BLM - Black Lives Matter

今日の英単語・フレーズ
Open mind 偏見のない広い心
Stereotype 固定観念。偏見を意味するPrejudiceよりもニュアンスが軽い言葉。
Condescending 形容詞で、見下すような、という意味。例えば、上司に普通に誰でも知っているようなことを、くどくどと「これわからないでしょ」みたいな態度で教えられたら、上司の側は良かれと思ってやっていても、それはcondescending。一言いってやりましょう。
Awkward (特に対人関係において)ぎこちない、固い感じ。もちろん褒め言葉ではなく、けっこうネガティブなけなす言葉。
Wit これは面白い言葉。辞書とかだと「機知」ってでてくるので、「機知ってなんだよそもそも!」と思うかもだけど、要はいろんな意味での賢さ。今回の文脈だと、witのある=「うまいこと言われたわ」と相手をうならせるような、的な意味。
Systemic bias  最近の頻出フレーズ。構造上のバイアス。私の単純な脳みそを使って説明すると、バイアスってつまり、中立的ではないこと。AかBという結果がでるテストがあったとして、本当はAとBが半々になるはずが、なんらかの構造上の理由でAという結果が出やすくなっているとしたら、それがsystemic bias。BLMに関しては、社会の構造的に、黒人を差別するような仕組み、プロセスができてしまっている、という文脈で使われる。
Quotation mark 文中で説明の通り。
White privilege 文中で説明の通り。
Awareness 気づいている状態、自覚している状態、知っている状態。
Political correctness PCって略されたりします。政治的正当性、とかいう日本語に訳されると、多分政治学とか社会学を勉強しない限りなんだよそれって感じかも。要は、差別を防ぐために正しい言葉を使う、というコンセプト。例えば、スチュワーデスだと女性という前提が言葉の意味に含まれる(=男性でスチュワーデスの職業をする人への差別になる)ので、フライトアテンダントと呼びましょうとか、消防士は英語でFiremanだったけれど、それだとmanがついているので男性的になってしまうのでFire fighterと呼びましょうとか。日本語って、ラテン系の言葉と違って男女を区別する文法や言葉があまりないので、あまりピンとこないかもしれない。議長とか、警察官とか、写真家とか、漢字の言葉には英語でいう"man"がつかない。さん、ちゃん、くん、くらいか。ちなみに、アメリカではBlack=黒人はPCではないのであまり使われずAfrican American=アフリカ系アメリカ人が一般的です。イギリスではあまりPCは気にされておらず、Black(黒人) Brown(南アジア系)等みんな普通に使います。
Goodwill 善意。日本語だとちょっと固いけど、英語だともっとなんか、「良かれと思って」何かをする時の、その「良かれと思って」いる気持ちって感じ。善意じゃん、って言われるとそうかもだけど、私的にはちょっとだけニュアンスが違う。

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Black lives matter / BLM ( 直訳は、"黒人の命だって重要であるべき!”)とは、アメリカを中心に現在また活発になっている運動のことです。もともとは2013年に始まりましたが、今回もGeorge Floydという黒人男性が警察官によって不当に殺されたことによって一気に活動が広がりました。彼が殺害される場面は通行人によって撮影され、またたく間に世界中の人がその一部始終を目撃することとなり、アメリカを中心に世界各地で大きな抗議活動になっています。この記事を書いている今現在、主犯の警察官がthird degree murder (三級殺人)で逮捕されていますが、ミネソタ州においては三級は一番程度の軽い殺人罪のようで、抗議活動は続いています。(ちなみに、動画では彼が警察官3人に馬乗りにされている場面から、「息ができない、助けてくれ」と叫ぶ場面、息絶える場面、救急車が来て脈を取り、担架にのせられるところまで、文字通り全部おさめられています。私も動画を見ましたが、その粗暴さと異質さにショックを受けてしばらく呆然としました。気になる人は、覚悟してから見てください。)

今回の運動も平和的な抗議活動として始まったものの、火事場泥棒や暴力的な行為に走る人も多数いて、抗議活動が暴徒化している地域ではコミュニティに大きな被害をもたらしています。

この問題について色々と考えることがあって、同時に日本でのこの問題への関心の低さにこちらとのギャップがあるように感じています。もちろん私自身完璧な知識や経験を持っているわけではないけれど、少しでも日本語で物を読む誰かにとって考えるきっかけになったらな、なんて思って、つたないながら自分の考えを書くことにしました。だ、である口調で書いたので、偉ぶってるように聞こえちゃうかもですが、偉そうに書いたつもりではないです。

議論や解決策は、どんなものであれ色々な人の意見がなければ生まれないとと思います。私がここに書くことはあくまで私個人の考えで、それが必ずしも正しいと言うつもりは全くないです。もし読んでくださる方がいたら、きっと思うところ、考えるところがあると思います。私と全く違う意見も、反対意見も、色々な意見があることが一番大事なことだと思うので、please keep an open mind as you read through this (先入観のない心で読んでみてください). 私もopen mindを維持できるよう心がけます。

ちなみに、英語を混ぜて文章を書いているのは、英語のほうがしっくりくる表現・単語がある時です。英語自慢したいわけでも、ルー大柴的にウケを狙いたいわけでもありません。

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BLMは日本人にとってまだ対岸の火事なのかもしれない

日本に日本人として生まれると、差別らしい差別を受ける経験はどのくらいあるのだろうか。貧しかったけれど、幸か不幸か私はとても人に恵まれて育った。築ウン十年のオンボロ団地育ちで、両親は私が10歳になったくらいの頃に離婚をしていた。それは人や環境によっては理不尽な差別の要因になるかもしれないことだけれど、私の周りの友達や友達の家族、先生はみんな温かい人たちばかりで、彼らにとってはそんなことは全然関係なくて、おかげで子供の頃に差別を受けたことはなかった。

女子として、女性として、若者として日本で理不尽な扱いを受けた経験は(特に職場で)数えきれないほどあったけれど、私はそれを特に差別として受け止めたことはなかった。なんとなく、女性なら・若者ならみんなが通る当たり前の道だと受け止めていて、差別というものへの感度が低かったんだと思う。私がそれに対してとった解決策は、戦うことではなくて、日本という環境をでて、若い女性として職場で不利な扱いを受けない環境を探すことだった。

私が初めて自分の人種を原因に差別(のようなもの)を受けたのは、アメリカに1年間いた時だと思う。とは言っても、暴言を吐かれるというような明らかな差別ではなくて、なんとなく感じる扱われ方の違い。多分、その半分は私のコミュニケーションのとりかたの違いに起因していて、残りの半分は多分私がアジア人であるということに起因していた。なんとなく格下に扱われているような気がするこの感じ。言葉に言い表すことが難しいけれど、初対面でもそう感じる相手とそうでない相手がいたので、単なる被害妄想ではないと思う。

ちなみに、ロンドンはアメリカよりももっとダイバーシティに寛容だけれど、ロンドンにいる今でも、あまりアジア人と関わったことがないヨーロッパ人と話しているとなんとなく似たような違和感を感じることはある。なんとなく、なんとなーく、言葉の端々に感じる違和感、取り繕った感じがある。

私はにこにこしゃべるから、それが彼らには変にうつるのかもしれない(自分では微笑んでるつもりだけど、もしかしたら薄ら笑いしていると思われているのだろうか)。逆に、私の言葉や態度は彼らの思うアジア人のstereotypeにあまりフィットしないから、戸惑わせてしまうのかもしれない。もしくは単に私は彼らと見た目が自分と違うからなんとなく無意識に居心地が悪くて、彼らはcondescendingな態度をとってしまうのかもしれない。原因はよくわからないけど、この違和感は間違いなく存在している。ヨーロッパ人同士のコミュニケーションを観察していてこういう違和感を覚えることはないし、逆に私のことをよく知ってるヨーロッパ人の友達からこういう扱いを受けて違和感を感じることもない。

アジア人はawkwardだ、とは、私がこちらに来てから聞き飽きた偏見だ。アジア人(と一括りするのは良くないことだとは十分わかっているけれど、結局ヨーロッパにいるとアジア人はみんな一括りでアジア人として扱われるのが現実)のコミュニケーションはいわゆる英語流のコミュニケーションと違うから、アジア人はawkwardと結論づけられるのかもしれない。もちろん、アジア人の中には(というかアジア人に関わらず移民の中には)こちらに来てもこちらの文化を知ろうとすらしない人たちもいる。移民として他人の国に来るからにはこちらの文化を尊重するのはとても大事なことだから、溶け込もうとしない側もほんの少しの非はあると思う。けれど、自分たちからは異質なものをawkwardと片付けてしまうのは理不尽だとも思う。

大学院でも、仲の良いヨーロッパ人の友達が「あの子はなんかawkwardだよね」なんて言っていた中国人の女の子と話してみると、私にとってはその子は全然普通の子だったりしたことがある。「アジア人はawkwardな人が多いけど、あなたは違うね」と知り合ったヨーロッパ人に言われると、彼らは悪気なく褒め言葉のつもりで言っているのかもしれないけれど、私は褒め言葉として受け取る気持ちには全くもってなれない。ヨーロッパのように一見多様さが当たり前のように見える社会でも、自分と違うものを単に違うものとして受け入れて、それに不要なレッテルを貼らないことはとても難しいことなんだと思う。

私は今でも人に恵まれていて、こちらに来てもあまり直接的な差別を受けたことはあまりない。最近自分の身に降りかかった差別といえば、散歩中にすれ違った、マリファナでハイになっていた30歳くらいのイギリス人の白人の男に「ピザ食べるか?」って持っていたピザの箱を差し出された時のことだ。「いらない」って言ったら、「どうせ中華しか食べないんだろ、HAHAHA」と言い捨てて、彼は最後のピザを口に運んだ。

命の危険を感じたわけでも、客観的に見て大してひどいことを言われたわけでもなかったけれど、そう言われた瞬間私の心臓の鼓動は早くなって、耳が怒りで熱くなるのを感じた。「あんたが大好きなFish and chipsみたいに味のないつまんない料理よりも、全然中華を選ぶけどね」とwitを込めて言い返したかったけど、なぜか言葉につまって言えなかった。私はその後歩き続けたけれど、その日はずっと「なんであの時言い返せなかったんだ、自分!」ってイライラしてた。別に中国人だと思われたことが嫌だったのではなく、彼のその言葉に込められた無邪気な悪意に嫌悪感を覚えた。

こんないたって軽度の差別や、先に話したようななんとも言えない間接的な違和感でも、そのことについてふと思い出して考え出してしまったりするとやりきれない理不尽さと行き場のない怒りがある。今も、書きながら思い出して腹が立って仕方がない。自分は何も悪いことをしていないのに、なぜ人の悪意の対象にならなければいけないのか。

苦い経験である反面、そういった自分が経験する理不尽さについて認識することは、自分が誰かに無意識に与えていた差別について気づいて、自分の行いや認識を正すことができるきっかけにもなるのだと思う。私自身、完璧な人間ではない。差別をしようと思って発言したり行動したことは覚えている限りないけれど、自身が差別を経験する機会が増えるにつれて、自分が過去に深く考えずに言った言葉や無意識の行動が誰かにとっては差別だったのかもしれないと自省する機会は増えた。インド人っぽい人の隣にバスで座った時に、「あ、なんか体臭がカレー臭い」と無意識で思った自分に気づいたりすると、これって本当にカレーの匂いなのか、それとも私の差別的な偏見なのか混乱したりもする。

そんなことを、ここ数日世界で起こっていることを見ながらぼんやりと考えていて、最近感じていたアメリカの現在の状況への日本社会の興味の薄さへのもどかしさは、ある意味しょうがないものなのかもしれないと思い始めた。もしかしたら、このことに対して日本であまり議論が活発に起こっていない(ように私には見受けられる)のは、この理不尽に対してやるせない怒りを覚える人があまりいないからで、それはもしかしたら、息が苦しくなって怒りと驚きで心臓の鼓動が早くなるような差別を受けたことがある人が日本では多くないことの裏返しなのかもしれない。(私より強い人もいっぱいいると思うけれど、私の経験だと、通りすがりの人に「中華でも食べとけよ!」って言われるみたいなジョーク半分の軽度な差別でさえ、受け取る側のショックとダメージは大きい。)もしくはそんなこと関係なくて、単にあまりネガティブな感情を外に出さない、議論や意見のぶつかり合いをなかなか良しとしない、日本の文化によるものなのかもしれない。

もちろん、日本にもいろいろな差別、systemic biasの問題があるし、この状況を良くしようと活動している人や声をあげている人がたくさんいる。教科書で取り上げられるような民族問題から、在日外国人に投げかけられる心ない言葉や、ゲイの友人が共有してくれた偏見を受けた経験、障がいを持つ人に頻繁に起こる悲しい事件など、差別と呼べるものの具体例はたくさんあるし、日本でも色々なマイノリティが、社会でsystemicな不平等と戦っている。

けれど、日本に、いわゆる“普通の日本人“として生まれると、自分が受けているかもしれない差別に、自分が与えているかもしれない差別に気づかされる機会は得てして少ないのかもしれない。(ちなみに、この””quotation markは日本でも広がって来ているようだけれど、言外の意味があることを示すためのもの。喋っている時だったら、両手でピースサインを作って、左右の人差し指と中指を4本同時に二回ちょんちょんって曲げ伸ばしするジェスチャーになる。この場合、私がquotation markを通して言外に込めたかった意味は、「普通の日本人、と俗に人が考える定義。多分いわゆる普通の日本人って両親が2人とも日本人で、その両親がまだ結婚してて、経済的に中流以上の家庭で育って、異性愛者で、障がいを持ってなくて… 今の世の中、そもそもそういう風に普通という定義が存在するという考え方自体がこういう差別問題の原因だと思うんだけどね」的な感じ。)

それでは、差別を受けたことがない人はこのような問題に対して何ができるのか。

差別を受けたことのない人の無知は日本だけの問題ではない

(日本語で無知というとちょっときつすぎだけど、実際使いたかったのは英語のignoranceという言葉で、情報や知識が足りてない状態。文章量が増えるに連れてルー大柴感がどんどん増しているので、せめてタイトルくらいはちゃんと日本語で。)

ここまでに話したことは、日本だけの問題ではない。英語のメディアでは、ここしばらくwhite privilegeが頻繁に語られている。White privilegeを訳すと、白人(でいること)の恩恵。要は白人(+文脈によってはそれに加えて、男性で異性愛者で障がいを持っていない人)は、白人であるというだけで社会からの特権を享受して生きているんだ、という認識を広めるための言語化の取組みのようなものだと私は理解している。また、特権・役得が存在するということはその裏で差別待遇を受けている人がいるということでもあるから(白人に対して有色人種、男性に対して女性、異性愛者に対して同性愛者、障がいを持たない人に対して障がいを持つ人、などなど)、差別を一番受けにくいとされるカテゴリーに入る白人にとって自らの特権を認識するということはマイノリティに対する差別を認識することと表裏一体のロジックなのだろう。

Black lives matterについてマイノリティーに属さない白人が語る時、「私は異性愛者で障害を持たない白人として生きてきて、差別やsystemic biasの被害を受けたことがないから、差別に関して無知だし、黒人の人の苦労を推し量る資格すらないけど」といった前置きを付け加えないといけないような社会の重たさが、今は感じられる。有名人のツイートやインスタグラムのコメントを見れば、これは非常にわかりやすい潮流だと思う。

こうした潮流の原因について考察するには、私は力不足で、まだまだ色々調べたり考えたりしないといけない。White privilede問題に対する社会全体でのawarenessの発展というポジティブな要因がもたらしたものでもあるだろうし、インターネットの炎上や煽り文化というネガティブな要因によるものでもあるのかもしれない。もしくは、アメリカの風刺アニメであるSouth Parkがもう何年もネタにしてきているように、Political correctnessの延長線上にあるものなのかもしれない。

White privilegeの認識自体に対して私は異論はない。何もwhiteということに限らず、自分が恵まれていることを認識することで他者に優しくなれるのなら、それはとても良いことだと思う。ただし、それを前置きしないと意見を言うことが許されないような雰囲気。私はなにかここに、言い表しがたい違和感を覚えている。オープンな社会を作ろうとしたgoodwillが度を過ぎて、逆に息苦しい社会になってきているような気がする。これが多様な社会の理想的なありかたかと今訊かれたら、私はYesとは答えられない。

「私は差別をうけたことがないから」という前置きをつけてることは「差別を受けたことがない自分の意見の重要性は多少なりとも割引されるべき」と暗に言っているように感じられる。それをよしとする考え方の人もたくさんいると思うし、そう考える理由も理解できる。けれど、私にとってはその「割引」が、White privilegeやblack lives matterがまさに今実現しようとしている、本当に平等で多様な社会というゴールに対して矛盾しているように思えてならず、それがこの違和感の正体なのだろう。

私はこの文章の前半で、差別された経験がないと差別に鈍感になってしまうのかもしれない、と書いた。けれど、差別された経験がないからといって、差別をされる人たちを思いやることができないわけではないと思う。自分は経験したことがないけれど差別って身の回りに存在するんだな、ということに気付いたら、あとは差別を受ける人の立場に立ってどんな気持ちなのか想像してみると、自ずと答えが見えてくるのではないかと思う。自分が、自分の友達が、自分の家族が同じ扱いを受けたら、どんなに悲しくて理不尽な気持ちになるだろう。そうならないためには、自分が何をしたらいんだろう。みんながそうやって他人を思いやれたら、どれだけ社会は生きやすい環境になるだろう。

差別を受けたことがある人もない人も、一緒に当事者になってこの社会を良くしていくには、結局違う立場の人が立場を超えて色々なことを一緒に考えていくことが必要だと思う。そして、差別を受けたことがない人は、今もこうして差別を受けつづけ、苦しんでいる人の気持ちをなんとか想像してみようと努力し続けるしかないし、誤解したりうまくいかないこともあるかもしれない。だからこそ、差別を受け続ける側の人は、自分たちの経験や意見を共有して、議論をし続けなければいけないのかもしれない。

きっとこれは長い戦いになるし、終わりはいつまで経っても見えないと思う。けれど、失敗しなければ学びもないし、衝突しなければ交わらない。誰かの至らなさや不完全さを責めるよりも、みんなで力を合わせてより良い未来を作らないといけない。そのためにはまず自分が寛容で公正な人になれるように、人に優しく、自身を律して、毎日を丁寧に生きなければいけない。

この長い文章を読んでくれた優しい誰かが、この問題について30秒でもいいので何か考えてくれたら、こっぱずかしさと戦いながら8000文字つらつらと書いた意味があったと思う。


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