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家族を裏切ってまで、どうして愛してしまうのか。一木けい最新作『9月9日9時9分』 9月9日記念試し読み#3

9999書影(仮)

特別掲載『9月9日9時9分』冒頭試し読み #3
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 お風呂上がり、リビングへ行くと、父と姉はそれぞれソファで本を読み、母はその足許で音楽を聴いていた。テレビは滅多に点けない。暗いニュースや騒々しいバラエティ番組を姉が好まないから。
 冷蔵庫からラムネアイスを取り出して開封し、口に入れた瞬間、母と目が合った。
「もしかして、お母さんの?」
 もごもご尋ねると、母は笑顔で「仕方ない。漣にあげるよ」と言った。
 私はすかさず右手を挙げた。
「この手は、悪い子の手?」
 明るく笑う母の奥で、父が苦笑している。
 悪い子の手、というのは家族だけに通じる悪趣味なジョークだ。
「笑えるようになってよかった」と姉が安心したように言った。
 あの事件が起きたのはタイへ引っ越す直前。当時、保育園のお迎えに来てくれるのは、母より姉の方が多かった。すっきりとした笑顔で、大きく手を振りながら歩いてくる姉。友だちもみんな、まどちゃんまどちゃんとなついていた。明るく人気者の姉が、私は誇らしかった。
 三月頭のある日、保育園へ迎えに来た姉に、園長先生が硬い声で告げた。
『ちょっとお話ししたいことがあるので、お母様に、明日来ていただくようお伝え願えませんか』
 どきん、と心臓が痛くなった。あのことだ、とすぐにわかった。いまここで姉に話すのではだめなのだろうか。姉から母に伝わるのであれば、園長から母に伝わるよりよっぽどいい。そう思ったが先手を打つように園長は『漣ちゃんの将来に関わる、とても大事なお話なんです。お姉さんではなく、お母様にいらしてもらわないと困ります。お願いしますね』と念押しした。
 階段に置いてあった、色とりどりのあられ。ひな祭りのときにみんなで食べるものだということはわかっていた。でもあんまりきれいで、おいしそうで、しかも袋の端っこがちょうど手を入れられるくらいの大きさに開いていて、どうしてもさわってみたかった。周りには誰もいなかった。だめだとわかっていながら、好奇心に負けた私は、ひとつぶだけつまんで取り出してみた。砂糖で指にぺったりくっつく、かわいいあられ。鼻に近づけて匂いをかいでみた、そのとき。
『なにしてるのっ!』
 物凄い力で手首を掴まれた。園長は私の手を高く掲げ、耳がきんきんするような声で怒鳴った。
『どうして勝手に開けたりするのっ』
 悲しいとか怖いと思うより前に涙がこぼれていた。集まってきた友だちが不思議そうな顔で私を見ている。ほかの先生たちもじっとこちらを見つめている。
『これは、みんなのものでしょう? 勝手に食べるなんて、泥棒のすることだよ。この手は悪い子の手だよ!』
 私が開封したのではないし、まだ食べてない。そう主張したが園長は信じてくれなかった。こんなにたくさん食べておきながら、と私の顔前に袋をつきつけた。担任の先生を見ると、彼女は眉毛を下げてつらそうな顔をしていた。山の話をよくしてくれる快活な先生だったが、このときはずいぶん縮こまっていたような記憶がある。
 アイスを噛んだら、ラムネが口のなかに砕け散った。
「園長先生の言い方は今思い出しても胸が痛くなるな」と母が言った。「『あんなところに置いておいた私たちも悪かったかもしれませんけど、まさかわざわざ開けてまで食べる園児がいるなんて思いませんもんね』って」
「漣が家でちゃんとごはん食べてるかどうかも訊かれたんだよね?」姉が忌々しそうに言った。
「そうそう。それで私も、はいって言っとけばいいのに、『たぶん。いえ、しっかり食べているはずです』なんて言っちゃったもんだから、大きなため息つかれて」
 仕事を早退して迎えに来た母に、園長先生は言った。
『子育てって、たぶんとかはずではだめなんですよ。わかりますか? 人ひとりの命を預かっているんです。犯罪でもなんでも、基本は家庭です。お母さんの愛情をたっぷり受けて、きちんと向かい合ってもらった子は、警察のお世話になることなんかありません。子どもはよく言うでしょう? お母さん見て見てって。子どもは、お母さんに見てほしいんですよ。ほかのことをせずに、ちゃんと自分だけを見てもらいたい。それが叶ってはじめて、生きていく力を得るんです。お母さん。盗みっていうのは、愛情の欠如の表れですよ。子どもから母親への、愛してほしいっていう必死のSOSなんです。わかります? 教育界では常識なんですけど』
「ひどすぎるよね」と姉が言った。
「ね。私、話の内容はあんまり理解できなかったけど、ひどいこと言われてるのはわかった」
「えっ、どうして?」母が目を丸くした。
「こっそりテラスで聞き耳を立ててたから」
 そうだったんだ、とつぶやいて母は気まずそうにした。まさか泣いているところを見られていたとは思わなかったのだろう。母が頭を下げるごとに押し潰されそうな気持ちになったこと、母の涙が手の甲にこぼれ落ちるのを見て、もうやめて! と叫んで教室に入って行きたかったこと。悪い子の手を笑えるようになっても、それらはまだ話せないし、母の涙を笑える日なんてこないだろう。
「でもね、図星を衝かれた部分もあったの。漣にとってお母さんはたった一人。そしてそれは、まどかにとっても同じ。遊びたいさかりにいつも妹の世話をさせられてお姉さんがどんな思いでいるか、考えたことありますかって言われて。確かにそうだなって反省したのよ」
「それは私がいいと思ってやってたんだからいいじゃない。今日保育園で何をしたとか、ごはんは何を食べたいとか、コンビニでお菓子買っちゃおうとか、そんな話しながら漣のちっちゃい手を握って歩くの、凄く楽しかったよ」
 そうだ。姉はそんな事件があった次の日も、楽しい一日にしてくれた。
 保育園でひな祭りパーティがひらかれる日の朝、目が覚めると、お腹がきりきり痛かった。泣きすぎたせいで瞼は腫れ、頭がぼんやりしていた。
『お休みしたい?』
 困り顔の母に尋ねられ、わからないと答えた。
『様子見て、もし行けそうだったら私が連れて行くよ』明るい声で言ったのは姉だった。『大丈夫、大丈夫。さっ、お母さんは心配しないで仕事行ってきて!』
 玄関で姉が母を見送っているあいだ、私は布団のなかで腹痛に顔をしかめていた。
 保育園に行ったとする。どんな顔をしてひなあられを食べたらいいのだろう? またみんなの前で叱られたら。もしも、友だちに泥棒と指をさされたら。
 どんなに想像しても、いい一日にはなりそうもなかった。きっとおいしくないし楽しくない。歌なんか歌えない。笑えない。もう保育園に、行きたくない。
『で、どうする?』
 部屋に戻ってきた姉がにっこり笑って訊いた。私は、正直に言った。
『きょうは、おやすみしたい』
『漣、ひなまつりパーティずっとたのしみにしてたじゃない。お歌もうたうんでしょ?』
『でも行きたくないの。どうしても、行きたくないの。おねがい、お姉ちゃん』
 声をあげて泣いてしまった私を、姉が抱きしめた。背中を撫でてくれる柔らかい掌。少しずつ呼吸が落ち着いていく。ずいぶん長い間そうしてから、姉が口をひらいた。
『漣は今日、何したい?』
 今日したいことは、すぐ思い浮かんだ。
『お姉ちゃんとお買い物に行って、おうちでひなまつりのケーキをつくりたい』
 それから二人で出かける準備をした。単なる身支度ではなかった。『今日は特別な日だからね』と言って、姉は私の髪を結い、服も可愛く仕上げてくれた。メイクをする姉にじっと見入っていると、うすいリップまで塗ってくれた。
 手を繋いでスーパーに行った。食材だけでなく、飾りつけのための折り紙やモールも買った。よく晴れた、とても心地のいい春の日だった。家に帰ると姉は窓を開けて風を通し、パソコンを立ち上げた。それはタイに赴任する直前、父が姉に贈ったクリスマスプレゼントだった。パソコンにお気に入りのCDを入れて楽しい音楽をかけ、顔に薄力粉をつけて、大笑いしながら料理した。いつのまにか腹痛はきれいさっぱり消えていた。時々、白い春風がレースのカーテンを揺らした。
 母が帰ってくるころには味見のしすぎで二人ともお腹いっぱいになっていて、母はそんな私たちを呆れたように笑いながら、安堵した様子でもあった。その表情に、私のほうがほっとした。お母さんもお姉ちゃんも大好きだから、もう悲しませたくない。心の底からそう思った。
 翌日保育園へ行くと、同じ組の男の子が靴を脱いでいる私のところへやって来て、『ひなあられを開けて食べたのはあの子だよ。ぼく見たもん』と園庭のジャングルジムで遊んでいる女の子を指差した。彼の目は真っ赤だった。
『れんちゃん、ごめんね。あのときすぐに言えなくて、ごめんね』
 謝ったあとで男の子はぐっと拳を握りしめて、鉄棒の方へ力強く駆けて行った。担任の先生は、男の子の訴えを聴くと細身の体をさらにきゅっと縮めて、明らかに『困ったな』という顔をした。男の子は肩を大きく上げて、下げて、深呼吸してから、今度は園長先生のところへ走った。園長が顔を上げてこちらを見た。目が合って、すぐ逸らされた。その後、園長がひなあられの話をすることはなかった。
 姉がいなかったら、ひな祭りという行事そのものが嫌いになってしまったかもしれない。
「その後電車はどう?」
 姉に尋ねられ、私はラムネアイスの棒を捨てながら笑顔で答えた。
「うん、交番に相談に行ったし、同じ電車で通ってる友だちを見つけたから、たぶん大丈夫」
「それならよかった」
 姉は弱々しく笑って、戸棚から薬局の袋を取り出し、錠剤を三つ、掌に載せて水といっしょにのんだ。それから「あのね、漣」とこちらに鋭い視線を向けた。
「あのあとずっと考えてて思い出したんだけど、私の友だちは高校のときいつもシャーペンを握りしめて乗ってたよ。触られたらぶっ刺すんだって」
 やだ、と母が声を張った。
「そんなことしたら逆恨みされそうで怖いじゃない」
「じゃあ、やられっぱなしで耐えろって言うの?」姉が眦を上げる。
「痴漢に遭ってる娘に『耐えなさい』なんて言う母親がどこにいるのよ。ただやり方がね」
「それなら、ぶっといマジックペンで手の甲に印をつけてやりな。もちろん油性だよ。慌ててごしごしやってる奴がいたらそいつが犯人だから」
「だからそれも、やり方が」
「それで、近くに住んでる友だちってどんな子なんだ?」
 尖りかけた空気を包んで温めるような声で父が訊いた。
 私は、交番近くでの出来事を三人に話した。姉を刺激しないよう、米陀さんの様子がおかしかったことについてはぼかした。
「パイナイカって何」
 家族の中で、姉だけがタイ語を知らない。
「どこ行くの? って意味だよ」
「誰でも知ってるようなタイ語なの?」
「うん。タイ人に会うといっつも訊かれた。レン、パイナイカ? って」
「そんなこと会う度訊かれても困るよね」
 姉はそう言うと、冷蔵庫を開けていりこを取り出した。確かに今の姉なら辟易するだろう。返事すらしないかもしれない。
 姉の意識が痴漢からタイ生活へ逸れたことに安堵しつつ、私は補足した。
「でもね、答えは適当でいいんだよ。『ちょっと用事』とか『あっち』とか。それ以上突っ込んでこないから」
「へえ、そんなんでいいの。それにしても漣、どうしてその友だちにタイ語で話しかけたりしたの?」
「米陀さんのお母さん、タイ人なんだって」
「あらっ」母がうれしそうに顔を輝かせる。「じゃあぜひ今度遊びに来てって伝えてよ」
「伝えたよ」
「なるほどね」姉はいりこの頭を取り、水を張ったボウルに入れると、キッチンを出ていった。
 干した魚の香りが、鼻孔をくすぐる。
 そういえば修一さんはこの匂いを嫌悪していたな、と思い出す。

 姉の結婚式の翌年。一時帰国した際、私はひとりで彼らの新居へ泊まりに行った。駅近くに建つ新築マンションはロビーからしてすでに高級な香りが漂っており、怖気づくほどだった。
 姉と私が家に入ったとき、修一さんは不在だった。クリーニング店に行っていると聴いたような気がする。室内は蛇口からグラス、窓やフローリングに至るまですべてが完璧に磨き上げられていた。いっしょに暮らしていたころの姉の部屋は、大抵散らかっていたのに。もしかして修一さんがお掃除しているのかな、それとも結婚したから頑張っているのかな、などと考えながら、つるつるの廊下を何往復もすべって遊んだ。
 ふと気がつくと、玄関のドアが開いている。
 巨大な影が一歩前に進み、私の上に覆い被さってきた。
 まず目に入ったのは、父の弁当箱みたいに大きな運動靴だ。きれいな蝶々結び。かつて目にしたどの紐よりきっちりとして、完璧な左右対称だった。日本のどこに売っているのだろうと思うほど長尺なジーパン。ケーキの箱を持つ、血管の浮いた大きな手の甲。
「いらっしゃい。大きくなったね」
 修一さんは穏やかな声で言って、腰をかがめた。
「今度、四年生だよね」
「はい、そうです」
 母によく言い聞かせられた通り「ですます」で喋って、おじぎした。
「おりこうさんだね」
 頭に手が置かれた。重く、湿った掌。視線がぶつかる。笑っているけれど、淋しそうな目。
 修一さんは、一年前とどこか違って見えた。ほっそりしたような気がしたし、目の下には濃い隈があった。
「漣ちゃんの好きなケーキは、モンブランとショートケーキとレモンタルト。合ってる?」
「はい」さすが、と思いながらうなずく。
「全部買ってきた」
 そっと口角を上げ、修一さんは元通りの背の高さになって、廊下を歩いていく。フローリングの、緩慢に軋む音。私や姉が歩いてもたたない重々しい足音が、妙に耳に残った。
 姉が料理をしているあいだ、修一さんはずっとゲームをしていた。時折悔しそうな声を上げたり、ていねいな手つきでリモコンを整えたり、早口に何か言って笑ったりした。私は姉にまとわりつくようにタイでの生活を話していた。
 あの晩、姉が作ってくれたのはうどんすきだった。お肉も野菜もいっぱい入った、豪華な鍋。他にも焼き魚や、何かの貝をバターで炒めたものなど、タイではなかなか食べられない料理がテーブルに並んでわくわくした。
「お姉ちゃん、お料理上手だね」私が言うのと、
「俺がこっちなの?」修一さんが気色ばんだのは、同じタイミングだった。
 私の声などあっさりかき消された。隣に座る修一さんを見る姉の顔には困惑が浮かんでいた。
 あのさあ、と修一さんが長い指で焼き魚を示す。
「ふつうは主が御頭の方でしょう」
「あ、ごめんなさい」
 姉は即座に謝り、お皿を素早く取り替えた。
「私は尻尾の方が食べるところが多くておいしいと思うから、こっちをあなたのにしちゃったの」
 私も尻尾の方が好きだなあと思って姉に目を遣ると、姉もこちらを見ていた。視線を合わせたまま、肩をすくめて苦笑する。修一さんは何か言いかけるように口をひらいたけど、結局黙って閉じた。
 とても気詰まりだったことを憶えている。それまで感じたことのない種類の窮屈さだった。
「あとさあ」
 修一さんが脈絡なく大きな声を出した。向かい合う姉と私の肩が同時にびくっと跳ねた。
「この鍋、しょっぱすぎるよ」
「ごめんね、レシピ通り作ったつもりだったんだけど」
「これじゃ醤油のんでるのと変わんないよ。それにさ、だし、なにでとった?」
「いりこだけど」
「やっぱなあ! いりこだしって臭いよね!」
 修一さんの声も身体も、夕食前よりひと回り大きく膨らんだみたいだった。姉に目配せしようと思ったけれど、姉はもう私を見てはくれなかった。
 私の母は、いりこだしで味噌汁を作る。バンコクの日系スーパーでもカタクチイワシの干したものを売っていたから。家族の好む具材を選び、栄養バランスも考え、毎朝早くから料理してくれる母までばかにされたような気がした。
「ほんとうの大阪料理ってこんなんじゃないんだよなあ」
「うどんすきって大阪料理なの?」
「だからそう言ってるじゃん。そんなことも知らないで作ってたわけ? 俺むかし大阪の女の子と付き合ってたからわかるんだよ。関西のだしって、なんていうか、もっと上品なんだよね」
 姉はこめかみを軽く押さえ、そうなんだ、と笑顔を作った。
「ごめん。じゃあカツオとか昆布だしかな」
「少なくともいりこではない」半笑いで、修一さんは断言した。「あーもう、もみじおろしもないし、これじゃぜんぜん別の料理だよ」
 父がもし万が一、何かの間違いでこういう内容を口走ったとしたら、母は「じゃあ自分で作れば?」と怒って即座に席を立つ。いや、その前に、「そんなこと言うなんてどうしたの? なにかあった?」と尋ねるだろう。
 姉はそうしなかった。ただ黙っていた。笑ったり怒ったり、急に大声を出したりする修一さんと同じテーブルで、私たちはうつむいていた。おいしい料理が目の前にあるのにお腹がいっぱいになってしまって、何かを口に入れて噛んでも、うまく喉をおりていかないような感じがした。

「その米陀さんて子と仲良くなれたらいいね」と母が言った。
「私もそう思うんだけど。最後、急に走っていっちゃったんだよね。どうしてだろう」
「そうねえ、よっぽど急いでたか、虫の居所が悪かったか」
「いきなり距離を詰めようとしちゃった私もよくなかったかも」
「まあ、とりあえず明日の朝また、元気におはようって言ってみたらいいよ」
 そうだねとうなずきながら、私はさっと周囲を確認して、ひそひそ声で尋ねた。
「そういえば修一さんって、いまどうしてるのかな」
 一瞬で空気が凍りついた。慌てて両親の顔を見る。
 母の頬は強張り、父は無表情だった。
「よく……知らないけど」口をひらいたのは母だった。「今もQ市で生活してるみたい」
「あの豪華なマンション?」
「たぶん、あそこは売ったと思う」
「再婚したのかな? けっこうハンサムだったよね、修一さんって。脚も長くて。でもちょっと」
「漣」
 父が遮った。いつの間にかダイニングに戻ってきた姉が、今まさにスツールに腰かけようとしているところだった。キッチンカウンターの端を、指先が白くなるほど強い力で掴んでいる。
 姉の顔からは、完全に血の気が引いていた。涙袋の辺りがピクピク痙攣している。
「まどか」
 父が声をかけるのと同時に姉は勢いよく床に降りた。その拍子に派手に倒れたスツールをさらに蹴って、姉はダイニングを出ていった。
 ああ、と頭を抱えたくなる。パンドラの箱を開けてしまった。姉がいたとは思わなかった。
「……修一さんの話って、まだしちゃだめなんだね」
「だめってことはないけど。うーん」母は気まずそうに笑った。「まどかの前ではしない方が無難かもね。漣には気を遣わせちゃって申し訳ないけど」
「三年も経ってるのに?」
「『も』と思うか『しか』と思うかは人によるんじゃないかな」
 スツールを元の位置に戻しながら、優しい声で父が言った。
「そうかなあ。三年はやっぱり『も』だと思うけどな」
 たとえばね、と母が言った。
「『昨日母とお茶をした』っていう言葉に傷つく人もいると思うの」
「どういうこと?」
「母親との関係が悪くて八方塞がりで、そのことに気持ちの折り合いがまったくついていない人がいたら、自分には得られない幸せを手に入れている人をどう思うかな」
 私は首を傾げた。ちっとも何とも思わない。だって他人は他人だ。自分にうまくいっていない物事があったとしても、それと、他人がうまくいっていることには何の関係もない。もし身近に短距離走ですばらしい結果を残したという人がいたら、悔しさは感じるだろう。でも自分も負けないように頑張って練習しようと思う。それだけだ。
「よくわからない、って顔してるね。それは漣がいま満ち足りてる証拠よ」
 母が苦笑いした。しばらくのあいだ、室内には父が本をめくる音だけが響いていた。

 その夜、ベッドの中で修一さんのことを考えていたら、ふいにある場面が蘇った。
 あれは確か、小学校の五年生か六年生のころだったと思う。
 夜、テレビを観ていると、家の電話がけたたましく鳴った。父はまだ仕事から帰宅しておらず、母は入浴中だった。受話器を上げると、
「まどかさんに替わって頂戴」
 耳障りな声が頭蓋骨に響き渡った。
「えっ、お姉ちゃんですか?」びっくりして訊き返した。「お姉ちゃんなら、日本にいますけど」
「絶対誰にも言うなって約束させられたのね」
「ええっ?」
「嘘つくとバチが当たるわよ、漣ちゃん。わかる? こわーいこわーい地獄に落ちるの。だからほんとうのことを話して。あなたのお姉さん、タイに来てるでしょう」
「来てません。私、お姉ちゃんとはずっと会ってないです」
「漣ちゃん、嘘ついてないわね?」
 ついてませんと答えながら、私の名前を連呼するこの人はいったい誰だろうと思った。
「お姉ちゃん、いなくなっちゃったんですか?」
「そういうわけじゃないのよ、じゃあね」
 会話は唐突に終わった。主寝室のバスルームへ行き、電話の件を伝えると、ざばあっと物凄い水音がして、バスタオルを巻いた母が飛び出してきた。
 あれから母はどうしたのだったっけ。
 掛け布団を首まで上げて考えを巡らせるが、その後の記憶はおぼろげだ。
 そういえば、あの頃母はよくひとりで一時帰国していた。その理由を、私は深く考えていなかった。土曜登校どころか日曜登校があればいいのにと思うほど、学校が大好きで、毎日愉しすぎたから。母が一時帰国するときは、ふだんは掃除しかお願いしていないリンさんに料理を頼み、父が帰宅する時間まで延長して居てもらった。淋しいと思った憶えはない。母親がいなくては眠れないという年齢でもなかったし、むしろちょっと心が躍った。さっさと宿題やっちゃいなさいとか明日の準備は済んだのとか言われずに済むし、テレビは見放題お菓子は食べ放題、そしてリンさんの作るトムヤムクンは絶品だった。
「また来月日本に帰ることになったの」
 申し訳なさそうに言う母に、
「いいなあ。日本には可愛いものがいっぱいあるじゃん。お母さんだけラーメンも和菓子も食べ放題でずるい」などと言い、スワンナプーム空港で見送るときは手紙といっしょにちゃっかりおみやげリクエストのメモまで渡していた。
 あの夜の電話はたぶん、修一さんの母親だったんだ。いったい何があったんだろう。どうして母はあんなに頻繁にひとりで帰国していたんだろう。もやもやと考えているうちに、黒く湿った布を被せられるみたいに深い眠りに落ちていった。

〈試し読み#4(明日公開!)へつづく〉

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