見出し画像

短歌で人生を豊かにする方法とは?

『はじめての短歌』の衝撃

穂村弘、すごい歌人だ。規格外の人だ。読了後の感想。
ところで、筆者は国語の教員である。しかし創作をしてきたわけでもないので、歌人の名前は知っていても、短歌の良し悪しはあまりわからない。
つまり、後者のは感想だが、前者は推測ということになる。

本記事では、本書を読んで、学校の短歌指導に結びつけられることがないかをゆるく考えた。

学校では短歌は教えられない

教員をしていると当然、授業で俳句や短歌の指導をする機会がある。

これがむずかしい。国語の教員は基本的に文学系の人が多いが(たまに教育系がいるけれど)、文学を学んだ人間が文学の書き方を教えられるわけではない

そもそも文学なんて学校で学ぶものではない、とこっそりささやいて見る。立場的に大きな声では言いにくい。大声で言わなければならないなら、穴を掘って「文学なんて教えられないんだよ!!」というしかない。

一応、小説とか物語の類は「読解」という伝家の宝刀があるから何とかなるのだ。

ただ、短詩型文学の創作は生徒に勝手に作らせるしかない。せいぜい「俳句は五七五で季語を入れる」とか「短歌は五七五七七で季語は必須ではない」くらい伝えて、あとは野放し。

例外は、教員が俳人とか歌人である場合。こういうケースは結構あります。
この場合は有意義な短歌教室を開くことができるだろう。

ただ、文学部出の教員がすべて創作活動に従事しているわけではなく、何となく文学部を選び、創作技法も知らずに教員になる人もいる。

これは本人の責任ではなく、大学のカリキュラムが創作に重きを置いていないことが原因、と言っていい。

かくいう私も大学で創作法など教えてもらったことはないし、ライティングに類するような講義もなかった。

短歌創作で何に重きを置くべきか


教員は基本的にいい短歌の作り方は教えられないのだが、短歌を作る意味は教えられると思う。

教科書に短歌が掲載されているから、見よう見まねで作ってみましょう、というのは国語嫌いを増やすだけだ。

短歌創作の意味を示すために、穂村弘の『はじめての短歌』が役立つのではないか。

穂村弘は短歌について次のように述べている。

短歌って、日本語がたどたどしい留学生の人が書いても問題ないんですね。子どもが書いても全然問題ない。五七五七七の形を意識してもらえば。あと考えてほしいのはひとつだけなんですよね。それはサバイバル的に、「生きのびる」側の言葉を使っていないかっていうことでね。

穂村弘『はじめての短歌』(河出文庫)

昨今の「ファスト教養」的な考え方-最小限の努力で最大限の効果を期待する発想-とは対極に位置するのが短歌創作だ。

生きのびるために短歌はいらない。俳句もいらない。文学がいらない。
書評サイトをよく見るのだけれども、ビジネス書に特化した書評サイトが多くある。悪いということではない。

ビジネス書と文学書では読むという行為に差がある、ということに過ぎない。

生きのびるためにビジネス書を読むのならば、豊かに生きるために短歌を作る、小説を読む、そういうことだろう。

豊かに生きなくても生き抜くことはできる。だがむなしい。
穂村弘は次のようにも述べている。

ぼくらは、どんな人生が良い人生なのかを決めることはとても難しいんだけど、ひとつの尺度として、「死ぬ日に覚えている思い出が一個でも多い人生が、より良い人生なんじゃないの。そのとき一個でも思い出せることがない人生は、ダメなんじゃないの」っていう考え方があります。

穂村弘『はじめての短歌』(河出文庫)

よくSNSで目にするapple創業者のスティーブ・ジョブズの言葉を彷彿とさせる。(フェイクらしいですが)

短歌をはじめとした文学の効用は人生の鮮烈なイメージをブーストする、もしくは映像として脳に保管する、ものじゃないかと。

豊かに生きるために短歌を作る


子どもたちに自由に短歌を作らせていい。むしろ下手な口出しをしないほうがいい。生きのびることにあくせくしている大人より、子どもたちのほうがよほど豊かに生きている

ただ、短歌を作るときは型にはまらないような発想が大切なのだ、と教えることが大切だろう。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?