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LLMバブル? 生まれたときから生成AIに触れる人々の言語観を想像してみる

LLMで文体が自由に選べるようになったとき、好みはどう決まるのか?

先日「ChatGPTのような大規模言語モデル (LLM) が浸透すると、今後は読者が好みの文体で読むようになる」という記事を書きました。端的に言えば、受け手がLLMを介して読む前提なら、書き手は文章を発信する必要がなく、箇条書きや生データを投げるだけで良いでしょうという話です。

これに対し、とても鋭いフィードバックを頂きました。「ではそれが当たり前の時代に生まれた子供にとって、好みの文体はどうやって得られるのか?」という質問です。

非常に深い。全く考えておらず、完全に不意を突かれました。

以降は本質に迫るために、極論に振って、文章と会話を問わず全ての言葉がLLMを介して変換される状況を想定してみましょう。


大人も幼児語を話すようになる?

幼児語というものがあります。車を「ブーブー」、犬を「ワンワン」などと呼ぶものです。まだはっきりとした発音ができない幼少期に適していて、日本語に限られるものでもありません。一般には成長するにつれて幼児語は徐々に減っていき、大人と同じ言葉を使うようになります。
しかし想像してください。幼少時からLLMを通じて会話していた場合、その人は旧来のように語彙を獲得せず、実は大人になっても「ブーブー」「ワンワン」と言っているかもしれないのです。仕事の際に本人は「次のブーブーのAI、自動運転時にワンワンを誤認識する傾向があります」と言ったとして、相手にはLLMを介して「次の自動車のAI、自動運転時に犬を誤認識する傾向があります」と聞こえていれば何の問題もないからです。

この場合には、同じ意味の言葉を複数覚えない、つまりこれまで知った言葉で表しきれない概念が現れたときにだけ、都度新たな言葉を追加していく形になるのでしょう。結果として、幼児語と大人の言葉、日本語と外国語は入り混じるため、いまの感覚からすると整合感を欠き、とても美しい言葉遣いとはいえないと思います。しかし当の本人は便利だし自然なのです。

高度にパーソナライズされたLLMが普及した場合には、そもそもコミュニティごとに統一された表現や言葉遣いは消滅し、個々人が思い思いの口調で話すようになるかもしれません。子供は幼児語、仕事は敬語、仲間内では砕けた言葉というように使い分けられることはなく、個人が自分の言葉を話し、LLMを介して個人が聞きたい語調を聞くという社会です。
情報の世界では、「フィルターバブル」という言葉があります。インターネットが多様性に富むなかで、自分と意見の近い情報ばかりを目にすることで、世界と繋がった環境であるにも関わらず価値観が広がらないことを意味します。それと同様に、LLMで翻訳して自分の好む文体のみを聞き続けることで、他の文体に触れることなく生活できる「LLMバブル」時代が来るかもしれないのです。


言語の違い、固定された文章への違和感、そういった感覚が消滅する未来

以前に翻訳の不可能性を論じたことがありましたが、このLLMバブルの世界観だと、翻訳の難しさは表出しないかもしれません。というのも、翻訳の難しさというのは異なるコミュニティに踏み入ったときに起こる、言葉を通じた世界観の相違に由来します。しかし、LLMを通じて慣れ親しんだ口調でやり取りする限り、違和感に気付けず、ディスコミュニケーションが発生していることに気付きすらしないかもしれないからです。

ここまで思いを巡らせると、哲学でいうパロールとエクリチュールという概念にたどり着きます。パロールとは話し言葉で、その場で消えるもの。エクリチュールとは書かれた文章で、固着されて変更の利かないものでした。この狭間において、つまり伝えようと発した言葉とそれが固定化された文字との力関係に関して、あるいは書物を書き記すときの、エクリチュールを選び取る重さについて、数多くの哲学者や作家が言及してきましたが、もはやその問題はLLMによって消え去ってしまうのかもしれません。LLMによって何度も異なる文体で語らせることができ、作家が書いた文章自体が字義通りには読まれなくなるとしたら、もはやエクリチュール、あるいはバルトが「個々人が独自の経験によって形成した言語感覚」とした文体 (スティル) の存在意義は虫の息です。その先にデリダの「テクストの外には何もない」とLLMの関係はどうなるのかという興味深い問題もありそうですが、もはや筆者には大きく手に余る話題になってしまいました。


最初の疑問に頑張って答えてみます

さて困りました。「それ (LLMで好みの文体にして読む時代) が当たり前の時代に生まれた子供にとって、好みの文体はどうやって得られるのか?」という問いに対して、結局のところ一歩も進んでいません。ここまで語ったのは、書き手の個性を反映した文体という概念のものが崩壊しそうだという話だけです。

冒頭に述べたように、幼児語と大人の言葉、日本語と外国語が入り混じった言語体系になり、好みというものは消滅してしまうのでしょうか。

あるいはもっと単純に、LLMのデフォルトの文体が、これからの子供の文体になるのかもしれません。本当に全ての会話や文章がLLMを介される場合、親子で同じ言語を用いる必要すらなく、実は親は日本語で、子供はLLMのデフォルト言語である英語で会話している状況すら想像できます。文体の選択や形成という行為はいつしか消え去り、世界中全てのLLMネイティブな人は、LLMバブルの内側で無個性な英語を用いるようになるのでしょうか。

あるいは、それほど心配は要らないのかもしれません。これまで人類の歴史上、次々と新しいスタイルの音楽が生まれてきました。人は30歳を過ぎると新しい音楽を聴かなくなるといいますが、逆に言えばそれまでは様々な音楽に触れることで趣味が決まってきます。それと同様に、パーソナライズされたLLMを使うにしても、世間の流行り廃りが起こり、好みの文体を乗り換えていくのかもしれません。文体を売るという新しいビジネスも想像できます  (「このセリーヌって文体……知ってる? めちゃダークで……ハマるよ?」)。

別の可能性として、文体のイノベーションが起こり、理解力の向上に寄与する可能性もあります。人間の脳にとってベストな言語・文法体系が、既存の言語だとは限らないからです。具体と抽象を行き来しやすい言語が出現することで、人間の能力が引き上げられるという発想には夢があります。例えば数式に拒否感を示す人は多いですが、自然文も数式も一体化したような言語に幼少期から馴染むことで、人類の平均的な能力が嵩上げされることは何となくイメージできないでしょうか。


問いの力+極論=知的刺激 (筆者の実力不足が残念)

もちろん、本稿は極論です。実際にはプライベートの会話の多くはLLMを介さないでしょうし、したがって読書も含めた文体の好みは会話の影響を強く受けるでしょう。純粋な読書にしても、我々が平安時代の古文を読んでみるように、将来の子供も過去の文体に触れてみて、何かお気に入りを見つけることがあるかもしれません。あるいは、LLMに関する文学研究を通じて内容と文体が不可分であることが証明され、文体変換は最低限にすべきという指針が出て、いまと大差ない形に落ち着くかもしれません。

文体を自由に変換するというアイデアに対するたった一つの疑問から、発想がここまで展開できるのは非常に楽しかった。改めて問いの力を見せつけられた思いです。基本的な知識が足りず (例えばチョムスキーの生成文法とはどういう関係になるのだろう)、クリアな回答に至らなかったのは残念ですが、せめてここから更に新しい問いに繋がることを期待しています。

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