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「愛」とはなにかを問い続ける一木けいの新たな代表作『9月9日9時9分』 9月9日記念試し読み#2


9999書影(仮)

特別掲載『9月9日9時9分』冒頭試し読み #2
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「西校舎の二階だよ」
 職員室の場所を訊かれて答えたら、印丸はニッと笑った。
「まだ日誌取ってきてないんだ。れんれんついてきてよ」
 日直の役割分担は昨日のうちに決めていた。日誌を取りに行くのは印丸。書くのは私。なのに印丸はまったく悪びれる様子もない。
 渡り廊下を並んで歩く。印丸は、となりに立たれても全く緊張せずに済む男子だ。陸上部の見学に行ったとき話しかけられて、それ以来、雨天の筋トレ場所はどこかとか、朝練は自由参加と言われたがぜんぶ休んでもいいのかとか、部活のない曜日にみんなで遊ぶとしたらどこがいいかとか、訊かれるようになった。
「へー、れんれんってお姉ちゃんいるんだ」印丸が感心したように声をあげた。「一人っ子だと思ってた」
「よく言われる。離れて暮らしてる期間が長かったから。年もすごく上だし」
「お姉ちゃん、どんな人?」
「……感受性の豊かな人」
 今朝も姉は五感をフル稼働させながらリビングに入ってきた。足の裏の感触でフローリングの温度を計測するような用心深さだった。そんな姉に私は、クラスで流行っているギャグ漫画の話をした。あ、それ読んだ、と言った姉の声は軽やかだった。あれがデビュー作なんだよね。センスあるよね。話の運びとかユーモアがすごく新しいって感じる。
 笑っている姉を見ると、ほっとする。タイへ行く前はそんな風には思わなかった。姉が笑っていたら私もうれしい、ただそれだけだった。同じ人の同じ笑顔を見て、感じ方が変わるということがあるだろうか。それとも同じ人だけれど違う笑顔だから感じ方も変わったのだろうか。とりとめもなく考えながら歩いていると、ふいにひとりの男子生徒に視線が吸い寄せられた。
 化学の教科書を携え、こちらへ向かってゆっくり歩いてくる。
 爬虫類だったころの遺伝子が色濃く残っている人だな、と思った。それが第一印象だった。彼の骨ばった顔は三角形の組み合わせでできていて、とても目立った。一度見たら目が離せなくなった。
 渡り廊下を行き交う生徒の中で、彼だけが、他の誰とも違う光を放っている。
 長い間離れていた故郷に、やっと帰れたような心持ちがした。私は彼を根っこの部分で深く知っているし、私たちのあいだには縁がある、根拠もなくそう思った。
 そして不思議なことに、ぜんぜん知らない、異質な人だとも感じるのだった。
 ほっとするのに落ち着かない。知らないから知りたい。でもいったい、彼のどこを見てそう感じるんだろう。どうして懐かしく思ったりするんだろう。
「オレ年子の弟がいるんだけどさ、来年あいつもこの高校受けるらしい。家から近いっていう、ただそんだけの理由で」ハハッ、と印丸は能天気にしゃべり続ける。「あいつよくこの辺うろうろしてるから、れんれんも見たらすぐわかると思うよ。オレら双子に間違われるくらいそっくりなの」
 彼はもうすぐそこにいた。上履きの先端の色は緑。襟に2Cのクラス章が付いている。細長い手脚と、体温の低そうな肌。笑っていないのに笑窪がある。もしかすると笑窪ではなく、単に痩せすぎて余分な肉がないだけかもしれない。彼の瞬きはゆっくりで、回数そのものが少なかった。
 すれ違う直前、視線が激しく衝突した。
 心地好い風が吹き、木漏れ日を揺らめかす。
 反射的といっていいくらい素早く、脳にルンピニ公園の景色が広がった。
 極彩色の花びらがふるえ、どこからか炭火焼のガイヤーンの香りが漂ってくる。
 その公園へ行くのは、決まって休日の朝だった。ピンと尖って瑞々しい岸辺の草を踏み、つめたい朝露で足をぬらした。歩き疲れて小腹がすくと、屋台で食べ物を買った。父はシーフードのお粥、母は緑の酸っぱいマンゴー、私はロティ。上品で豪華な日本のクレープもおいしいけれど、カリカリで練乳たっぷり、甘い甘いタイのロティが私は大好きだった。どぼんと何かが水へ落ちる音がして顔を向けると、恐竜みたいなオオトカゲが頭だけ出して、ゆっくりと向こう岸へ泳いでいく。私はその、悠々たる後ろ姿を見送る。ゆったりとした時の流れ。ルンピニ公園には私の好きなタイ生活が詰まっていた。
 足を止めて、振り返る。
 オオトカゲが遠ざかるみたいに、彼の背中がどんどん小さくなっていく。


 翌日は、家族からびっくりされるくらい早朝の電車に乗った。男はもういた。その次の日は遅刻ぎりぎりの時間にホームに立った。男はまだいた。
 車輛を替えても次の電車を待ってもだめだった。耐えられなくなって用もない駅で降り、キオスクに避難しようと階段を上っていたら、スカートの後ろがめくれ上がる気配があった。手の感触ではない。鞄か何かが当たっているのだろうと手で下げながら振り返ったら、あの男が傘を使ってスカートをめくっているところだった。短いレギンスを穿いていたけど、気持ち悪くて泣きそうになった。
 涙をこらえホームで俯いていると、どん、と強い衝撃を受けた。慌てて壁に手を突く。邪魔なんだよ。白髪の男が吐き捨てるように言って私を睨みつけた。男が去った場所に、若い係員が立っている。藁にも縋る思いで、私は持てる限りの勇気をかき集め、その係員に痴漢の話をした。
「持ち場、離れられないんで」
 彼は面倒くさそうにそう言い捨てた。痴漢は現行犯じゃないと捕まえられないとも。
 誰もたすけてくれない。一人ぼっちだ。
 タイにいる頃、私は痴漢について真剣に考えたことが一度もなかった。日本にはそんな気色悪いことをする人がいるらしい、と耳にしたことはあったけど、現実味はなかった。痴漢なんて都市伝説くらいに思っていた。
 いくら陸上部に入りたかったからとはいえ、どうして電車でしか通えない高校を受験してしまったんだろう。
 本帰国して一年と少し通った公立中学は、自宅から歩いて五分の場所にあった。日本の生活に不慣れな私を案じて、両親がそういう場所に家を探してくれたのだ。高校も、もっと近くを選ぶべきだったのか。
 放課後、部活が始まる前に、交番へ相談に行ってみることにした。駅西口の噴水を通り、高架下をくぐって東口の交番に入った。毎朝ついてくる男の話をすると、年配の警官は笑いながら、「あなた、痴漢に遭いそうな顔してるもん」と言った。
 驚きのあまり言葉をうしなった。
「ちょっと」と若い警官が慌てて止めたが、世界中から突き放されたような気持ちになった。
「お友だちといっしょに乗るか、通学経路を変えたらいいと思いますよ」取り繕うように若い方が言った。
 落胆した。自分では思いつかないような一発逆転の提案をしてほしかった。
 父と同じバスに乗り、途中で地下鉄に乗り換える。この案はとっくに考えていた。時間もお金も余計にかかるが、やはりそれしかないのだろうか。でももし、地下鉄で痴漢に遭ったら。また経路を変える? いったいいつまでそんなことを繰り返せばいいのか。私は安心して学校に通いたいだけなのに。
 とりあえず地下鉄の定期代を調べてみようと、今度は地下鉄の駅を目指し歩いていると、見知った顔が目の前を横切った。
「米陀さん!」
 ぎゃっと叫んで、彼女がおそるおそる振り返った。
「びっくりさせちゃってごめん」
 そんなに驚くなんて。肩に触れようと手を伸ばしたら、すっと身体をひかれた。眉間に深い皺が寄り、唇は固く結ばれている。
「おうち、この近く?」
 米陀さんが首を横に振った。
「どの辺?」
 彼女が口にしたのは、私の家から徒歩圏内の場所だった。
「えっ、じゃあ、電車通学?」
 米陀さんが無言でうなずく。
「やったー! 今度、待ち合わせていっしょに乗ろうよ。私、毎日痴漢に遭って最悪なの。米陀さんは平気? あ、あと私の家、米陀さんの家から川を渡って、坂を上ったところにあるんだ。よかったら、今度遊びに来てよ。米陀さんが遊びに来てくれたら、うちのお母さんすごく喜ぶと思うんだ」
 真意を測るように、米陀さんは私をじっと見つめた。
 そして突如、急ぎ足で歩き出した。電車の駅とは正反対の方向に。
「どうしたの?」
 並んで歩きながら尋ねる。
「べつに」
「まだ帰らないの?」
 無言。米陀さんはどんどん歩くスピードを速める。硬い横顔に問いかけた。
「パイナイカ?」
 米陀さんがぴたりと足を止めた。よかった。やっと話せる。そう思ったのに、ゆっくりこちらを向いた彼女の顔に浮かんでいたのは、怖れだった。
 どうしてそんな表情をするのだろう。タイ語をちょっと話しただけなのに。
 もしかして、なぜそのことを知っているか不審に思ったのかもしれない。
「印丸に聴いたんだ」慌てて説明した。「米陀さん、印丸と同じ中学だったんでしょ? 私ね、実は、中二までバンコクに住んでたの。だから、米陀さんと」
 仲良くなりたいと思ってたの。よかったら連絡先交換しない? なんて言う隙も与えず彼女はすでに走り出していた。

 米陀さんの席に、同じ陸上部の曜子が座っている。走り高跳びをやっている彼女の脚は、見惚れてしまうほど長い。ポニーテールの下の首はすっと伸びて美しく、姿勢も肌も、声もきれいだ。私はひそかに彼女をパーフェクト曜子と呼んでいる。知的でミステリアス。ひとりでいることを好む子に見えたから、はじめはちょっと近寄りがたい感じがした。でもいざ話しかけてみると気取ったところは一切なく、ひとりでいたのも『同じ中学出身の子が少なくて、実は緊張してたの』と恥ずかしそうに告白してくれた。欠点のない人っているんだな。曜子といると、しみじみそう思う。
 先日の復習テストも曜子は、理科を除いてほぼ満点だった。理科だけは苦手なんだと悔しそうにしていたが、その理科ですら私より二十点も高かった。そういうのは苦手とは言わないと思う。私なら大喜びで教室を駆け回る。私の唯一の得意科目である英語も、八点負けた。
 今日の二時間目はオリエンテーションの続きで、図書室を見学した。司書さんが新入生のために、図書室の利用方法や楽しみ方をていねいに教えてくれた。私にはあまり縁のなさそうな場所だなと思った。曜子はそっと本の背表紙に触れ、中身を見る前からそれが自分にとって大切なものになるとわかっているみたいに、注意深く取り出し、ページをめくっていた。文字を追う黒目の動きが冗談みたいに速かった。心理テストの本を開いてどうでもいいことを話し、げらげら笑って担任に叱られた私や印丸とは大違いだ。
 私の机の上で、曜子がファッション雑誌をひらいた。ポーチの中身、コスメ特集、ヘアアレンジ。私たちの周りに女子が集まってくる。米陀さんの姿は見当たらない。米陀さんは授業終了のチャイムが鳴るといつもどこかへ行ってしまう。お弁当の時間も教室にいない。
「曜子、ポニーテール似合うけど、たまにはこういう髪型もいいんじゃない?」バスケ部の子が雑誌を指差した。
 ハーフアップ。確かに似合いそうだ。曜子は一言、髪のことを考える時間がもったいないから、と答えた。
 そういえば、バンコクで帰国直前まで担任だった安良田先生も、ヘアスタイルを変えない人だった。旅好きで、今後もいろんな国で教師をする予定だという彼女は、『どこの国で暮らしてもそれなりに整う、美容院で必要な単語が少ないシンプルな髪型がベスト』と言っていた。髪型ひとつにいろんな考え方があるものだ。
「漣は好きな人いないの?」
 曜子が指差したのは、恋愛特集のページだった。いないよと笑って答えながら、頭には渡り廊下で出会った先輩の顔が浮かんでいる。
 あの日以来、校内で何度か見かけていた。彼が視界に入ると一瞬で意識がかっさらわれてしまう。中庭を歩いているのを発見したときは、教室のある二階から、姿が見えなくなるまで目で追った。彼の髪の毛は真っ黒ではなかった。かといって染めたり脱色している色ではない気がする。少し色素が抜けたその髪に、ふれてみたいと思った。誰かに対してそんなふうに感じるのは生まれてはじめてで、自分はどうかしてしまったんじゃないかと不安になった。先輩の顔は、斜め上から見ると頬と鼻の高さが際立って、オスの爬虫類という感じがした。
 運よくすれ違えるときもあった。彼はたいていひとりでいた。何かの拍子に彼がこちらを向いて視線が交錯したとき、勇気を出してほほ笑んでみた。タイで暮らしてよかったと思うひとつが、目が合った人に笑顔を向けられるようになったことだ。
 けれど彼は、私の顔を見るなり視線を逸らした。顔の筋肉ひとつ動かさず。
「あなたと彼はどんな段階?」曜子が雑誌を淡々と読み上げる。「まずレベル1、苗字にさん付けで呼ばれている、SNSで繋がっていない、すれ違ったら会釈する程度」
 私はレベル1ですらない。
 名前を呼ばれるどころか知らないし知られていないし、SNSをやっているかなんて知る由もない、会釈も何も目が合うなり顔を背けられる。段階以前に、嫌われている可能性が極めて高い。でも、その理由がわからない。
「レベル1のあなたは、まず連絡先を交換するところからはじめよう。正直に、でも重たがられない程度に、仲良くなりたいという思いを伝えましょう」
 何か気に障ることをしてしまったのだろうか。それとも単に、生理的に苦手なタイプとか。だとしたら手の打ちようがない。
 これちょっと矛盾あるね、と曜子が言う。
「苗字にさん付けで呼ばれててSNSで繋がってなくて、すれ違ったら会釈する程度でも、通じ合ってる可能性はあるよね」
「そう?」
 意味がよくわからない。頭がとろんとする。
「こんな、物事の外観だけ見て判断できっこない」
 曜子またなんか難しいこと言ってる、と女子たちが笑う。
 暗いことばかり考えてしまうのは痴漢のせいか、それとも生理前だから。もしくは空腹だから。よし、お腹を満たそう。
「ちょっと購買行ってくるね」
「私も」曜子が腰を上げる。「お手洗い」
 いってらっしゃーいとクラスメイトに手を振られながら教室を出て、トイレの前で曜子と別れ、階段を降りた。昇降口そばにある購買部は、早弁をする生徒たちで混みあっている。
 あ、と声が漏れた。まどろんでいた脳が一気に覚醒した。
 後ろ姿でもうわかる。青みがかって白い、清潔そうな襟足。先輩はチョコチップメロンパンとお釣りを受け取ると、購買の人に短く頭を下げ、のっそりと西校舎の方へ歩いていく。
 なんて崇高な横顔だろう。どの角度から見ても艶めいている。
 ほんとうの感情の操り人形になったみたいだった。歩くとか歩かないとか考えるより前に、勝手に脚が彼に向かって動いていく。
 西校舎一階の廊下を、彼は大股で歩いた。尖った肩に、骨張った腰回り。自分とは別の種の生き物という感じがする。窓から吹き込む春風が彼の髪を揺らすたび、胸がくすぐったくなった。
 突き当たりの来校者入口まで来たところで、ひと気が途絶えた。あの、と発作的に呼び止める。
 肉の削げた顔が、ゆっくりとこちらを向いた。
「連絡先を交換してくれませんか」
 視力の低い人がするように、彼は目を細めた。その顔からは強い拒絶の感情が読み取れた。理解不能、と言いたげだった。
 彼が怪訝そうな表情でじっと考え込んでいるあいだ、私は緊張のあまり呼吸を忘れていたと思う。
 長い沈黙のあとで、彼がやっと口をひらいた。
「交換って、何のために?」
 はじめて耳にする彼の声は想像していたより低く、床を伝い私の足首に絡まりふくらはぎから腿を猛スピードでのぼって全身を一気に包み込んだ。
 何のためにって、そんなことを訊かれていったいなんと答えたらよいのだろう。
「仲良くなりたいなと思って」
 さっきの雑誌の言葉をそのまま口にすると、彼の眼差しの温度がさらに下がった。
「自分が何言ってるかわかってる?」
「お友だちに、なれませんか」
「無理に決まってるでしょう」
 被せて言う薄茶色の瞳は、直後切り裂くような目つきに変わり、彼は私に背を向け行ってしまった。

試し読み#3 へつづく〉

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