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柳美里さんの小説を久しぶりに読んだ

「JR上野駅公園口」を読みました。

茨城出身の私は、常磐線利用者でしたが、つくばエクスプレスが出来、常磐線を利用することはなくなってしまいました。また、大人になり車、つまり、常磐道を使っての移動が増えたことも理由の一つです。

2014年に上梓された本だけど、構想は2006年というから時間がかなり経過しています。単行本のあとがきと、文庫本用に付け加えられた原武史氏の解説「天皇制の<磁力>をあぶり出す」まで読んで、胸のつかえが少し取れた気がしました。

一度も名前の出てこない主人公の不運続きの人生。昭和8年生まれの主人公と昭和7年生まれの私の父の姿と重ね合わせて読み進めていた部分もあります。

しかし、同じ時代に生きながら、父と主人公では全く違った人生を送っているようで、でも、どこかで同じだと思う読後感でした。

小説なので、主人公やその息子の誕生日を天皇(上皇)や皇太子(今上天皇)に併せて書き、日本一のセレブリティ家族と底辺に生きる家族の対比?とも思いましたが、少なくとも、私には天皇家のエピソードと共にある日本国民は、市政にたくさんいるのだ!との感想を持ちました。

これは柳さんの在日の方が考えるものと、また、少し違うのかもしれませんし、もとを辿れば同じなのかもしれません。

母が姉を生んだ昭和34年4月9日、国立国府台病院の産婦人科では、翌10日の当時の皇太子様と美智子様のご成婚の日で、紅白のお饅頭がだされた、との話を何回も聞かされたものでした。

そう、ご成婚のニュース映像、パレーの様子が流れる度に聞かされました。

国体が茨城で開催された昭和49年(令和元年の国体も茨城)も、大騒ぎしていたし、女性週刊誌レベルで皇室のことが国民は好きだったのではないかしら。

高度経済性長期の出稼ぎは、NHKの朝ドラ『ひよっこ』のお父さんがて稼ぎ中に記憶喪失になってしまうストーリーがありましたが、私の小学校の同級生の家でも、昭和40年代に入っても出稼ぎにいっていたことを考えると、寒村での当たり前の仕事のあり方、稼ぎ方だったのでしょう。

まさか、年季奉公はなくなっていましたからね。その後、田中角栄が総理大臣になると、地方都市でも公共工事、特に道路建設の土木工事が増え、東京へ行かなくても、地元の建設会社で土木作業員をすれば現金収入を得られるようになりました。

どんな貧乏よりも主人公にとって悲劇だったのは、息子さんの死と奥様の死です。

専門学校へいって、レントゲン技師の国家資格を取り、これからというところでの息子さんの死は、丁寧に書かれれば書かれるほど、主人公の居た堪れない思いが伝わり、他人事のように書かれれば書かれるほど、皇太子(現天皇)と同じ日に生まれた息子の不遇を痛感させられたのでしょう。

そして、結婚38年の間、トータルで1年も一緒に暮らしていなかった奥様と一緒に暮らし始めたとたん、65歳で亡くなられた奥様。それにより、主人公は家を出て、上野公園口でホームレス生活を始めるのです。

グリーフカウンセラーの立場で、この状況の方が「痛みの分かち合いの会」にお見えになった場合、どのようなナラティブセラピーが展開されるのでしょう。

その主人公にどのような物語を書き換えてくれるのでしょうか。葬儀の現場で似たような故人様とご遺族を垣間見てきた私は、正直、特別に不幸な主人公と思うのでなく、ごく市井に生きる人の人生と思ってしまいました。

父の友人で、60代を過ぎてから行方不明になった人がいます。
若い頃、よくうちに遊びに来ていたおじさんで、一生独身でいた人です。

その理由は、兄夫婦が経営していた工場があり、その兄がなくなり、遺された兄嫁と甥っ子姪っ子の面倒を見るために一生独身でいたとのことでした。
時代が流れ、その会社をたたみ、都内へ引っ越し別の仕事に就いたみたいですが、何をしていたのかはわかりません。
父が、その人の老後が心配で、家に招き入れようとした矢先のことでした。
もちろん、母は大反対しましたが…。
連絡が取れなくなり、住んでいたアパートも引き払い、そのままとなってしまいました。

私は大学生の夏休みかなにか、帰省していた時、その人が父のところに遊びに来ていて一緒に東京へ帰ったことがあります。
常磐線ですから上野駅で降りて、公園口のビルの中にある食堂でご飯を食べてから帰りました。一人でまっすぐ帰るのが寂しかったのでしょう。私はそのように感じて、おじさんとの食事に付き合ってあげました。

さすがに昭和50年代後半になると上野駅に傷痍軍人はいませんでしたが、その代わり、ホームレスが現れだしたのです。
子供の頃は、上野の地下鉄銀座線と日比谷線の通路のところに傷痍軍人がいたのを覚えています。白い浴衣のようなものを着て、足にはゲートルのようなものを巻いていました。ゲートルじゃなくて、包帯だったかもしれません。母方の祖父はミャンマーの野戦病院で亡くなっていましたので、戦争はそんなに遠い存在でなく、私の中にも太平洋戦争の傷跡のようなものがあり、傷痍軍人を見ると、胸の奥がチクチク痛みました。

本の感想ではなく、勝手に自分の話に取って代わっていますが。(笑)

バブル期に秋篠宮様のご成婚を、赤坂4丁目の広告代理店に勤めていた私は会社を抜け出して、沿道から東宮御所へ入っていく御用車へ手を振った記憶があります。次の日の新聞に沿道の私がばっちり写っていたのにはびっくりしました。

私は仕事柄、生活保護受給者の方々との接点もあります。住所不定だと生活保護は受けられません。望んでホームレスになった人ばかりではありませんが、主人公は望んでホームレスになった一人。

人生の大半を出稼ぎ生活で送り、故郷がありながら南相馬の故郷での生活が出来なかったひとり。

最後のお孫さんが津波にのまれる描写は、主人公の死と同時進行なのかどうか、時間の前後がわかりませんが、死の瞬間に本当は見ていないその風景が脳裏に映し出されたのか。

東日本大震災から10年。天皇誕生日。被害の度合いは激しくても、忘れ去られた茨城にいて、この本を読み、天皇制の磁力(惹きつける力)は、私の生活にも少ながらず影響を及ぼし、この国が成り立っているのだと再考致しました。

昭和天皇が崩御された日の思い出や植樹祭、そして、雅子様のお誕生日と自分の誕生日が10日しか違わないこと、同じ年に結婚し、子供も2001年生まれなことなど、照らし合わせなくてもよいことをあわせてしまうのです。

今の秋篠宮家のごたごた、女性天皇が認められていない中、皇室がどのようになり、象徴としての役割を果たせるのか、疑問はありますが、まあ、今日はここまでにします。


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