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習慣(筆者:あおいみかん)

習慣とは、
繰り返しそれをすることで、そうすることが当人にとって自然なこと。
または、何も考えずとも、勝手にそうすること。
もしくは、無意識にやってしまうこと。
はたまた、やらないと気がすまないこと。
そして、やめたくてもやめられないこと。

思いつくだけでもいろんな表現がある。

goo辞書には次のように説明されていた。

長い間繰り返し行ううちに、そうするのがきまりのようになったこと。

goo辞書
自分の人生に出会うために必要ないくつかのこと

 癖と習慣は似て非なるものである。癖という言葉には、「やまいだれ」がつく。悪癖という言葉に象徴されるように、どこかよくないことであるという語感が伴う。
 いっぽう、習慣は、よいこととして認識される場合も少なくない。(中略)だが、習慣という言葉は、用いる人によってまったく逆な意味になる。
 ある人にとっては強靭きょうじんな人生を鍛錬する場であり、別な人にとっては堕落の始まりを意味する。

『自分の人生に出会うために必要ないくつかのこと』(若松英輔)

「習慣」には、「強靭な人生を鍛錬する場」と「堕落の始まり」という二つの意味があると、若松英輔氏はいう。

また、「習慣」に似た言葉に「癖」があるが、それは悪い習慣を示唆することが多い。
それは、やめたくてもやめられないものであり、若松英輔氏のいうところの「堕落の始まり」だろう。

どちらにせよ、「習慣」が人生に大きな影響を与えることには間違いない。

今日はその習慣についての考察を記したい。


二つの習慣

1.「強靭な人生を鍛錬する場」

習慣の一つ目の意味、「強靭な人生を鍛錬する場」を、若松英輔氏は次のように説明している。

「慣」という字をよく見ると「心」を意味する立心偏りっしんべんに「貫」と書く。つまり、慣れるとは何かが心を貫くことだというのだろう。習慣は人格を陶冶とうやする道程へと姿を変じる

『自分の人生に出会うために必要ないくつかのこと』(若松英輔)

若松英輔氏の母は、若き日にシスターに言われた「習慣が人各をつくる」という言葉を今も大切にしているという。

7つの習慣

また、スティーブン・R・コヴィー氏の有名な著書、『完訳 7つの習慣』にも次のような記述がある。

私たちの人格は、習慣の総体である。「思いの種を蒔き、行動を刈り取る。行動の種を蒔き、習慣を刈り取る。習慣の種を蒔き、人格を刈り取る。人格の種を蒔き、運命を刈り取る」という格言もある。

『完訳 7つの習慣』(スティーブン・R・コヴィー)

若松英輔氏もスティーブン・R・コヴィー氏も「習慣」が人格を形成するという。
普段、自分が無意識にしていることが、その人をその人たらしめている。

だとしたら、習慣に無自覚でいることは、自分の人生にも無自覚でいることに等しい。

それは、人に操られた人生、もっと言えば、他人に自分の人生を預けることになるのではないだろうか。
それは、自分の人生に無責任になることである。

そして、それは「堕落の始まり」になりかねない。

人格とはあなたの「ありかた」だ。
「ありかた」が人生を形成していくことは容易に想像がつくだろう。

自分の人生に主体的になり、責任を持つことが「一つ目の習慣」の意味だと、私は思う。

2.「堕落の始まり」

若松英輔氏は、もう一つの「習慣」について思想家でもあり、民藝運動の指導者でもあった柳宗悦むねよしの言葉を引用している。

彼は習慣という言葉をしばしば惰性と似た意味で用いる。習慣的な行為はしばしば真実から人間を遠ざける、と柳はいう。
(中略)
ここでいう「習慣」とは、表面的な繰り返しである。意味ある反復ではない。
ある絵を見る。かつて見たことがあるので、この絵は知っていると感じる。そのとき、もう人は「じかに」その絵と向き合うことはできなくなっている。

『自分の人生に出会うために必要ないくつかのこと』(若松英輔)

どうしても、人はなかなか「じかに」現実を見ることができない。なにがしかのフィルターを通してそれを見てしまう。

そこに感動はない。

なぜなら、“わかりきったこと”だからだ。

たとえ、あやつられた幸せであったとしても、それを疑う術も、手がかりもない。

それは、「意味のない反復」であり、「ただの繰り返し」なのだということに、なかなか人は気づかないし、気づけない。

しかし、それは現実ではない。
「惰性」で行う人生の営みの中に、現実はないのだ。
そして、その「惰性」が人生の堕落への道程となることも多い。

人間は、いとも容易たやすく、堕落への道を選択する。
そして、それはとても大きな力を持っているのである。

ゲルニカ
ゲルニカ

「じかに」

だが、誰にでも、やめられないことの一つや二つはあるだろう。

ぼくは、なんとか「じかに」見ることを試みている。
なかなか難しい。
できない。

やめた方がいいとわかっていながら、やってしまうことも、いくつもある。

でも、それが人間なのだろう。

だから、“わかった人”たちが存在し、ぼくたちは良くも悪くも「すごい人」とか、「悟った人」などとその人たちを呼ぶ。

ぼくも願わくば、“わかった人”になりたい。

だから、「じかに」見ることができるようになりたいと思う。
そして、そのためにも「良い習慣」を身につけたいと願うのである。

だけど、実際は、「良い習慣」を身につけられない自分に苦しんでいる。

そして、もし本当に「じかに」現実を見れたとして、ぼくはそれに耐え得るのかと、怖気おじけづいてしまうこともある。

最近、そんなぼくにも、「じかに」の片鱗を垣間見る出来事があった。

この「ありがとう」は「じかに」を体験したものと言っていいと思う。
なにしろ、「“なんの混じり気のない”ありがとう」だからだ。

「じかに」は、そんなに堅苦しいものではないのかもしれない。
そして、純粋なものの中に真実の現実があるのかもしれない。

子どもは、いつもその目でそれを見ているのかもしれないと思うことがある。
きっとそれは、言葉では表現しきれないことだろうということは、容易に想像がつく。

子どもは、それを一所懸命に伝えてくる。
ぼくたち大人は、それを大事にしてあげることが大事だと、つくづく思う。
忙しくても、手を止めて、子どもが「じかに」体験したことのコトバに、真剣に、そして真摯に耳を傾ける。
それが以外にも、「堕落」にあらがう術なのではないかと思うのである。

あなたは、どう思うだろうか?
そして、どんな「習慣」を、もっているのだろうか?

あおいみかん™︎
                                         あおいみかん™︎

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