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印象派レンズが映し出す日本人の夢幻

現在11:27分。
Musée d’Orsayより。
館内のカフェでcafé crémeを飲んでいるところだ。ここ数日パリは曇天と小雨が続いている。パリの雨そのものが、観光客の多いこの年越しに室内へ促し、消費を促進しようとさせるマーケティングにさえ感じてしまう。


今回のパリの滞在では、19世紀の西洋美術に絞って色々回ったのだが(主に印象派とRodin)、何故日本人がこれほどまでに印象派を愛でるのか、その糸口を見つけられたような気がする。


つまるところ、日本人は明確な線引きが苦手な人種であるように思う。だからこそ直接的な表現を避ける印象派、特にMonetやRenoirは特に好かれるのだろう。


やはり日本人は疲れている。それは個々のプライベートの問題に留まらない。———日本社会の閉塞感に対して———人々が美術館へ行くのは何故だろうか。様々な目的があるだろう。美術館賞をしたい人、デートの場として(それは美術鑑賞を


目的としているわけではなく、もっともらしい目的地として)、或いは教養を深める振りをするために。どのような理由であれ、人々の行く先に印象派が現れる。すると思いがけず日本人は癒されるのではないだろうか。印象派の持つ色彩の暖かさによって。追い討ちをかけるように彼らの不明瞭な”イメージ”が日本人の習性に共感を呼ぶ。


一つに、印象派の画家達は原則、黒を使わない。それはあくまで情景から得る印象をキャンバスに残すからであり、光の波長に黒が存在しないからだ。するとここに日本人に通ずるものが現れる。日本人もやはり自然を好む傾向があるという点で、黒を好まない。歴史の影響だろうか教育だろうか、日本人は自然をやはり大切にしている。東京に住む人は尚更、都内に自然が少ない分自然を求める節がある。そんな日本人にとって、印象派は思いがけず優しく包み込んでくれる癒しに突如としてなりうるのではないか。


最近の一番の疑問は、結局アートの価値は誰が決めているのかという点なのだが、一方で愛でるという行為は、憧憬や共感が根元を占めると思う。日本人が白黒付けることを忌み嫌うのは、雰囲気を壊すことを恐れているから。私はこれを現実の楽天的な受け取り方と捉える。Renoirの「陽光のなかの裸婦」を見たとき、その曖昧さが夢を作り出しているように感じて取れた。つまり、それは完全な現実ではない。それ故に、見る者は自分たちの現実に対する姿勢と、キャンバスに描かれた情景の度数が近いことに気づき、親しみを感じるのかもしれない。


陽光のなかの裸婦, 1875, Pierre-Auguste Renoir


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