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厨二病診断テスト

こんなことを書いた。

本来、何かを他の人に見てもらいたいと意識的に発信する者は、あるペルソナにとって"価値"のあるものを提供していなければならない。
"価値"がなければ熱烈なファンがいない限り誰も興味を持たないし、素通りしてしまうだろうから。
そういう点で、僕はほとんど"価値"のない"自己満"的な内容をエッセイとして発信していることになる。(僕の考え方が誰かにとって"価値"を持つわけがない)

私の自己紹介エッセイより

正直、まだ僕は大学3年生の就活もしてない(院進予定なのでする必要がない)モラトリアム期間の真っ最中であるから、"自己満"的なことをしていればいいのだと甘えているという節もある。

本来、中二(?)で終わらせると言われている「人生の意味を問うこと」や「世の中のあり方について考えること」を厨二病的に僕は今も"自己満"で続けている。

でも、本当にみんなもうそんなこと考え終わったの?早くない?だってまだ社会に出て働いてもいないんだよ?

「何をして生きるためのお金を稼いでいくか」。以前までの「終身雇用」や「年功序列」が当たり前だった日本では、社会に一度出た時点でそれが一生分確定してしまう。(同じ仕事を続けていた方が、出世もできるしお金も稼げるようになる。)

社会に出て仕舞えば、自分がどう生きていくかがほぼほぼ確定する、ということだ。

ただ、最近「成果主義」や「競争社会」という言葉が浸透してきて、例えば一生で何回か転職活動をするということもだんだんアブノーマルではなくなってきた。それってつまり、「何をして生きるためのお金を稼いでいくか」が一度社会に出たとしても一生分は確定しないということだ。

「何をして生きるためのお金を稼いでいくか」って「人生の意味」に包括されている大きな要素の一つだと少なくとも僕は考えている(もちろん、家族、友達、趣味、自己表現など他の要素もたくさんある)。

何が言いたいかというと、僕が「何をして生きるためのお金を稼いでいくか」を確定させた時には多分「生きる意味」を考えることを今ほどはしなくなり、厨二病的な思考を現在ほどはしなくなるのではないかということだ。

もちろんその仕事の延長線上に何をやっていけばいいのか的な"悩み"は抱え続けるとは思うが、もっと大きな「人生を生きる意味」的な枠組みで考えに耽る頻度は今ほど多くはなくなるだろう。(そんなことを考える暇すらなくなってしまうかもしれない。大学生は暇である。)

社会人になってから今僕が考えているようなことを一生懸命考え続けることは恥ずかしいことだという、「終身雇用」「年功序列」時代の感覚が僕たちには確かに残っている。

ただ、先ほども言った通り、今の競争社会の中では人生の中で何回も、生きるための手段を変える機会を作りやすくなっている。これって、「はっきりとした確信が持てるまでは"人生の意味"を問い続けることができるし問い続けないといけない」ということを意味しているのではないか?
(いや、考えすぎか…)

そういうことなら、これからその感覚が社会全体としてどう変わっていくかはわからないが、いずれにしても社会が移り変わっていく中で今でいう"厨二病"状態の人は増えてしまうのではないかなあと何となく思う。(そう言う奴がだんだん増えていけば、今"厨二病"の人もそうではなくなる。)

僕は、早く自分がやるべきことを発見して、成熟した社会人の精神を得るためにこうやって自分の考え方の変遷を書き記しておく。


さて、おそらく厨二病の類というのはもうとっくの昔にみんなが考え終わったことをまだこの年代でも考えてるよっていうことを言うのだろう。

つまり、同年代の人たちがあなたを見て「あいつまだあんなこと考えてんのかよ」と思われて仕舞えばそれはもう立派な厨二病と言うことだ。

だから、同年代が立派に自分の仕事を全うしている中で、自分だけ僕が今考えてるみたいなことを考えていれば厨二病だと思われてしまう可能性が高いし、同年代が余裕を持って子育てをしている中で、自分だけ必死こいて自分がしている仕事の話でもしていれば痛いやつだと思われてしまう。

「出る杭は打たれる」。つまりそう言うこと。周りと同じようなことを考えていなければいつだって変なやつだと思われてしまう(そりゃそう)。

ただし、変なやつだと思われることを、どう捉えるかは自分次第だよねっていう話です。
(今の自分より精神的に成熟していない過去の文章を朗読でもされればそんなの誰だって恥ずかしい。今より未熟な過去の自分は、今の自分にとっていつだって恥ずかしい存在であるのではないだろうか。)

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