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三浦しをんさん大絶賛! 『9月9日9時9分』(一木けい著) 9月9日記念試し読み #1

こんにちは、小説丸編集部です。

タイ在住の作家・一木けいさんが、タイと日本で揺れ動く高校生の難しい恋愛を描いた傑作『9月9日9時9分』
「9」という数字は、タイでは縁起の良い数字と言われていて、9月9日には縁起を担ぐイベントが行われたり、店のオープン日が9月9日に設定されることもあるそうです。

さて、本書が今年3月に発売されてから約半年。今年も9月9日がやってきました。まだ本書を未読の方のために、本日より、冒頭試し読みを特別に公開いたします!

海外旅行にも行けず息苦しい日が続きますが、本書の登場人物たちと一緒に、タイの旅を楽しんでいただければと思います。

9999書影(仮)

特別掲載『9月9日9時9分』冒頭試し読み #1

  

   ๑

 中二の夏まで、私はひとりで道路を渡ったことがなかった。
 高校生になった今でも、交通量の多い車道では向こう側へ渡るのが怖い。
 信号が青に変わった。仕事帰りらしき女性にくっつくようにして駅前の大通りを渡る。向こうからスーツ姿の男性が歩いてきた。目を伏せ、ぶつからないよう細心の注意を払って通り過ぎる。前を行く女性の髪に張りついていた桜の花びらが、剥がれて遠くへ飛んでいった。
 日本の歩道は少なくとも衛生という面では、油断して歩ける。踏んだ瞬間コンクリートのすきまから泥水が飛び出してきたりしないし、溜まった雨水やエアコンの汚水が軒先からつむじに落ちてきたりもしない。上も下も警戒する必要のないきれいな道を、私は防犯ブザーを握りしめて歩く。
 家に帰ると揚げ物の陽気な音がして、両親と姉の気配がキッチンにあった。ただいまとスニーカーを脱ぎ、リビングに顔を出す。おかえり、と三人の声が飛んでくる。
「よかった、無事で」
 洗い物をしていた姉が水を止め、キッチンカウンターから顔を見せた。眉毛の下でそろえた前髪が揺れる。私が生まれてはじめて一歩踏み出す瞬間を見たのは、この姉なのだという。母は酔うとよくその話をする。まどかが仕事場に慌てふためいて電話かけてくるから何事かと思ったわよ、とうれしそうに。
 姉の隣で菜箸片手に父が振り返った。
「ちゃんと電車に乗れた?」
「乗れたよ。何歳だと思ってるの。あ、でも」
「どうしたの」
 姉の顔が神経質にこわばった。心配する必要はないのだと言うために、急いで笑顔を作りキッチンへ入る。姉の足許に母がいた。
「電車で何かあった?」
 母は全身から「疲弊しています」という空気を発しながら、食器棚にもたれて座っていた。膝の上に私が小六の修学旅行で作ったセラドン焼きの器が載っている。チェンマイで象に乗り、皿に絵を付け、現地校の子たちにタイの踊りを習ったのが、たった四年前なんて信じられない。
「いや、大したことじゃないんだけど、朝電車に乗り込むときなんとなく、お尻を触られたような気がしただけ」
「えーっ! やだやだ、気持ち悪いっ!」母が顔をしかめる。
「それは、気がするだけで嫌だな」
 心配顔で父が母の皿に小鰺の唐揚げと素揚げしたアスパラガスを置いた。
「もしかすると勘違いかも。振り返ったら『あっ、すみません』ってやけに低姿勢で謝られたから」
「余計怪しい。どんな人だった?」
「若いサラリーマン。サラサラヘアで眼鏡かけてた」
「明日はお母さんが車で送って行こうか」
「お母さんの職場、反対方向でしょ」
「じゃあ、お父さんがいっしょの電車に乗るよ」
「お父さんはバス通勤じゃない。すごく遠回りになる」
「でも、なんだか胸騒ぎがするんだよ」
「いいよ、とりあえず様子を見てみる」
「ほんとうに? 大丈夫?」
 両親が私の顔を覗き込む。
「心配しないで。明日は朝練だから早めに出るし、いつもより電車空いてるかも」
「また何かあったらすぐ言ってよ。お母さん、漣といっしょに考えるから」
「うん」
「お母さんがどんなに疲れてそうでもどんなに苛々してるように見えても、諦めないで話してね」
「はいはい、わかったってば」
 笑いながら母の皿に手を伸ばし、まだジュージュー音を立てている小鰺をつまんで食べた。
「もうすぐ新ごぼうと豆腐の卵とじが出来るからね」
 小鍋を動かす父に、母がうっとりと言った。
「新ごぼうっていいよねえ。まず、新っていう響きがいい。新玉ねぎ! 新キャベツ! あー、日本の春って感じ」
 大げさだなと父が頬を弛め、私も笑ってしまう。はあなんてきれいな緑、と母がアスパラに手を伸ばした、その瞬間バターンと大きな音とともにリビングの扉が開いた。
 険しい顔をした姉が入ってくる。手に何か持っている。いつの間にか二階の自室へ上がっていたらしい。
「もしものときはこれ使って」
 姉が差し出したのは、卵型の防犯ブザーだった。
「ありがとう。でもお姉ちゃん、防犯ブザーくれるのこれで二個目だよ」
「いいの。多くても困ることはないでしょ。通学鞄と、遊ぶとき用の鞄にひとつずつ入れておいて」
「わかった」
「変だと思うことがあったら躊躇なく使って。ほんとうに怖いときは声なんか出ないものだから」
 震える声で姉は言った。背後で、両親がそっと顔を見合わせた。
 つるつるした感触の防犯ブザーを指の腹で撫でながら考える。何か、姉を刺激するようなことを言ってしまっただろうか。
「私が漣といっしょに乗れたらいいんだけど」
 姉が爪を噛んだ。姉は公共の乗り物に乗れない。
 昔は乗れていた。でも今は乗れない。理由は知らない。
 痴漢なんかする男はさ、と姉が低く言った。
「自分がどれだけ醜いことをやってるか気づいてないんだよ。いまの自分を俯瞰して見ろって言ってやりたいけど、そんなこと想像もしない奴だからそういう卑劣なことをするんだよね」
 あの人が痴漢だったかどうかはわからないよ。
 心の中だけで言う。
 姉の考えを否定するようなことは言ってはならない。それは両親と私の、暗黙の了解だ。
 姉はほとんどの物事をネガティブに捉える。ふとしたことで落ち込み、人と会話できなくなってしまう。風邪をひいたわけでもないのに家の中でマスクをつけていたら、それが合図だ。自分の中に閉じこもり、そこから出てくるにはとても長い時間を要する。何が引き金になるのかはわからない。想像力というか妄想力が豊かな姉の特技は、起こってもいない出来事を心配することだ。姉がいつからこうなってしまったのか、正確には思い出せない。けれど、少なくとも私たちがバンコクへ行くまでは、ここまでピリピリした人ではなかった。

 自動車部品メーカーで働く父が会社からバンコク赴任を打診されたあの夏、私は保育園の年長組で、姉は高三だった。短大進学が決まっていた姉は、ひとり日本に残ることになった。
 年が明けて、まず父がタイへ飛んだ。姉と離れ離れになることを除けば、私はタイでの暮らしが待ち遠しかった。
 母は多忙な仕事の合間を縫って、熱心にタイ語の勉強をしていた。もともと語学を学ぶのは好きらしく、生き生きとして、楽しそうだった。CDを聴きながら、私もいっしょに発音練習をした。家のあらゆる場所にカタカナで記したタイ語の付箋が貼ってあったことを憶えている。冷蔵庫にはトマト、みかん、水、卵、鶏肉、魚。トイレには数字とあいさつ。箪笥には、服、靴下、ズボンなど。母が自分用に書いたその単語を毎日目にするうちに、自然と私も覚えていった。
 空港へ見送りに来てくれたのは姉と祖母だった。抱き合って泣く私たちを見て、祖母が笑った。またすぐ会えるわよ。タイなんて飛行機でたった六時間なんだから。私はその言葉を信じた。たった六時間。すぐ会える。姉も言った。必ず遊びに行くから待っててね。
 けれどそれから八年の間、姉がタイへ遊びに来ることは一度もなかった。
 父が会社から与えられる一時帰国休暇は、二年に一度だった。姉にはなぜか、日本国内ですら滅多に会えなかった。帰国中滞在していた母方の祖母の家と、姉の暮らすQ市には新幹線で二時間の距離があったし、今回の帰国では都合がつかず姉には会えないと両親から言われればそんなものかと思った。こっそり会いに行ってしまおうかと考えることもあったが、タイに暮らす小学生の私が日本をひとりで長距離移動するのは現実的ではなかった。
 私が姉の夫になる政野修一さんとはじめて会ったのは顔合わせの日で、それが姉に会えた数少ない一回だった。
 姉は、私たちがタイに越したあと知り合った男性と、短大卒業後一年で結婚を決めたのだ。相手の人の転勤が決まったタイミングとはいえ、いま考えると相当若い。ほとんどすべての身内が「そんなに急がなくても」「もう少し考えたら」と言ったそうだ。けれど、姉の決意は固かったのだという。
 顔合わせの食事会は昼からだった。午前中は姉と修一さんが、私をQ市でいちばん広い公園へ連れて行ってくれた。ハンバーガーを食べ、普段は母にいい顔をされないコーラをがぶ飲みし、お菓子やおもちゃをたくさん買ってもらった。それから私は修一さんと、二人でボートに乗った。姉は苦手だからと言って乗らなかった。
 修一さんはとても頭のいい人だった。私がその前日祖母と観たアニメ映画の話をすると、その原作者が昔描いたという別の漫画作品のストーリーを詳しく語ってくれた。いや、詳しいなんてものじゃない。修一さんは、登場人物たちの名前をフルネームで記憶していた。五十人、もしかすると六十人以上いたかもしれない。しかも、そのキャラクターたちの誕生日まで暗記していた。人物も物語もあまりに詳細に語るので、途中からまったく意味がわからなくなった。
「東南アジア駐在なんて、帰ってきたらみじめな思いをするんじゃないですか」
 修一さんの母親が言ったのは、食事会の帰り際だ。衝撃的だった。八歳の私でも、「みじめ」という言葉にひっかかりを覚えた。となりで母が硬直するのがわかった。
「運転手がついたりメイドがいたりしてあちらにいるときは優雅でいいかもしれないけど、帰ってきたら結局元の生活に逆戻りでしょう? 贅沢に慣れてしまわないよう、気をつけた方がいいですよ。特にそういうのって、子どもの教育上よくないから」
 修一さんの母親の視線が私に突き刺さった。
「ねえ、漣ちゃん。いまからおばちゃんが言うこと、よおく憶えておいて。いい? ほんとうはお片付けってね、自分でしなきゃいけないの。生きるっていうのは手に入れたり、仕舞ったり、さよならしたり、そういうことの連続でしょ? だからね、お片付けをしないっていうのは、生きるのをやめるってことと同じなのよ。お部屋が汚い人は、頭のなかも散らかってるの」
 ぺらぺら喋りながら彼女は、私の身体を下から上までじろじろ見た。彼女の口からは乾いた魚のような臭いがした。
 修一さんの母親が言うとおり、私たちがこの頃、日本にいたときとは全く違う環境で生活していたことは事実だ。プールやジムのついた広い家に住み、父は毎朝運転手さんつきの車で仕事場へ向かう。休日はその車で公園や動物園やデパートへ行き、フリーペーパーで見たお店でランチを食べ、日系スーパーで買い物をして帰宅する。週に三回はリンさんという名の女性が掃除に来てくれた。彼女はタイ東北出身の働き者で、いつもイヤフォンを耳に挿し、暑いのにクーラーもつけず汗を流して、床にモップをかけ、バスルームを磨き、Tシャツにまでアイロンをかけてくれた。
 修一さんの母親からしたら恵まれすぎた世界に映ったのかもしれない。
 けれど小三になろうとする私にも、両親が海外でただお気楽に過ごしているわけではないことはよくわかっていた。父はいつも必死でタイ語と英語を勉強していたし、共に働く東南アジアの人々と日本人とのあいだに生じる意識の違いに苦心していた。狭い日本人社会にも、ややこしいことは結構あったみたいだ。母は母で、自分の生活を決して優雅とは感じていなかったと思う。そもそも母はのんびり贅沢するよりもばりばり働くことを好む人だ。ビザの関係で働けなかったあの年月、母は時々、所在無さそうに見えた。
 姉の結婚式はQ市のホテルで執り行われた。気持ちよく晴れた、四月はじめの日曜日。教会のある屋上庭園からは市内が一望できた。式のあいだ何度も「初々しい二人」という声が聴こえてきた。
 ホテルの二階にある披露宴会場は息をのむほど広かった。高い天井にぶらさがる豪華なシャンデリアに、首が痛くなるまで見惚れた。数え切れないくらい大勢の参列者がいたが、私の知っている顔はほとんどなかった。そのことがとても奇妙だった。高校時代の姉はいつもたくさんの友だちに囲まれていたのに、私の知っている彼らは誰ひとり出席していなかったのだ。
 政野家側のスピーチや余興が延々続いた。退屈なときは遠くにいる姉を眺めた。純白のウエディングドレスを着た姉も、和装の姉も、まばゆいほど美しかった。額が悦びで光っていた。
 お色直しの時間、両親とともに政野家の家族席へ向かった。修一さんの母親は、遠くから見ただけで他の人よりちょっと大きく感じた。不思議なことに、そのとなりにいたはずの父親の容貌は、まったく記憶にない。背丈や声だけでなく目鼻立ちも忘れてしまって、浮かぶのは白いのっぺらぼう。笑いと真顔の差がなんとなく怖い人だった印象だけが残っている。
 顔合わせのとき同様、修一さんの母親は会話とも呼べぬ一方的なお喋りを続けた。テレビで観たバッティングセンターのマシーンを思い出した。猛スピードでぽんぽん飛び出す言葉は私の腹部に重くめりこみ、息がしづらくなった。大好きなお姉ちゃんがこの人からいじめられなければいいな、と思った。
 耐え難くなって目をそむけた先に、修一さんの弟がいた。顔合わせのときはスポーツ関係の何かがあって来られないと聴いた気がする。弟は車いすに乗った祖母のために、肉をちいさく切っていた。母親に促され、彼がお辞儀したとき、ふいに式場が暗くなった。
 入口にスポットライトが落ち、深紅のドレスに身を包んだ姉と、タキシードをぱりっと着こなした長身の修一さんが入ってくる。修一さんは姉を心の底から愛おしそうに見つめていた。その視線の交わり方は、はっとするほど胸を打つものだった。愛し合っているふたりは、こういう風に見つめ合うものなのか。光っているのは照明ではなくもしかしてこのふたり? そう思ってしまうほど、新郎新婦はきらきら輝いていた。

 本帰国と同時に、また姉といっしょに暮らすようになった。
 姉は、私たちがタイにいるあいだに結婚して離婚したのだった。
 修一さんや彼の家族は、いつの間にか親戚になって、またいつの間にか他人になっていた。もの悲しいような気がしたが、だからといって子どもの私に何ができるわけでもない。私はただ、大人が決めたことに従うだけだった。
 いっしょに暮らしはじめてしばらくは姉に対して戸惑うことが多かった。姉の雰囲気が以前とはあまりにも変わっていたから。まず見た目が変わった。心配になるほど痩せたし、口を大きく開けて笑うことがなくなった。顔にかかる髪の毛の量が増えた。中身はもっと変わった。大丈夫、と笑ってくれなくなった。むしろ、大丈夫? と不安げに尋ねてくるようになった。
 なんかお姉ちゃん、変わったよね。私がそう言うたびに両親が困ったように目を伏せるから、その話題は避けるようになった。
 姉が変わったといっても、私に対する愛情や優しさは以前と同じだった。いや、むしろ増したかもしれない。
 姉は私の受験勉強を全身全霊で応援してくれた。公式や単語の暗記を手伝い、脳にいい食事を作り、加湿器の管理など私が体調を崩さないよう細心の注意を払ってくれた。志望校選びにつき合ってくれたのも姉だ。額を突き合わせ、高校案内やいろんなサイトを見て、陸上部の強い高校を一緒に探した。そうやって決めた志望校の名を告げたとき、担任の先生からは「相当頑張らないと合格は難しいぞ」と言われた。両親と話し合い、塾の時間を増やすことになった。姉は、ひとりで夜道を歩いたことなどなかった私のために、塾まで迎えにきてくれた。無理がたたって翌朝はマスクをしていることもあったけれど、とにかく姉は、私をひとりでは決して歩かせなかった。まるで何かの強迫観念にかられたように。


 周囲を巻き込み、限界を超えた努力の末やっと入れた高校だけど、やっぱり私にはレベルが高すぎる。
 数学の小テストのあまりの難しさに絶望して、教室の窓から見える空に目を遣った。
 この空がバンコクに繋がっているなんて信じられない。私にとってタイは、もはや遠い国になってしまった。
 タイの人たちは温かかった。特に子どもには無条件で優しかった。子どもが電車に乗り込んでくると、大人たちはさっと立ち上がり席を譲る。車内に貼られた『老人やけが人、妊婦さん、お坊さんには席を譲りましょう』というマナー広告には同時に『子どもにも譲りましょう』と書いてあるのだ。社会科見学でクラスメイトと乗ったときは、一斉にタイの人々が席を立ったので驚いた。どうぞと言われても座ることはなかった。笑顔でお礼を言って遠慮しなさい。母にそう言い聞かされていたから。日本でも譲ってほしいなんて、そんなことは勿論思わない。
 ただ、痴漢に消えてほしい。
 今朝も電車に乗り込むとき、お尻を触られた。身をよじりつつ男の顔を窺うと、昨日と同じ人物だった。スーツを着た小柄な眼鏡の男。もう偶然じゃない。吐き気がした。男は目が不自然なほど大きかった。レンズの厚みのせいなのか眼鏡をはずしてもそうなのか、視線が合うとその目でにやりと笑った。黄色い犬歯が覗き、ほんとうに嘔吐しそうになって降りようとドアの方へ歩きかけたとき、全身が圧迫され車内に押し戻された。頭の中で姉の声が響いた。
 ほんとうに怖いときは声なんか出ない。
 スカートを徐々にたくし上げようとしてくる指先のおぞましい感触が、はっきりと残っている。私は必死で吐き気を堪え続けた。私の身体に触らないで。声は心の中でしか出せない。停車駅で扉が開いた瞬間ホームに降りた。走って車輛を替え、乗り込み、ほっと息をつくと目の前にさっきの男の顔があった。全身に鳥肌が立った。ドアが閉まりますのアナウンスを合図に、さらに数名の乗客が身体を押し込んでくる。全方位から圧迫され身じろぎ一つできない。男が私の腿に手を伸ばしてくる。怖い、気色悪い、逆恨みされずに消えてもらうにはどうしたらいいのか。テレビで観るみたいに大声で言えたらいいのに。「この人痴漢です!」の一言は、どうしても口から出てこない。なぜなのだろう。誰も手を差し伸べてくれなかったらどうしようと思うからか。きっとみんな急いでいる。面倒なことに関わりたくないと思う人がほとんどだろう。防犯ブザーを鳴らしたとしても、勇気を振り絞って声を上げても、冤罪を疑われる可能性がある。考えだすと、声を出さなきゃという思いとは裏腹に口も身体もどんどん重くなっていく。
 私はただ、耐えた。
 これから三年間、毎朝あの環境で登校するのかと思うと泣きたくなってくる。
 入学式で名前を呼ばれたときは、まさか登下校でこんな思いをするなんて想像もしていなかった。友だちをたくさん作ろう。部活もがんばろう。勉強も、それなりに。張り切りすぎて予想外に大きな声で返事をしてしまい、隣の席の女子に笑われるほどだったのに。
 もしもタイで通学に電車を使うことになったら。空を眺めながら想像してみる。万が一痴漢に遭ったら、私は確実に、近くにいる見知らぬ人にたすけを求めることができる。何やってるの。馬鹿じゃないの。そう怒ってくれると確信が持てるから。
 日本に慣れない。いくら道が平らできれいでも、魚が新鮮でおいしくても、可愛い文房具がそこらじゅうにあっても、しっくりこないというか、ここが自分の居場所だという実感がいつまで経っても持てない。
 そしていちばんつらいのは、その気持ちを誰にも話せないということだった。
 タイをどれほど恋しく思っても、口に出したことは一度もない。じゃあ戻れば? なんで日本に帰ってきたの? ずっとあっちにいればよかったじゃん。そう言われるのが怖いから。先に本帰国した友だちがそういう言葉を新しいクラスメイトからぶつけられたと聴いて、帰国を控えた者たちは震え上がった。
 私はタイに嫌々行ったわけじゃない。父の仕事の都合で引っ越したけど、タイでの暮らしが待ち遠しかったし、実際愉しかった。でも、ずっとタイにいるわけにはいかなかった。だから帰国した。
 道を渡るのに勇気が要ることも、誰にも話したことはない。日本では小学一年生から一人で歩いて登校するというのに、そんな子どもみたいな不安、口に出せるわけがない。
 黒板の上の壁時計は九時を指している。タイはいま七時。小中学生は自家用車や通学バスに乗って学校へ向かっているころだ。下劣な痴漢に触られる心配など皆無の環境で。
 通学バスの中から見えるバンコクの朝の風景は、活気にあふれていた。生ぬるい風が吹き、黄金色のゴールデンシャワーが揺れる。四人乗りノーヘルのバイク。ぴちっと身体に張り付く枯葉色の制服を着て交差点に立つ警察官。軽トラの荷台から笑顔で手を振ってくる、工事現場へ向かう人々。トラックが轟音を鳴り響かせて通りすぎると、排気ガスが消えたあとの歩道に、山吹色の袈裟を着たお坊さんが姿を現す。裸足ですっと立つその足許に、マリーゴールドと長い線香を持った女性がひざまずく。道には屋台が並び、甘い豆乳といっしょに売られている揚げパンを、食べたいなあと思いながら眺める。屋台の人もお客さんたちも笑い声が聴こえてきそうなくらい、にこにこしていた。
 みんなどうしてるかなあ。
 心細く涙ぐんだ視界の端で、何かが動いた。小さな消しゴムが床を転がっていく。
 頬杖をついて眠っていた米陀さんが、はっと顔を上げた。席が前後だというのに、私は彼女とほとんど会話を交わしたことがない。米陀さんはいつも遅刻ぎりぎりに教室へ入ってきて、自分の机に突っ伏す。時々、彼女にだけ渡される封筒がある。担任の先生はそれをさりげなく米陀さんの机に置くけど、だからこそ余計に、中身が気になってしまう。
 テスト中の規定に則って米陀さんが手を挙げた。数学の先生は教壇で書類に目を通していて気づかない。残り時間はあとわずかだ。現実逃避しているあいだにまた赤点に近づいてしまった。中学の復習テストといいながら、ハイレベルすぎないだろうか。内心毒づきながら私は、手に持っていたシャーペンをわざと落とした。びくっとして米陀さんが手を下ろす。先生が顔を上げ、こちらを見た。
「シャーペンを落としたので拾っていいですか」
 許可を得て床にかがみ、シャーペンを自分の机に、消しゴムを米陀さんの机に載せた。
 椅子に座ってもう一度、ダメ元で問題を見てみる。ため息が出た。どう考えてもわからない。わかりそうな気配もない。再び窓の外に目を遣る。
 窓際の私の席からは、中庭を挟んだ西校舎が見えた。

試し読み#2 へつづく〉

 

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