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AI時代、人間は妄想力で勝負?

想像力とは組み合わせ。それならAIの方が得意?

AI時代には想像力、更に言うなら突飛な妄想力が必要だ。人間の生き残る道はそこにある。そういった言説をよく耳にします。本当でしょうか? 今回はこの点を取り上げたいと思います。

そもそも妄想力は何から出てくるのでしょうか。イノベーションが新結合だと言われ、“太陽の下に新しきものなし” という旧約聖書の言葉を合わせて考えれば、妄想とは純粋に新しい要素を思い付くというより、既存のモノやコトを組み合わせた新しいアイデアをあれこれ考えてみることでしょう。例えばカフェでエッセイを書いているとき (まさに筆者の今の状況です)、カフェ×カスタマイズで、一人ひとりに応じた音楽が掛かったら心地よいだろうか、カフェ×出会いで、友人と偶然顔を合わせたら話し込んでしまうだろう、等々です。

さて、こんなことがAIには実現できないのでしょうか? いえ、決してそんなことはありません。

例えば単純化するために、一方に「状況」というデータセット、もう一方に「サービス」というデータセットがあって、その2つを総当たりにする場合を考えましょう。状況を {歩いている、待っている、急いでいる} とし、サービスを {ニュース提供、お笑い動画、励ます} とすると、3×3で9通りのアイデアが出力されます。このうち「待っているときにニュースを聞く」のは、時間の有効活用にも気が紛れるサービスにもなりえますが、「急いでいるときにお笑い動画を提供」されても的外れ甚だしいでしょう。とはいえ、人間があれこれと妄想するのと似たようなことがAIにも可能ですし、要素を抜けもれなく検討するならコンピュータの方が向いているというのもお分かりになると思います。


AIのアイデアのほとんどは面白くない。人間だってそうですが

ではAIに妄想させたらうまくいくのでしょうか? 人間はアイデア創出でもAIの後塵を拝するのでしょうか?

実は、妄想の面白さは面白さに依存します。同語反復のようですが、案外とうまく表現できたと思っています。何が言いたいかというと、計算機がやみくもに要素を組み合わせて出力したアイデアのほとんどは、面白くないのです。

まず人がアイデアを考える状況を想像してみましょう。

夜中にふと思い付いた天才的なアイデアが、翌朝になって見直すと極めて平凡だった経験はないでしょうか。居酒屋でみんなで盛り上がった企画が、実現どころか着手すらされないのは何故でしょうか。それは、アイデアの評価が非常に難しいからです。夜中のハイテンションな自分や、アルコールで盛り上がった集団心理が示す評価傾向と、日中に多忙の合間を縫って考えるときの評価傾向はかなり異なります。夜中に酩酊した人々が作った提案書を、真昼に素面で読まされる姿を想像してみてください。

ここで、人々がアイデアをどういう状況で考えるべきかという議論をするつもりはありません。というのも、夜中の自分の自己評価の高さに閉口するかもしれませんが、仕事の空き時間で考えたアイデアを翌日の昼に評価しても、やっぱり面白くない可能性があるからです。そうではなくて、人間、それどころか同一人物であってもアイデアの評価にブレがあるというなか、AIはどういう基準で自らのアイデアに順位を付けて人間に提示すればいいのか、という問題です。自分の内側に「面白さ」という軸を持たず、評価基準を人間に決めてもらわないと動けないAIは、どうやって膨大な組み合わせの中からキラリと光るアイデアを選び出せるのでしょうか。AIの妄想が面白くないのは、この難しさがあるからです。


推薦システムにヒントを得る

さて、妄想と近いながら現実世界で用いられているAIがあります。推薦システムです。

推薦システムの選択肢をどう生成するか (AIが生成する、既存の商品・サービスを用いる) は、ここでは問題ではありません。問題なのは、システムに何かを推薦されたユーザが、実際にその推薦された内容を受け容れるかどうかです。推薦システムの出力を人間が高く評価するかともいえます。

AIに何かを推薦された人が取るリアクションは、おおむね次の3つに集約されます。「こんなの知ってるよ」「ん?気になる」「よく分かんないのでいいや」です。このうち推薦が成功しているのは真ん中の1つのみになります。

「こんなの知ってるよ」と人が言うとき、推薦された内容は凡庸です。その人の関心事を捉えたという意味では成功ですが、推薦された内容が活用されないという意味では失敗です。推薦内容はその人の嗜好に近すぎ、あるいは常識的すぎるのです。
反対の極の「よく分かんないのでいいや」というのは、興味の方向性を捉えていないか、あるいは方向は合っているにせよ既存の感覚と遠すぎる場合です。アート用語でいえば前衛的すぎるのです。
真ん中の「ん?気になる」というのは、常識的すぎもせず、かといって突飛すぎもしない、推薦された内容が興味を惹いたときの反応です。この感覚は人によって異なりますので、新しいもの好きな人にはやや突飛な選択肢を、保守的な人にはやや常識的な選択肢を提示しないとうまくいきません。この難しいチューニングをどう行うかは、推薦システムが現実的に役立つかどうかの大きな要因となっています。


AIが面白くないのは常識がないから。人間が面白くないのは常識があるから。

妄想の話に戻りましょう。なぜ人間は面白い妄想ができるのでしょうか?
先に述べましたように、人間の妄想から生まれたアイデアも、決して成功確率も高くありません。ですがそれでも、AIが選択肢を機械的に組み合わせたアイデアよりは、何というか、マシな気がします。

その理由は、身も蓋もない言い方をすれば、人間はAIよりも発想の突飛さが足りないからです。常識からほんの少ししか外に出ないからなのです。
現代美術の展覧会に行けば、人間がいかに先鋭的な発想をできるかを体感できますし、その突飛な発想を高く評価できる人々がいるのも分かります。しかし、普段ビジネスの世界に身を置いている人であれば、ちょっと付いていけないという感覚になることもあるでしょう。その現代美術の世界の人々ですら、AIが要素を組み合わせただけの作品を生み出したとしたら、実はそれが後世に残る傑作にも関わらず、高く評価しないかもしれません。

つまり、推薦システムと同じで、人が面白いと思うのは、その人の普段の常識の少しだけ外側にあるものなのです。AIはその線を見極められないので面白くない。裏を返せば、普段から幅広く新奇なものに関わっており感度が異常に高い人、あるいはAIを普段から触っている人 (=AIの常識を人間側が学んだ場合) には、AIの出力が面白いと感じられるのかもしれません。
先ほど「急いでいるときにお笑い動画を提供されても的外れ甚だしい」と述べました。そういえば筆者の感度は低いのでしょうか? もしかして急いでいるときこそお笑いを見るというソリューションには、実は爆発的なポテンシャルがあるのでしょうか?

AIは、こういう組み合わせ的な出力を瞬時に何億も生成することができます。その想像を絶する妄想力にどう付き合っていくべきなのでしょうか。もしかしたら、ここに宝が眠っているのではないでしょうか。AIに比べて常識を置き去りにするのが苦手な人間は、それをどう長所に転ずるべきなのでしょうか。AI側の教科書的な対策は、AIに人間の好みを学習させて、ほんの少しその外側を提示させることです。では人間側は? 人間はいまのまま漫然と待つべきでしょうか。あるいはAIの挙動を学ぶべきでしょうか。将棋などのゲームでは、人間がAIの挙動から多くを得ていることも忘れてはいけません。


想像力は誰のため?

最後に一つだけ述べて本稿を締めたいと思います。アイデアの創出は、誰のためなのでしょう。

もし顧客に何らかのアイデアを提供したいなら、例えばAmazonのおすすめは既にその役割を果たしています。何億人ものユーザに個別化したレコメンドをするという、人間には全く不可能なアルゴリズムは、何年も前から稼働しています。この予測精度が上がり、あるいはコンテンツをその場で生成するようになれば、人間の入り込む余地はどんどん小さくなるでしょう。

しかし、想像力は自分のためでもあります。AIが人間の実力を追い越した現在も、囲碁や将棋を楽しむ人は大勢います。おそらく将棋のAI開発者よりプロ棋士の方が収入も多いのではないでしょうか。つまり、創造性や妄想というのは、勝ち負けとは別の価値を持つということです。日本はさまざまな分野でアマチュア層の数も多くレベルも高いといわれますが、そういった活動は金銭や勝ち負けとは別の価値軸で動いていますし、結果として全く新しい流行りを生み出すこともあります。

ですから、1つの軸で勝負したときに人間がAIの想像力に劣ることがあったとしても、それは人間の活動から創造が剥奪されることを意味しないと思っています。AIが十分に発達した時代に人間がすることは、もしかして金銭とは離れた次元で、無目的に楽しむというところに至るのかもしれません。

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