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noteに「創作活動でもっとも大事なこと」を諭される

 noteを始めようとした。
 すると、いきなりnoteに「創作活動でもっとも大事なこと」を諭された。


みなさんにnoteを使っていただくにあたって、何よりも優先していただきたいポイントが2つあります。

・創作を楽しみ続けること
・ずっと発表し続けること

上の2つは、ページビューを増やすことよりも、お金を稼ぐことよりも、あるいはフォロワーを集めることよりも、何よりも大事なことです。

名文や超大作を仕上げようとして手が止まってしまうくらいなら、駄文でも短文でも悪ふざけでも、とにかく気軽に投稿しましょう。

 (「創作活動でもっとも大事なこと」

 ありがとう、note。
 確かに「手が止まって」しまって困っているよ。何年も。
 でも、「気軽に」という訳にはいかない。
 哲学だからね。
 「くだらない哲学」はあるかもしれないけど、「気楽な哲学」はないんだ。
 「気楽に」書くと、相田みつをみたいになっちゃうからね。
 
 しかし、せっかくのアドバイスである。
 何とか「気楽に投稿」していける方法はないか。
 そうだ。過去に書いた文章を投稿すればいいのだ。
 
  1 メールマガジンに書いた文章
  2 ブログに書いた文章
  3 Twitterに書いた文章
 
 過去に書いた「根をつめた文章」を「気楽に投稿」すればいいのだ。(もちろん、新しい文章も書く。)
 オーケー、note。何とか出来そうだよ。
 
 そう。そう。
 この文章だけれど、けっこう気楽に書けた。
 アドバイス、ありがとう。
 
 それでは「根をつめた文章」をお楽しみ下さい。


●形式論理を学んでも論理的思考が出来るようにはならない

 論理的思考のトレーニングをすると称する本のほとんどは役に立たない。その主要な原因は〈形式論理を学べば論理的思考が出来るようになる〉という間違った前提に基づいているからである。この趣旨を論ずる。

 小野田博一氏は言う。「黒猫は魚類である。魚類は不死である。ゆえに、黒猫は不死である。 これも論理的に正しい発言です」(『論理的に話す方法』42頁)

 誠に頭が固い発想である。三段論法の形式に合致しているから「論理的」だと言うのである。

 「論理的」を小野田博一氏は次のように定義する。「発言の論理的な正しさは、内容ではなく形式にかかわる」(『論理的に話す方法』40頁)

 「論理的」をこのように定義するから、発想が狭くなる。「黒猫は魚類である」が「論理的」ではないという発想が出てこなくなる。

 「黒猫は魚類である」と言っただけで、一般にその発言は「論理的」でないと判断される。異常な発言と判断される。「黒猫は魚類である」は事実に反するからである。つまり、この場合、「論理的」でないという判断は「内容」に基づいている。

 「形式」論者の頭の固さを示す別の例を見よう。小野田博一氏は次の学生の発言を「論理的」でないと批判する。
 「面接官『残業がデートとかちあったらどうしますか?』 学生『自分の仕事にやりがいがあれば、残業は当然だと思うのですが…』」(『論理的に話す方法』14頁)
 〈残業とデートのどちらを取るかを答えていない〉と批判するのだ。

 しかし、この問いは答えられるような問いではない。「残業とデートのどちらを取るか」は「xとyのどちらを取るか」のような問いである。つまり、xとyに何が入るかによって答えは変わる。例えば、翌日に迫った大きなイベントの準備が終わらないなら、残業を取るだろう。誕生日に明日以降でもよい残業を頼まれたなら、デートを取るだろう。

 「論理的」を〈形式の正しさ〉と考えるから発想が狭くなる。「残業とデートのどちらを取るか」と問われたら、どちらかを取ると答えなくてはいけないような気がしてくる。「残業」「デート」の具体例を検討する発想が出てこなくなる。
 「内容」によって変わるという発想が出てこなくなる。

 「残業とデートのどちらを取るか」のような問いは、具体例を検討しなければ答えようがない。「内容」に踏み込まなくては答えようがない。「形式」の検討では答えようがない。つまり、「発言の論理的な正しさは、内容ではなく形式にかかわる」という定義は、論理的思考のトレーニングのためには不適切である。

 「発言の論理的な正しさは、内容ではなく形式にかかわる」
 これは「論理的」を統辞論の範囲で捉えている。記号間の問題と捉えているのである。しかし、「論理的」は意味論の範囲で捉えるべきである。つまり、記号間の問題だけでなく、記号と事実との間の問題と捉えるべきである。

 「論理的」とは統辞論範囲の概念なのか。意味論範囲の概念なのか。さらには、語用論範囲の概念なのか。形式論理派には、この問題の自覚すら無いのであろう。
 「論理」と「論理的」とを混同し、統辞論範囲の概念として扱ってしまっている。
 しかし、それは間違いである。

 同様の「形式」重視の間違いを見てみよう。野矢茂樹氏は言う。「『論理』とは、言葉が相互に持っている関連性にほかならない。…『論理的になる』とは、この関連性に敏感になることに他ならない」(『論理トレーニング』) 

 違う。「論理」に「敏感になる」ことと「論理的になる」ことは同じではない。既に論じた通りである。野矢氏はこの違いに無自覚である。誠に〈非論理的〉である。

(メールマガジン『インターネット哲学』2012.4.30.)



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