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習慣(筆者:あおいみかん)
習慣とは、
繰り返しそれをすることで、そうすることが当人にとって自然なこと。
または、何も考えずとも、勝手にそうすること。
もしくは、無意識にやってしまうこと。
はたまた、やらないと気がすまないこと。
そして、やめたくてもやめられないこと。
思いつくだけでもいろんな表現がある。
goo辞書には次のように説明されていた。
長い間繰り返し行ううちに、そうするのがきまりのようになったこと。
![自分の人生に出会うために必要ないくつかのこと](https://assets.st-note.com/img/1718581916510-JLcOl920PG.jpg?width=800)
癖と習慣は似て非なるものである。癖という言葉には、「やまいだれ」がつく。悪癖という言葉に象徴されるように、どこかよくないことであるという語感が伴う。
いっぽう、習慣は、よいこととして認識される場合も少なくない。(中略)だが、習慣という言葉は、用いる人によってまったく逆な意味になる。
ある人にとっては強靭な人生を鍛錬する場であり、別な人にとっては堕落の始まりを意味する。
「習慣」には、「強靭な人生を鍛錬する場」と「堕落の始まり」という二つの意味があると、若松英輔氏はいう。
また、「習慣」に似た言葉に「癖」があるが、それは悪い習慣を示唆することが多い。
それは、やめたくてもやめられないものであり、若松英輔氏のいうところの「堕落の始まり」だろう。
どちらにせよ、「習慣」が人生に大きな影響を与えることには間違いない。
今日はその習慣についての考察を記したい。
二つの習慣
1.「強靭な人生を鍛錬する場」
習慣の一つ目の意味、「強靭な人生を鍛錬する場」を、若松英輔氏は次のように説明している。
「慣」という字をよく見ると「心」を意味する立心偏に「貫」と書く。つまり、慣れるとは何かが心を貫くことだというのだろう。習慣は人格を陶冶する道程へと姿を変じる
若松英輔氏の母は、若き日にシスターに言われた「習慣が人各をつくる」という言葉を今も大切にしているという。
![7つの習慣](https://assets.st-note.com/img/1718585355798-95Q6vKpdDQ.jpg?width=800)
また、スティーブン・R・コヴィー氏の有名な著書、『完訳 7つの習慣』にも次のような記述がある。
私たちの人格は、習慣の総体である。「思いの種を蒔き、行動を刈り取る。行動の種を蒔き、習慣を刈り取る。習慣の種を蒔き、人格を刈り取る。人格の種を蒔き、運命を刈り取る」という格言もある。
若松英輔氏もスティーブン・R・コヴィー氏も「習慣」が人格を形成するという。
普段、自分が無意識にしていることが、その人をその人たらしめている。
だとしたら、習慣に無自覚でいることは、自分の人生にも無自覚でいることに等しい。
それは、人に操られた人生、もっと言えば、他人に自分の人生を預けることになるのではないだろうか。
それは、自分の人生に無責任になることである。
そして、それは「堕落の始まり」になりかねない。
人格とはあなたの「ありかた」だ。
「ありかた」が人生を形成していくことは容易に想像がつくだろう。
自分の人生に主体的になり、責任を持つことが「一つ目の習慣」の意味だと、私は思う。
2.「堕落の始まり」
![](https://assets.st-note.com/img/1718614340717-6yyAaQR4qJ.jpg?width=800)
若松英輔氏は、もう一つの「習慣」について思想家でもあり、民藝運動の指導者でもあった柳宗悦の言葉を引用している。
彼は習慣という言葉をしばしば惰性と似た意味で用いる。習慣的な行為はしばしば真実から人間を遠ざける、と柳はいう。
(中略)
ここでいう「習慣」とは、表面的な繰り返しである。意味ある反復ではない。
ある絵を見る。かつて見たことがあるので、この絵は知っていると感じる。そのとき、もう人は「じかに」その絵と向き合うことはできなくなっている。
どうしても、人はなかなか「じかに」現実を見ることができない。なにがしかのフィルターを通してそれを見てしまう。
そこに感動はない。
なぜなら、“わかりきったこと”だからだ。
たとえ、操られた幸せであったとしても、それを疑う術も、手がかりもない。
それは、「意味のない反復」であり、「ただの繰り返し」なのだということに、なかなか人は気づかないし、気づけない。
しかし、それは現実ではない。
「惰性」で行う人生の営みの中に、現実はないのだ。
そして、その「惰性」が人生の堕落への道程となることも多い。
人間は、いとも容易く、堕落への道を選択する。
そして、それはとても大きな力を持っているのである。
![ゲルニカ](https://assets.st-note.com/img/1718614659889-4d9VZvh0sZ.jpg)
「じかに」
だが、誰にでも、やめられないことの一つや二つはあるだろう。
ぼくは、なんとか「じかに」見ることを試みている。
なかなか難しい。
できない。
やめた方がいいとわかっていながら、やってしまうことも、いくつもある。
でも、それが人間なのだろう。
だから、“わかった人”たちが存在し、ぼくたちは良くも悪くも「すごい人」とか、「悟った人」などとその人たちを呼ぶ。
ぼくも願わくば、“わかった人”になりたい。
だから、「じかに」見ることができるようになりたいと思う。
そして、そのためにも「良い習慣」を身につけたいと願うのである。
だけど、実際は、「良い習慣」を身につけられない自分に苦しんでいる。
そして、もし本当に「じかに」現実を見れたとして、ぼくはそれに耐え得るのかと、怖気づいてしまうこともある。
最近、そんなぼくにも、「じかに」の片鱗を垣間見る出来事があった。
この「ありがとう」は「じかに」を体験したものと言っていいと思う。
なにしろ、「“なんの混じり気のない”ありがとう」だからだ。
「じかに」は、そんなに堅苦しいものではないのかもしれない。
そして、純粋なものの中に真実の現実があるのかもしれない。
子どもは、いつもその目でそれを見ているのかもしれないと思うことがある。
きっとそれは、言葉では表現しきれないことだろうということは、容易に想像がつく。
子どもは、それを一所懸命に伝えてくる。
ぼくたち大人は、それを大事にしてあげることが大事だと、つくづく思う。
忙しくても、手を止めて、子どもが「じかに」体験したことのコトバに、真剣に、そして真摯に耳を傾ける。
それが以外にも、「堕落」に抗う術なのではないかと思うのである。
あなたは、どう思うだろうか?
そして、どんな「習慣」を、もっているのだろうか?
![あおいみかん™︎](https://assets.st-note.com/img/1718697905628-Zs0q0xUrXq.jpg?width=800)
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