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『淳一』  〜1990年はじめての男〜 vol.5


11月の土曜日の午後。淳一の部屋に一緒にいたら「やば、会社にお客さんに借りたカセットを置いてきちゃった。取りに行かなくちゃ!」と淳一が声を上げた。寂しくはなかった。何かを疑う気持ちもなかった。「2時間くらいで戻ってこれるから、そうしたら一緒にご飯を食べに行こう」と言う淳一を見送るとひとり残された淳一の部屋で、むしろ自分がひとり暮らしをしている大人になったような気分がしてワクワクした。
缶コーラを綺麗なグラスに移して飲んでみたり、部屋の鍵のキーホールダーを指でくるくる回してみたり、ベッドに大の字に寝転がってしてみて、なんとなく大人の素敵なライフスタイルを自分なりに感じていた。

デスクの上にシステム手帳があった。黒い皮表紙の分厚いシステム手帳はいかにも大人の必須アイテムだった。秘密を暴こうとか、覗き見しようという発想はない。ただの大人ごっこの延長で難しい顔のひとつもしながらページをめくってみたかった。ただ、それだけだった。

会議
打ち合わせ
臨床試験
研究発表
論文〆切
送別会

淳一の手帳には、いかにも大人っぽい予定が並んでいた。店ではオネエ言葉を使ってバカをやっているけど、会社では病気の人たちのために薬をつくる研究者で、仕事中は白衣を着ているという。そんな淳一が誇らしく思えた。淳一に頼まれて高校の制服姿でセックスをしたことはあったけど、白衣姿の淳一にちょっと意地悪なセックスをしてもらうのも良いかもしれない。

そんなことを想像しながらページをめくっていると、日によって時々「AとH」「KとH」という走り書きがあることに気がついた。今年の夏からは土曜日ごとに「MとH」とある。それが「真文とエッチ」の意味であることに僕はすぐ気づいた。

仕事用の手帳にセックスの記録を残すのはどうかと思った。ちょっと趣味が悪い気がする。せっかくのカッコいい淳一が、ほんの少し、カッコ悪く思えてしまった。だけど、そんなことよりも問題は「MとH」と同じ期間に「WとH」の日があることだった。

8月に2回。
9月に1回。
10月に2回。
11月に入ってからも2回。

心臓がバクバクした。おちつかなくて部屋の中を野良犬みたいに歩きまわった。それから部屋の真ん中で膝を抱え、膝に額をつけた。そして、この「悲しみのポーズ」のままぴたりと動けなくなってしまった。

陽が暮れかかったころ淳一が帰ってきた。

「どうしたの?」

薄暗い部屋の真ん中で膝を抱えている僕に、淳一は明らかに戸惑っていた。

「…ごめん」
「ごめん、って?」
「見ちゃいけないと思ったけど…見ちゃった」

小さな沈黙が生まれ、淳一が小さな溜息を吐いた。それから電気もつけないまま淳一はクローゼットの扉を乱暴に開けた。


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