた。

しかも、異動先は東京23区内であることには変わりないのだが、残念ながら池袋までの定期券が喪失してしまうことになる。これは都内までの定期券を糧に続けてきた身としては非常に辛かったし、転職活動を予定していたのに大きな痛手となる。わざわざ一時間半以上も、しかも主に遅番とはいえ帰宅が夜中になろうとも継続してきたのは、休日も含めて都内までのアクセス権が定期券という形で保障されているからに他ならない。それでも、転職を考えるには現状の職歴が短すぎるし、ニート期間で随分無職というステイタスに苦しめられた故に、このまま図書館スタッフとしての道も若干考える節もあったので、ひとまずは異動を受諾する形となり、企業が指定管理を行う地域館への配属が決まった。

新しい配属先でも、それまでの職場で覚えたことは役にこそ立ったものの、細かいルールや管理システムも異なるので、実質一から覚えるような形になってしまったのは、非常に精神的にも負担が大きく大変な日々だった。しかも、4月付での転属だったので、花粉症と戦いながらの研修期間は相当に身体に負担を強いることになった。それでも、1か月も経過すれば仕事に慣れて若干余裕が生まれるので、以前の配属先でも時折見せていた「子供の利用者への対応」をする余裕も戻ってくるのだが、そうした持ち前の接客精神を発揮した結果、前任の館長さんに自身の仕事の中で認識して頂き、当初の「視聴覚関連のお仕事」の希望とは裏腹に、児童書や学校協力の担当…要するに、児童担当になることが決まった。意外な岐路を迎えることになるが、結果的には自らの強みを確認する機会にもなったし、このことが後に足元を掬われるきっかけにもなったので、複雑な心境もあるのだが、少なくともこの時の判断は間違っていなかったと思う。

そもそも、中学生の時には幼稚園の体験学習でも活き活きとしていた自分なので、お子さんを喜ばせる仕事は天職なのだろう。元々エンターテイナー的な憧れや、引っ込み思案で人間不信に陥るほどに不安を抱えるタイプでありながら、どこか承認欲求が強く目立ちたい願望が人一倍強い性格らしいので、お子さん相手の接客や交流は、業務の中でも水を得た魚のように遣り甲斐を見出していたと思う。最も、それは「スタッフ」としてお子さんが快適に図書館を利用できることに寄与することのみに発揮できたわけなので、こうした姿勢が後に発揮し辛くなってきてしまう精神負担故に退職につながるとは、まだ知る由もなかったのだが…。

児童担当の仕事は図書館内でも特に忙しい分野の1つだという。お子さんに向けたお話会の企画や運営、学校との事業連携に伴うブックトークと呼ばれる書物にまつわる授業にも関わったり、中学生向けの作家の座談会の企画なども担当する。要するに、勤務外における課外活動も時に必要となる位、本に関わることが増えたということになる。ともすれば、残業のような扱いでもいいように思うのだが、課外活動として扱われてしまうのが図書館スタッフの哀しい現実である。

中央館における業務委託では、基本的にスタッフとしての業務は非常に限られているので、その点では業務はハードでも、プライベートとのメリハリの利く期間であったように思える。本自体に関わりを持たなくとも、請求記号と呼ばれる本の分類やら配置、あるいは検索方法などを覚えていれば、本に対して関心が薄くとも割とどうにでもなることが多かったのだが、直接本の内容に関わることになる児童担当ではそういうわけにもいかなかった。

それでも、お子さんが喜んでもらえた瞬間こそが、図書館スタッフを続けてきて良かったと思えた一番の時だったのは事実だし、「本気で辞めたい」と思った時であっても、お子さん相手のお仕事で勇気づけられることで、なんとか退職せず継続できたのだと思う。最も、コロナ前まではイベントなども充実していたので、個人的には貴重な人生経験をさせていただいたという意味でも、ある意味気分転換につながっていたのだろうし、その意味では感謝の気持ちも強い。

とはいっても、やはり転職への想いが消えたわけではなかった。転職への想いというより、現在の仕事に対する関心や継続動機が徐々に揺らぎ始めてきたのだ。元々は、都内までの定期券が保障される時給のアルバイトとして応募したら、後に月給となる契約社員の仕事が決まったような感じだったので、新卒ニート6年目にしては割と幸運な内定だったのだが、あくまで中継ぎとして社会経験を補う意味合いが強かったので、頃合いを見て正社員なり契約社員でも、福利厚生がより充実する転職先への就職活動を再開させる予定ではあった。

第一、この仕事はあまりに給与が安すぎる。正社員採用にしても10年も先を見据えなければならないし、そこに魅力も感じられなかった自分にとっては続ける動機も意志もない。ましてや、40代後半に正社員になった姿を全く想像できなかった。そうした中で、やはりもう少し自分の今後について真剣に考え直す時期に来ているのではなかろうか。いずれにせよ、今の仕事を続ける気力は全く残っていなかったし、それを補う意思も皆無であった。

のだが、異動してからは早番の頻度が増えたことで、帰宅する頃には眠気と疲れから中々実際の活動に繋げることができず、さらにはコロナウイルスの大流行もあって、本来は2年ほどで退職を決めていた部分もあったのだが、3年目も継続せざる負えない状況に陥ってしまった。そして、この辺りから徐々に自らの心身が次第に疲弊していくのを感じながら、退職を非常に残念な形で決意せざる負えなくなる流れを迎えることになる。

2020年は図書館も当然のごとく、コロナウイルスの大流行に様々な影響を受けることになった。2月頃から館内での閲覧も含めて一部のサービスが休止になり、3月頃には予約資料の受け取りのみという業務縮小にまで追い込まれた。働くスタッフとしては、対応が減る分はそれほど精神負担にはならなかったものの、責任者の方々にとっては、サービスの縮小に伴うクレーム対応などでしんどい思いをされたのだろうと思う。もちろん、児童担当の運営するイベントや授業等はすべて中止となった。

4月から6月頭までは、緊急事態宣言に伴って図書館が休刊となったため、出勤日数が大幅に減った時期もあったが、給与面では全額が保障されたので生活面では非常に助かった。それまでは月に3万円の貯金ができればいいほどのカツカツな生活を強いられていたが、実家での自宅待機に伴うテレワークのようなものだったので、実家での生活はほぼほぼ支出もなく、この時期に大いに貯金ができたのは非常に有難かった。逆に言うなら、この時の貯金がなければ、退職後ももっと精神的に追い詰められる日々だっただろうと想像してしまう…。

6月から業務が本格的に再開され、限定的ではあるが貸出等の基礎的なサービスも再開された。実を言うと、この時期はほとんど記憶にない…というより、あまり触れるのも若干憚れるような精神疲労が続く時期だったので、正直言って「いつ辞めてもおかしくない」状況にいたのは確かだった。細かいことは割愛するが、今思えば人間関係的にも色々悩む時期だったように思えるし、非常につらい時期だったのは覚えている。

そうした精神疲弊と、自身の図書館業務に対する将来性への違和感も感じ始めてきて、改めて「転職」を真剣に考え始めていた頃に、自身にとって非常に複雑なタイミングで「責任者への昇格」の打診を、最高責任者より直々にウケることになる。この経緯については割愛させて頂くが、要するに予期せぬ前任者の異動の中で自分が責任者として選ばれた、ということだ。実を言うと、秋の面談の時点で「3月末での契約満了に伴う退職」を申し出るつもりではあったのだが、コロナ禍で転職市場にも不安を感じていた部分もあった上に、

4年という歳月を経てようやく自らの仕事が初めて評価になって表れた喜びもあり、若干の違和感を残しながらも承諾させて頂くことにした。それに、1年か2年ほどは、部門リーダーとして統率していくことの社会経験は欲しかったので、個人的には慣れた職場でそうした経験ができるのは有難かったと思ったし、実際にほとんど失われていたモチベーションも若干回復した、かのように思えたのだが…。

12月になり「責任者見習い」として日々を過ごす中で、明らかに立場が変化したことによるスタッフからの何とも言えない視線の変化も含めて、精神的に疲弊していったのは客観的に見ても明らかだった。慢性的な不眠症も患っていたこともあり、休日は自宅のベッドでぼーっと過ごしながら昼寝を繰り返す、みたいなことが当たり前になってしまい、もはや目指すべき将来や生きていくことの意味すら見いだせなかった瞬間もあったと思う。

業務自体は、基本的にそこまで困難なことはなく、同業の責任者の先輩方からも信頼をそれなりに頂いていたのだが、これまで一度たりともリーダーとして統率した経験のない自分にとっては、職務経験も豊富なベテランスタッフをまとめる力など皆無で、そうした空気感がさらに自分を苦しめる形となり、責任者間の信頼と評価とは裏腹に、次第に継続への果てしない不安を感じながら…迎えた年明けの5日、この日が最後の出勤日となるとは、自らも想像していなかった…。

年末年始は実家で退廃的に飲み食いをする日々が続いた。コロナウイルスの流行は現在よりもはるかに深刻だったので、友人との毎年の恒例行事だった初詣も中止になり、やることといえば自宅で酒を飲むことくらいだったのだが、何しろ慢性的な睡眠不足に陥っていたので、年末年始も全く休んだ気がしないまま初年度の勤務日を迎えてしまった。

毎年の館内整理日は年明けの再開の1日前なのだが、この時のスタッフミーティングから「自分の頭が全然働かない」現象に陥っていたようで、今でも自分が何を話して何をしていたのか、実を言うとほとんど記憶にない。記憶にないわけではないのかもしれないが、思い出せないというほうが正しいのだろう。いずれにせよ、あんなに自らの意思や思考が全く働かない日は初めてだった。

5日は遅番だったので、朝はゆっくり寝られるはずだったのだが、夜中に何度も目覚めて起床したため、ほとんど疲れが取れないまま出勤した。コロナの流行する少し前に当たる、2020年に入ってからも一層足取りの重い日々が続いたのだが、責任者として1か月が経過したこの時は何度も立ち止まってしまい、なかなか前に進むことができなかったのは覚えている。だが、その時点ではまだ「いつもの仕事に行きたくないダルい感じ」程度のことだったので、自分でも体調不良を意識することなどなかったのだが…

その時のことは今も非常に覚えている、夕方4時半ごろのことだった。ちょうど何かトラブルがあったのか、カウンターで大変な対応を余儀なくされた際に、事務室に戻った際に諸々の書類の記入業務を行っていた際に、全く身体が動かなくなる現象に陥った。要するに、頭も体も全く動かない…それも、睡魔や倦怠感からのものではなく、ただ無気力と無関心故に動かすことのできないような状況に陥ったのだ。こんなことは人生でも初めてだった。

幸いにも、その30分間は電話対応など緊急を要する業務にも遭遇せず、残務をゆっくり終わらせ事なきを経たので、そのことを知るスタッフは誰一人としていないのだが…実際には普段なら5分も10分も全くかからない作業を、30分近くかけて作業するような状況だったので、今振り返っても「業務に当たるべきではない健康状態」でしかなかったのだろう。

5時ごろになり、若干身体が落ち着いたので普段通りの姿勢で業務に戻り、自分が信頼する責任者2名の方々と通常業務を普通にこなす感じで過ごしていた。この時は先ほどのような現象は一切なかったし、大きなトラブルもなかったと思うので…結局、閉館までは大きな失敗をしでかすこともなく、業務を無事に終了することができ、いつものように駅まで雑談をしながら帰宅していたのだが…。

翌6日、起床して体が動かせない…というより、明らかに何かを拒んでいるように動くことのできない状況に陥り、入社以来1度だけ「年末の忘年会シーズンで飲み食いしすぎた」あの大失態以来に、欠勤の連絡を入れることになった。そして、この時を境に…

4年半続けた図書館スタッフを、退職することとなった。

要するに、この日を境に図書館スタッフとしての業務や役割を全て終えることになったのだ。5日以来、自分は図書館のカウンター業務にも、あれほどお子さん相手に一生懸命に盛り上げた、お話し会の運営にも二度と携わることはなかったし、そうした利用者にも再び顔を一切合わせることなく、自分の図書館スタッフとしての社会復帰は終了した。

2~3日の欠勤を経て、正式に心療内科で休職手続きのための診断と書類作成を完了させ、本格的に休職期間に突入した。この時はあくまで休職なので、復帰の可能性も残されてはいたのだが、責任者としては勿論のこと、スタッフとしても以前のように職場に戻ることは無理だろうと思っていたので、基本的にはコロナ禍で有り余る形になってしまった有給休暇を消化した上で、契約満了をもって退職する形にしようと考えていた。

それでも、当時の最高責任者による自身への慰留への希望はガチだったようなので、内心非常に困惑していたのは覚えている…自分は大げさでも自慢でもなく、基本的に職務上での責任者に対しては非常に真摯に忠実に対応してきたので、そうした方々からの信頼は強かったのだと思うから、その点では自らへの評価なのかもしれないし、責任者への昇格も、そうした部分の信頼の積み重ねがあってのことだったので、長年「ニート」として社会から必要とされない落第者としての生活を余儀なくされた自分にとっては、やはり目から鱗が落ちるほどの喜びであったのだと思うと同時に、最後の最後になってそれが非常に負担になるとは思わなかったので、今思えば社会人として生きることの難しさを痛感させられたと思わざるを得ない。

それに、最高責任者は特に男性ということもあり、自分のような男性スタッフの存在自体が、女性の多い職場では貴重だったのだろう。個人的にも、最高責任者とは前任の方も含めて、基本的には良好な関係を築くことに務めていたので、そういう「どうにかしても慰留したい」立場は確かに理解していたが、結局そうした面談の中でも復帰への希望を全く見出すことができず、2月末の面談で正式に退職の意思を伝えた。

内容については「いち企業人としての立場」を、個人の感情抜きに伝えただけの話だと思うので、自らの率直な感情をこの場でぶつけるのは、これまでの義理を欠く下品な行為であると思うので一切割愛するが、正式な退職2週間前に「職場に足を運びにくいなら、休館日に自分も仕事があるからその時に荷物とかまとめにおいで」とおっしゃっていただいたことには、今でも本当に感謝させて頂いている。

1月から3月までの休職期間は、ひたすらに腹痛と精神不安との戦いを強いられた。1月頃までは「無遅刻無欠勤」故に享受する感覚すら失われていた、自由な時間をひたすら謳歌できるような精神的な余裕も生まれたのだが、それも一時の快楽や現実逃避にすぎず、特に2月に入ってからの体調は最悪で、毎日のように腹痛と下痢に悩まされていた、それも生活すら時にままならないほどに。

確か、面談の末に退職が決まった3月頃に、エヴァンゲリオンの最新作を映画館迄見に行ったのだが、その時も下痢止めや胃痛止めの漢方を処方しなければ、外もまともに歩けない位だったので…今振り返っても「こんな状態になるまでよく続けていたものだ…」と、自らの忍耐加減に感心しながらも、そこまで耐え抜いた末に自らの健康すらも破壊してしまったことに、背筋が凍るような寒気にも襲われたのは非常に憶えている。

そして、3月31日…既に退職手続きも完了した上に、本来なら挨拶回りができる体調ではなかったのかもしれないが…3年間お世話になった職場への挨拶に訪れた。対応して下さったのは、以前から大変お世話になっていた副責任者の方だった。実を言うと、傷病手当の話も雇用主から一切なかったので、先の責任者面談を通じていろいろ問い合わせていたのだが…その副責任者の方が(恐らくご本人にとって時間外労働になってしまう形も含めて)全て対応して下ったとのことで、ただただ本当に感謝の気持ちでしかなく…自らが抜けたことでご迷惑をおかけしたというのに…(涙)

この時の話は、色々なことがあり本音が出てしまうことになるので割愛させてもらうけど、多くはご心配や励ましの声を頂けたので、本当に自分がしっかり続けてきたことが若干なりとも実感できた瞬間だったし、マトモに文章を作成できるほどの精神回復までに2年を要したので、今もお手紙等は一切出せてはいないのだけれど…社会復帰前に一度、改めて感謝の意は送付させて頂きたいと考えている。とはいえ、既に2年が経過してしまっているので、色々と内情も変わっているのかな…とりあえず、手紙だけは出そうとは考えている。

4年間の職務経歴書は以上となる。この経験から何を学んだか…それは、

努力や誠意は社会からの評価や信頼に大いにつながるが、努力や誠意だけでは社会で生きていくのは極めて難しい、ということだろう。

何も「能力的な自己責任」の話ではなく、単に「自らを殺してまで仕事に固執せざる負えない状況に追い込んでしまう」ことによる精神負担の危険性を意味している。仕事にやりがいを求めるだけでは破綻する側面が多いとしても、仕事に義務感を伴いすぎると、いずれは精神的にも肉体的にも破綻してしまう。中央館時代の1日の欠勤と退職までの休職期間を除けば、自分は無遅刻無欠席の皆勤賞であったのだが、その代償が2年に及ぶ闘病生活になってしまったのは、悔やんでも悔やみきれない…正直、それなりに仕事をして、それなりに休みもして、頃合いを見て退職するほうが、よほど健康的な毎日を送れたのかもしれないし、次の社会復帰に不安を抱えるような心境にもならなかったのだろう。

最初の配属先でお世話になった40代の先輩の言葉が、心に沁みるように思い出される。「仕事は70%くらいの感じでやった方がいいよ」…俺は100%で仕事に取り組みすぎたようだった。いや、実際には100%で取り組んでいたわけではなく、そういう心持で取り組んでいたにすぎないのだが…先輩も(別の職種での)職務上の疲弊が重なって休業を余儀なくされた期間があっただけに、そうしたことのリスクを誰よりも理解していたのだと思う…先輩の言葉はやっぱり正しかった。

最も、選ばなければ仕事は幾らでもある、というのは他者の意思を全く肯定できない自己責任論者の詭弁であり正直どうでもいいのだが、仕事を選べる状況にないと思い込む精神状況が想像以上にしんどいということは、今回のことで最も学んだことかもしれない。

何より、今回は人の顔を伺いすぎて本当に疲れたのもある(笑)それならば、人の顔を気にせず、空気感の変化も無視して意志を尊重するくらいのほうが、自らを崩壊に導くこともなかったのだろうが、精神的な問題を抱えながら無理やりにでも社会復帰した自分にとっては、そうした空気すらも負担が大きすぎたということだろう。

最も、元々大学時代にも同じような状況に陥って人間不信になり、就職活動も何も棒に振ってしまった過去を思うと、そもそも自分は全く社会復帰できる状況になかったのかもしれない。ただ、そうした我慢や回避も結果的に精神破壊を引き起こすのなら、やはり純粋に能力や得意なことをコツコツ仕事にしていくほうが、そうした「閉塞感」や不自由さを解放できるのだと思うし、今後は二度とそうしたことに悩まされることがないように努力しようと、改めて心に誓うのであった。


一部加筆を伴い、時期が遅れましたが、せっかくなのでアップさせて頂くことにしました。もしかしたら、あるタイミングで非公開になるかもですが、その時はご了承いただければ幸いです。

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