“これまで”の振り返り(2021まで)
台湾にも遅れてやってきた、コロナの影響でクラブも活動ができなくなってしまった。
3ヶ月が過ぎ、ようやく、外でサッカーの練習が再開しようとしている。
活動ができなかった期間中で、普段整理できていなかったものを整理することができた。
こうやって、簡単な自己紹介を書くことも、
自分自身の過去を整理しておこうと思ったからである。
小学生〜高校時代
小学生から高校までサッカーを続ける。
家庭の事情で、高校生活が終わった時に、「姓(名字)」が変わる。
当時は、自分が18年間呼ばれてきたものが変わり、別の人になったような感覚があった。
高校生時代の友達は、変わったことに慣れていない(知らない)ので、
今でも、以前の「姓」で呼ばれることが多い。
大学生時代
3年生の時から、色々と具体的に行動を起こすようになる。
イベントを作り上げる。サッカー×◯◯
立ち上げた学生団体で、サッカー大会などのイベントを主催していく。
企画の一つで、「サッカー×チャリティ」をテーマとして、収益を参加者のメッセージを書いたボールに変えて、アフリカのニジェールに送る。
あるイベントで出逢った方が、海外青年協力隊でアフリカのニジェールへ行くことが決まっており、企画に賛同してくれて、現地にボールを届けて下さった。
「何もないところから、作り上げる」経験を学生時代に主体的にできたことは小さな自信となっていく。
東南アジアバックパック
大学四年時に東南アジアへバックパックへ。
周りの友達が世界一周に行っていて、感化されたことがキッカケである。
知らない場所に、宿も決めず、具体的な目的地もないまま、旅をする友達が異常にカッコよく見えた。
留学なども検討していたが、理想の就職先が決まったので、
ずっと気になっていた、バックパックへ行くことになる。
とりあえず、タイに向かうことを決めて
飛行機のINとOUTのチケットを取った時の、期待と不安は懐かしい。
滞在したラオスでは、毎日サッカーをしていた
スクールコーチとして
大学卒業後は、某大手スポーツスクールへ入社する。
様々なスポーツスクールを日本全国で展開している会社であり、スクール会員数は、全てのスポーツを合わせて、4万人を超える。
新卒優秀賞。そして“チーム”を率いることに。
2年目から、自分のチームを持ち、年上の人をまとめる立場を経験した。
自分だけではなく、他の社員の数字を管理しなければいけなくなり、
それはなかなかのストレスでもあった。
率いるメンバーは全員、僕より年上であり社歴の長い人たち。
会社の流れを僕以上に知っている。
変化球で僕が遠回しに数字を出してくださいと伝えようとしても、
当然、バレバレである。
求められるのは、「数字」
僕が在籍していた時は、指導のことを考える時間はほとんどなかった。
会員の管理と、スクールへ入会してもらうための活動、グッズ販売、イベント参加などの営業活動に多くのパワーを使わなければならなかった。やることは単純だが、気づいたらスクールの時間が来ており、バタバタと練習時間を迎えていた。
入社してくる人たちの中には、「サッカーを指導したい」「スポーツ指導だけをしたい」といった人が多く、そういった人たちは、苦しむことになる。
「数字」の良い社員が多くお金をもらえる仕組みになっているので、数字を競い合う環境から、営業活動へのパワーバランスが強くなりすぎる社員もいる。
そのバランスを調整、チームをまとめる立場として色々な難しさを感じていた。
ただ、チームの成績も悪くなく、会社の中でも、それとなく立ち回れるようになっていく。
悩みまくった一年半。
2年半勤めた会社をやめることを決める。
その理由は、「先が見えた」からである。
ずっと、自分をうまく騙し続け、
それとなく成績を出し、働いていくことが想像できてしまった。
そんな時に学生の頃から、なんとなく僕の中に存在していた「海外」という気持ちを思い出し、「海外で働く」ということを決めた。
●中国、松本、神戸。。
1年半の間に住んだ、街である。
この期間に3つの場所に住んでいることからも、なかなかの迷走ぶりである。笑
この期間のことを書くと、長くなるので、
非常に簡単にまとめてみると、、
台湾に来るまでに、いろんなことがあった。
いくつか選択を間違えたかもしれない。と思うこともある。
ただ、この期間がなければ、「台湾」には来ていない。
結局、ただ前に進むしかない。と思う。
日台合同クラブ 〜 台湾 〜
台湾に来ることは、全く想像していなかったが
中国の時に知り合った方とのご縁で、台湾に来ることになる。
●アカデミー立ち上げ
アカデミーの代表は日本と台湾にルーツを持つ。
アカデミーが設立する前までは、
台湾に住んでいる日本人の子どもたちを対象にスクールを展開していた。
そこから、現地の市場へチャレンジしようとしているタイミングで僕もメンバーに加わった。
そして、これは「現地の人に教えたい」という僕の気持ちとピッタリと重なった。
アカデミー立ち上げセレクション
初回のセレクションを終えて、14名で活動をスタートすることになる。
全体の約30%が台湾人選手であり、まだまだ日本人の割合が多かった。
選手の学年層は、新3ー新5年生。
新4年生が多く在籍するチームとなった。
ただし、U10のカテゴリーでは新5年生が大会に参加できないので、
U12での大会でのエントリーとなる。
当然、すぐに結果がでるわけがない。
それでも、コーチ陣、選手、保護者の我慢強い努力があり
少しずつ、変化が見えてくる。
周りのチームからも、成長ぶりに驚かれたことも多い。
* * *
それから、5年。
約90名の選手が在籍するアカデミーとなった。
全体の約80%が台湾人選手となり、U9からU18までのカテゴリーが増えた。
立ち上げ時の選手、保護者様のおかげで、今のアカデミーがある。
そして、僕自身もアカデミーと一緒に成長してきた。
この5年間で複数のカテゴリーを経験して、クラブの一年目のチャレンジを何度も経験させてもらった。
●AFC B license
日本で普及活動(スクール)をやっている頃は、C級ライセンスまでは取得していたが、高いライセンスを取得していくことにあまり関心はなかった。(そもそもライバルも多い)台湾でAFC B license クラスが開催されることを知り、「日本でできないこと」をすると決めていたので、受講することを決める。
人とのご縁で受講することができ、無事に licenseを取得することができた。
何より、そのクラスを通じて台湾人のコーチたちと出逢うことができた。
台湾プレミアリーグで監督をしている人や、サッカー協会で働く人など、そういった人たちと同じ時間を過ごせたことは良い経験となった。
●2017年、アカデミー初の全国大会出場。
クラブ設立から、1年半で始めて全国大会へ出場することができた。
この頃には、台湾人の選手がクラブに入ってくるようになってきていた。
台湾人、日本人選手の割合も同じぐらいになってくる。
ベスト8で敗退したが、観ている人たちの心を動かす試合ができた。
●台灣企業甲級足球聯賽(台湾プレミアリーグ)
自身が所属するアカデミー活動とは、関係ないが
2018年に、僕自身が選手として、台灣企業甲級足球聯賽(台湾プレミアリーグ)に参加する。
台湾に来てから、外国人主体のチームに所属していた。
スペイン人の監督であり、英語でのトレーニングは良い経験になった。
平日の夜や、土日の仕事がない日だけ、活動に参加していた。
そのチームが、2019年に台湾プレミアリーグ参加を目指し、プレーオフへ参加することになる。
そこから活動に参加して、プレーオフを勝ち上がり、プレミアリーグに参戦する。
自身のアカデミー活動が週末にあるので、6試合のみ出場となった。
参加した日は有難いことに試合に出場させてもらった。
選手としても、少しだけ台湾サッカーに触れることができた良い経験だった。
●メディア出演と全国大会優勝
2020年。台湾に来てから4年目。
いろんなことが結果となり、形に現れるようになってくる。
メディア出演
少しずつ、自分自身でも情報発信を行うようになっていて、試合を分析していた記事などを書いていた。
友達のサポートもあり、中国語に翻訳して情報を発信していくことをしていると、
スポーツメディアから、YOUTUBEへの出演の依頼を受けることになる。
●全国大会優勝
U15の監督をすることになり、2年目。
クラブとしても、個人としても初めて「全国大会優勝」を勝ち取ることができた。
2位などの成績を収めたことはあったが、最後の一歩がなかなかうまくいっていなかったので、「ホッとした」という感情になったことを覚えている。
そしてコロナ渦へ・・・
コロナによって、強制的にこれからについて考えさせられた。
リーグ戦、大会は中止となり、外での練習はできない。
サッカーが日常からなくなった時に、サッカークラブはどうやって運営していくのか?
サッカー指導者の僕は、何ができるのか?
自分自身のできることの少なさに、向き合わされた。
●トークン
最近サッカー界でも、よく聞くようになってきた、「トークン」
海外の有名サッカーチーム、国の代表だけでなく、
日本のJリーグチームだけでなく、Jリーグ参入を目指すチーム、
また、サッカー以外でも、運用され始めている。
みんな変化して、色々なことにチャレンジしている。
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