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「硝子の鳥籠」 第2話 指針よ、揺らぐな(2)

『名前が嫌い? 私もよ。だけど、「ひゃく」だからまだマシじゃない? 私なんて「せん」だもの。あなたよりずーっと長く生きなくちゃいけないの』

 投げやりな態度を見て、一人じゃないとほっとした。
 いつ、どのタイミングで言われたのかは覚えていないが、自嘲めいた笑顔が脳裏に焼き付いている。
 
 今ならば嫌味だとわかるのだが、当時の百香には、質素なワンピースを着て長い黒髪にしつらえのいいカチューシャを付けた千影がやけに大人びて見えていた。だから、素直に「長く生きたくない同盟」を脳内で締結して、同族意識から心を開いたのだった。

 あなたが話しかければ答えてくれるから、と子守を任された千影にしてみれば、いい迷惑だっただろう。
 けれど彼女は、良くも悪くも真面目で責任感が強かった。
 年下とはいえ憎い相手なのに、食事を部屋に運んでくれたし、おやつを一緒に食べてくれた。特に会話はなくとも、傍にいてくれるだけで安心したものだ。

 夜中に高熱を出したとき、真っ先に不調を訴えにいったのも千影の部屋だった。彼女はすぐに目を覚まし、起き上がるなり額に手を当ててくれた。

『すごく熱い。……ここにいて。お母さんに伝えてくるから』

 そっと背中に手を添えて布団に横たえてくれたあのとき、亡き母親の事を思い出して勝手に涙がこぼれ落ちてしまった。
 それを見た千影は、目を丸くしたあとで泣き笑いの表情になった。


『こんなの、憎みきれないじゃない』


 その言葉の意味を知ったのは、二年後。髪が伸び見た目だけは女の子らしくなった百香が、不用意にアイロンに手を出して右足の甲に大火傷を負ったときのことだった。

 蝶よ花よと扱われる生活に辟易して、ワンピースの皺くらい自分で直してやると意気込んでいたのだ。ランドリールームに忍び込み、アイロンと折りたたみ式の台を拝借して自室に戻ったあとで事態は起こった。
 足をコードに引っ掛けてしまったせいで、高温状態のアイロンが台から落下したのだ。ジュッ! と嫌な音がした。

『百香!』

 悲鳴が聞こえたらしく、遊びに来ていた柊人とともに千影が飛び込んできた。そして、突然口づけられたのだ。
 夏だった。ファーストキスに動揺しつつ、激しい痛みが消えていくことに気づいた。ふっと下げた視線に、千影の足の甲が映り込む。真っ白なそこに火傷の跡が広がっていくのを見て、百香は瞠目した。
 ハッとして自分の足に視線を移すと、傷ひとつない。

 柊人が急ぎ両親を呼びに行き、入れ替わるようにして駆け込んできた使用人たちが脂汗をかいた千影を介抱したり医者を呼んだりと、場が騒然とする。

 そのあとやってきた早瀬川の父から千影が背負った宿命について聞き、地獄に突き落とされたような気持ちになった。

『……千影、お前は立派だよ』
『私をこう育てたのはお父さんよ。自分を褒めてあげたら?』

 後日千影の部屋でなされた親子のやりとりを、百香は引き戸の隙間からこっそり覗いていた。父が出て行ったあと、千影が机に突っ伏し静かに泣いている姿を見て、必死に気丈な振る舞いをしてきたのだと思い知らされる。

 そのとき、もう二度と怪我はしないと決意した。

 しかし、考えはしだいに変わっていく。
 祓魔師《エクソシスト》の世界にいる以上、いつ悪魔に襲われてもおかしくない。だったら、自分を犠牲にして救おうだなんて思わないくらい嫌われてしまえばいいんじゃないか。
  
 そうして千影に対して生意気な口を利くようになったことが、協会にも伝わっていたらしい。あるとき協会トップである老齢の師団長がやってきて、人払いをしたのちに神妙な面持ちでこう言った。

『巫女が、死を迎える以外で役割から解放される方法がひとつだけあるのです。――要の君をその手で殺害することですよ。……おそらく、巫女となる者の魂には、このことが刻まれているのでしょうね。歴代の要の君の中には、巫女に殺されかけやむなく正当防衛を取ったという方が複数人いらっしゃいます。……ご自分の命の重みを、今一度よく考えてみてください』

 それを聞いたとき、自分の進むべき道がはっきりした。

 千影に、自分を殺させる。
 そのためには、逃走の活路が見いだせる機会に凶器を握らせるほかない。
 そのとき迷わず決断してもらえるよう、憎まれておくのだ。

 結果、悪魔が世にはびころうが知ったことではない。
 彼女がこの鳥籠から飛び立つことこそ、百香の唯一の願いなのだから。



「ここ、重要よ。マーカー引いておいて」

 一限目は化学だった。千影の凜とした声で、明るい教室へと意識が引き戻される。
 くすんだ緑色のシャツにタイトな黒いスカートを合わせ白衣を羽織った彼女は、金髪を揺らしながら流麗な文字で板書をしている。
 すらりと伸びた足は今日も薄手の黒いストッキングで覆われていて、「肌を見せないところがかえって色っぽい」と以前男子たちが話していたのを思い出した千影は、眉間に思いきり皺を作った。

 彼女を抱くとき、百香はいつも右足の甲にある火傷の跡を舐め口づける。
 そうしたところで傷は癒えない。それどころか、触れる度に穢していくのがわかる。

『俺が他の女に手ぇ出したら、大問題だろ?』

  そんな風にうそぶいて純潔を奪ったのは、千影が髪を染めて帰ってきた日の夜だった。
 遠くに行ってしまうようで怖かった。自由に飛び立ってほしいのに、どうしようもなく引き止めたくなる。
 熱を受け入れてくれたときには、抵抗されなかったことに絶望して、一方で震えるくらい嬉しかった。

 めちゃくちゃにしてやろうと決めていたのにできなかったのが悔やまれる。嫌われるための手段だったはずなのに、あれでは、ただ自分の欲望を満たしただけだ。

(今だって……)

 視線がいつの間にか千影の唇に向かっていることに気づき、自分に嫌気が差した。

 もう二度と口づけてほしくないのに、こんなにも触れたいと願っている。
 矛盾だらけだ。こんな日々が、いつまで続くのだろう。

 永遠であってほしい。明日終わってほしい。

(どっちつかずな俺を、誰か叱ってくれ)
 



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