エゴイストじゃなかった『エゴイスト』 (映画感想文)
ネタバレします!
嫌な人は即退散を!
私みたいに性格の悪いオカマからすれば、だいたい、ゲイの恋愛映画の主演が鈴木亮平という時点で、まったくをもって気に入らないわけです。「ゲイって鈴木亮平みたいな男っぽい男、好きっしょ?」と乱暴に言われているみたいで。
しかも、恋人役が宮沢氷魚。『his』という映画でもゲイ役をやっていました。色白でちょっと中性っぽい顔立ちとナイーブな雰囲気がいかにもゲイっぽくない?ということなのでしょうか。
さらに、リアリティを求めて主人公の友人役には本物のゲイを起用しましたなんて言われた日にゃですね。「なんと安易な!」と憤りすら感じるわけです。
こんなふうに観る前から「ケッ!」っと思っていた映画を観に行ったのは、他でもない、ここに書きたかったからです。
というわけで『エゴイスト』です。
だけど、始まってすぐ「あら?」と思ったのは、鈴木亮平がわりとオネエなんです。「ガッチリ系イケメンのタチ兄貴(ちょっと影あり)」を演じるものとばかり思いこんでいたので面食らいました。
雑誌社に勤め、全身に高級ブランド品を纏い、人に革ジャンあげる時にいちいち『イタリア製』とつけ加えてみたり、高級チーズケーキのうんちくをひそひそたれてみたり、たしかにこういうゲイは新宿二丁目あたりに存在します。私の周辺では『ファッションゲイ』と呼ばれている流派です。私はちょっと面倒くさいので(この流派は話が長いわりにつまらない)苦手ですけど。
そんな主人公が宮沢氷魚演じるパーソナルトレーナーと出会います。
イケメントレーナーを前に、主人公がさりげなく自分のオネエっぽさを隠す(でも隠しきれない)あたりもほのかなリアリティがあります。
トレーニング中、鏡越しの宮沢氷魚を「綺麗な顔をしている」と褒める、その言いまわしも、また、リアリティ。
男が女の顔を褒めるとき「可愛い」「綺麗」とは言っても「綺麗な顔をしている」とはあまり言わないと思うんですけどね。ゲイは言います。
宮沢氷魚はゲイっぽさを出さず、あくまでも好青年として存在します。
たしかに、昨今の20代のゲイの子って、ああいう一見「ノンケなの?」っていう飄々とした雰囲気の子、多いんです。
監督さんはゲイなんですかね?(映画を観てブログ書くまでは前情報をいれないようにしているので存じ上げないです)
それとも原作に忠実にやっているだけ?(原作、読んでません)
そうでなければ、きっと、ゲイのブレーンをつけて話し合いながらひとつずつ丁寧に作っていったのでしょう。
主人公の友人の、ドリアン・ロロブリジーダさんの次に目立っていた、舌ったらずにだらだら話す黒髪の子も、いかにも「THE 二丁目の子」という感じ。
みんなで映画『Wの悲劇』(女優!女優!女優!)の話をする場面も、私たちにしてみればベタ過ぎるほどベタで恥ずかしいくらいなのだけど、そんなベタが新宿二丁目では、もう、何億回と繰り返されているのです。
そんなリアリティの数々は決して「ゲイのリアルな世界を見せてやる!」というアグレッシブな告発ではなく、リアルに描くことで作品に深みを与えると同時に、リアルに描くことがゲイに対しての敬意である、と作り手が考えているに違いない、そう思える非常に丁寧でセンスの良いリアリティなのです。
ほんと、観る前から「ケッ!」とか思ってごめんなさい。
自分の性格の悪さが嫌になります。反省。
私が一番反省させられたのはふたりの初めてのセックスシーンです。
亮平がウケ。
氷魚がタチ。
見た目の印象ですっかり逆と思いこんでいた自分の脳内こそ、凝り固まったステレオタイプであったことを思い知らされました。
氷魚に腰を振られて喘ぐ亮平を見れば、まさに、それこそがリアリティ。
ま、二度目のセックスでは立場が逆転していたので、この2人はリバ(リバーシブルの略。表裏どっちも)のカップルということになるのですが。
それから、阿川佐和子というのは、いつからあんなに演技が上手になったんですかね? 普通のおばさん感を出すために阿川佐和子を配役という考え方も安易で嫌だったし(阿川佐和子自体は好き。文春愛読者なんで)、実際、演技となるとセリフ回しや間がどうしたって不自然だから女優はやらなきゃいいのに…と思っていたのですが、この映画の中の彼女は、むしろプロの俳優にありがちな演技臭さがまるでなく、自然にそこにいて、自然に立ち振る舞い、自然な会話をして自然に笑っています。
たぶんこの監督さんは「自然であること」「嘘っぽくないこと」「大げさでないこと」を何より大切にしている方なんでしょうね。思い返せば全体的にそういう映画でした。悲しみなんかもわりと静かに表現されます。
タイトルの『エゴイスト』とは、おそらく、主人公が恋人や恋人の家族にしていることは自分のエゴなのではないか? と、自問自答しているということなのでしょう。
だけど主人公が「僕は愛がなんだかわからない」と嘆いた時、「あなたがわからなくても(あなたのしたことを)受け取った側が、これは愛だと感じたら、それは愛なのだから、それでいいじゃない」と恋人の母親役である阿川佐和子が慰めます。
エゴとは、また、私たちが社会から「私たちはLGBTを理解していますよ!」と大上段に構えて(そんなつもりないでしょうけど)言われた時に、心密かに感じてしまうものでもあります(まぁ、ありがたいことなのですけど)。
私が、この手のLGBT映画を観る前にどうしたって身構えてしまうのは、そういうエゴ映画だったら残念だな、と思ったりするからです。
でも、この映画からは、私は愛を感じましたけどね。
「非生産的」だとか、「隣に住んでいたら嫌だ」とか、子供の喧嘩に巻き込まれるようなことを私たちも言われたりしますけど。こんな映画を観ていると、それでも私たちを取り巻く世界は少しずつ良い方向へ向かっているのかもしれない、という希望が持てるというものです。
観て良かったです。
みなさんも、ぜひ。
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