【短編小説】当たり屋①
走り出したのは、冤罪を回避するためだ。
「この人痴漢です。」
思い出すだけで寒気がする。
電車を降りた時、小太りの女は俺の手を掴んでそう叫んだ。
周囲の目なんて、気にしている暇はなかった。
駅を抜ける時、何やら駅員らしき声に静止をされた気がするが、止まれなかった。
当然だ。
車内には確か、カメラは設置されていない。
俺は断じてあんな女になど触れていないが、舌戦に敗れる恐れは十分にある。
理詰めには自信があるが、一度容疑がかかった人間の発言に信憑性を見出そうとする人などほとんどいない。
それは俺が一番知っている。
故の無念の逃走だ。
現在は昼の12時。
あれから身を潜めるために、駅近くのカフェに入って、直に二時間が経つ。
昼まではここに身を隠しておこうと思っていたが、何やら先程から電話が鳴り止まない。
幸い、発信者の特定はできている。
「鳴海、どうしたんだ。会議はもうじき終わるぞ。こんな大事な日に遅刻とは、お前らしくないな。何かあったか。」
上司の東出から来たメールに目を通したのは、ここに来てすぐのことだ。
メールぐらいならとはじめは返信を返そうとしたが、一応用心のために無視をすることにした。
少々気不味くはあるが、元々気に入らない奴ではあったのだ。
この際、俺の不在で大いに困ればいい。
ざまあみろ、このクソハゲ上司が。
と、違う違う。
何を現実逃避をしているんだ俺は。
今はそんな事を考えている暇はない筈だ。
この状況をどうするべきか。
それが今俺が第一に考えるべきことだ。
いっそのこと、全部正直に喋ってしまえばいいのではないか。
流石にこれだけの時間が経った訳で、もう駅構内には女はいないだろうし。
急いできたので場の感じを確かめられていないが、もしかしたら大事にはなっていない可能性もある。
なんせ、被害を訴える女の容姿があれなのだ。
もしかしたら、痴漢冤罪を見抜かれて、あちら側が捕まるか、厳重注意を受けただけかもしれない。
そろそろ戻っても大丈夫か。
カバンを手に取り、出口を見つめる。
ほんの数秒迷ったが、それから俺は立ち上がり、出口の方向に向かって足を踏み出した。
予想外だったのは、その後のことだ。
何と、俺が目指す出口の方向から、同僚であり友人である佐野がその時歩いてきたのだ。
それに、ふらっと立ち寄ったという感じではない。
はっきりと俺の方を見据えている。
しかし、表情は柔らかい。
どういうことだろうか。
その答えは佐野の口からすぐに語られた。
「バッチリ対処しておいたぜ。」
はじめは訳がわからなかったが、その後を聞いて俺は酷く安心した。
どうやら、事態は割と大事になっていたらしい。
どういう訳か、女は俺の勤務先を知っており、あの後駅員にそちらへ向けて電話をするように訴えたらしい。
それを受けて、なぜそんなものを知っているのかと疑い気味の駅員だったが、あまりの騒ぎ様に見かね、結局電話をかけることにした。
それを取ったのが佐野だったらしい。
佐野は駅員越しにことの顛末を聞き、すぐに俺が冤罪であることを見抜いたらしい。
それからは彼に頭が上がらない。
すぐさま事情を上司に伝え、会社を抜け出した彼は俺の冤罪を証明するべく女と戦ってくれたらしい。
結果として女の携帯からは俺の写真が大量に出てきたとのことで、つまるところ、女は俺のストーカーだった。
痴漢冤罪をかけようとしたのは、俺に自分のことをどうしても知ってほしかったから。
いつも何処かで話しかけようとしていたが、掛けられずにもどかしい思いをしていたこと。
今朝はその思いを断ち切るために、決意の結果あのような行動に出たということ。
最後には涙を流しながら、洗いざらいすべてを話したらしい。
因みに、着信に関しては途中から完全に無視していたから気が付かなかったが、その多くは佐野発信のものだったらしい。
そして佐野は最後に、ここに来た理由を「お前ならどうするかって考えたんだよ」と得意げに話した。
すべてを聞き終えた時、俺は呆然としていた。
そうだったのか。
それは可哀想だな。
乙女の純情な恋心が起こした悪戯であったのなら、
万が一痴漢冤罪でお縄についていたとしても、仕方がなかったとしか言いようがない。
今回はすべて、水に流すことにしよう。
一件落着。
ちゃんちゃん。
と、なっていた訳では無い。
むしろ、俺は怒っていたのだ。
まず第一に、女の話した動機の軽薄さに怒りを覚えた。
その時の俺の脳内は、こうだ。
なんだその訳のわからない動機は。
あなたのことが好きだから痴漢冤罪をかけようとしました?
理解不能。
1つも意味がわからない。
涙ながらに語られても困る。
というか、そんな汚い涙を流すな。
女の涙は武器だが、お前のそれはきっと腐った油の匂いがしたに違いない。
そんなもので同情を買えると思ったのか。
残念ながらお前が買ったのは同情ではなく喧嘩だ。
ストーカーだか恋だか何だか知らないが、やられっぱなしのまま終わるわけには行かない。
問答無用で訴訟だ。
何より、そんな生意気な女はこの社会から滅殺してやらなきゃいけない。
既に奴は聴取を受けに警察に連行されたらしいが、それだけでは気がすまない。
これから追い打ちをかけてやる。
と、とにかく悪態が止まらなかった。
それから、追い打ちの決意をした俺は佐野の脇をすり抜け、そのまま出口の方向に向けて一目散に駆け出した。
店をあとにする直前、背後から佐野の声が聞こえた。
が、笑顔で「助かった。」とだけ伝えて、俺はその場をあとにした。
公道に出ると、平日の昼間だと言うのにえらい人だかりが出来ていた。
どうやら近くでバンドのライブか何かがやっているらしい。
しかし、俺の行く先は当然そこではない。
目指すはここから少し外れにある、とある弁護士事務所だ。
知り合いに、そこで働く敏腕弁護士がいる。
なに。
やることと言ったら、ただの一つに決まっている。
そいつに事情を話し、状況を整理し、あの女から大金を巻き上げるのだ。
そうなりゃ、ピンチから一転、俺は晴れて大金持ちだ。
確かあの女の手には高級そうなブレスレットが付いていた。
まさか向こうから金鶴が寄ってくるとは。
こんなに美味い話は他にない。
さてと。
そうと決まれば早速電話だ。
もう5分もあれば現場に辿り着くが、そこまで待っちゃいられない。
すぐさまダイヤルを打ち込み、着信ボタンを押す。すると、5秒も経たずに発信音が止まった。
「堺、仕事の時間だ。今回の魚はでかいぞ。」
そう、何を隠そう、俺は天下の当たり屋だ。
自分が当たられる日が来るとは思ってもみなかったが、当たられた時の対処も、俺は誰より知っている。
わざとであろうが何であろうが、俺はただでは転ばない。起き上がるときは、大金を手にした状態で。
どこぞの弁護士ドラマの受け売りではあるが、そう。
やられたら倍返し。やられてなくても倍返し。これが俺の流儀なのだ。
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