【短編小説】子育てはロボットに任せればストレスフリー

 人間には欠陥が多いので、子育てはロボットに任せるのが一番です。
 子どもというのはモンスターであり、あり余る体力と好奇心によって、私たち大人には想像もつかないような重大な悪事を――時にはまったく悪意なく、時には幼き残酷性を振りかざして――遂行します。大人たちがどんなに大切にしてきた家具であっても、子どもにかかればキャンバスに早変わり。スプーンは食物を口に運ぶためではなくぶちまけるための道具であり、外出先では大人にとってもっとも都合の悪いタイミングを見計らって泣きわめきます。
 そう、子どもはモンスターです。
 そのようなモンスターを相手にして、感情的になるなというのは無茶な注文。毎日毎日子育てという戦闘を続けていれば、親という歴戦の勇士でも、ついつい怒鳴り声を上げてしまうことでしょう。しかもかなり過剰なやり方で。
 では、大人の怒鳴り声という暴力に等しい一撃を受けた子どもの心は、いったいどのように変形するでしょう。遂行した悪事以上のしっぺ返しを食い、しかも泣いて謝罪しても許されずに、親のストレスがすべて発散されるまで、ただひたすらに怒鳴られ続けるとしたらどうなるでしょう。
 おそらくその心に決して消えない傷を抱えて生きていくことになると思います。場合によってはその心は砕け、二度と元には戻らないでしょう。
 結局のところ、人間がモンスターを育てようとすれば無理が生じるものなのです。
 だからこそロボットに任せる。合理的な判断だとは思いませんか?
 
 私は自分の息子を子育てロボットに任せています。しかもかなりの金額を払って、私と夫そっくりの外見をして、私と夫そっくりの声でしゃべり、私と夫そっくりの行動をとってくれるロボットです。私たちとの唯一の違いは、ストレスに非常に強いということ。ロボットはいつも適切な感情を表出してくれます。決して怒鳴ったりせず、きちんと「叱る」ことができます。冷静に、辛抱強く、叱ることができるのです。決して、子育てのストレスを子どもで発散するという過ちを犯すことはありません。
 私たちはロボットの子育てを、別宅から適切に管理しています。息子は彼らがロボットだとは気づいていない様子です。おかげで息子は、ロボットを通して私たちの愛を適切な形でその身に受けて、健全に成長しています。
 私たち夫婦は、基本的には息子の前には姿を現しません。息子からストレスを受け、彼を怒鳴りつけてしまうのを避けるためです。しかし、遊園地とか、バーベキューとか、運動会の応援とか……そういう楽しいイベントだけは私たち自身が参加します。息子が寝ているうちにロボットたちと入れ替わり、翌日に備えるわけです。一日程度のストレスであれば、八つ当たりせずに耐えられますから。
 そうしたイベントのときは、一日を楽しみ、思い出をたくさん作りつつも、私は息子を間近で観察することを怠りません。息子がきちんと父母を愛し、父母に感謝していることをたしかめるのです。もちろん毎回、息子の精神が適切な方向へと成長していることを確認するだけで終わるわけですが。
 翌日からはまた、すべての面倒事にはロボットが対処してくれます。
 
 これほど効率のよい子育ては他にないと思います。
 ストレスの問題ももちろんそうですし……何より、子は親を見て育ちますから。生身の人間は子どものお手本になるには欠陥が多すぎます。その点、ロボットならば常に完璧な両親を演じてくれるでしょう。模範的な人間を見て育てば、息子はきっと模範的な大人へと成長してくれると思います。
 息子がどんな大人に――どんな理想的な人間に育ってくれるのか、私は今から楽しみでなりません。
 
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 人間には欠陥が多いから、親孝行はロボットに任せるのが一番だ。
 老いた親というのはモンスターであり、人の話など決して聞きはしない。しかも、子育てに投資してきた分を返すようにと、たびたび我が子に要求する。彼らは子育ての努力が報われることを切に願っている。金銭的にも、精神的にも。
 もちろん、もしも彼らが子育てをロボットに頼っていたのでなければ、俺も何か別の方法を考えたかもしれないが。ロボットの子育てに報いるならば、ロボットの返礼が一番だ。それとも、見せかけの努力が報われることはないものだと、俺はわざわざ老人たちに教えて差し上げねばならぬのだろうか?
 
 幼いころ、俺は両親を完璧な大人だと思っていた。
 少し成長してからは、完璧な大人を演じているのだろうと思いはじめた。
 そして最終的には、完璧なのはロボットで、親は欠点だらけであると知ったのだ。
 
 おかしいと思ったのは、遊園地に行ったときや、バーベキューをしたとき、それから運動会のとき――そうしたイベントにおいてだった。両親はイベントのときだけ完璧ではなくなった。俺の支度が遅かったり、言うことを聞かなかったりすると、普段と違ってすぐ感情的になったものだ。
 それに加えて、あの目――俺を疑い、欠点を探り出そうとするようなあの目を、俺は忘れようにも忘れられない。それは普段の両親とは別人の目だった。あの目に見られるたびに、楽しいはずのイベントは、ひどく居心地の悪いものに変わってしまった。
 やがて俺は、普段の模範的な両親が、イベントのたびに現れる感情の奴隷たちとはまったくの別人だと知ったのだ。
 
 両親がロボットに子育てを任せていると知ったとき、俺はショックを受けたりはしなかった。まったく逆で、俺はむしろ父母に感謝した。考えてもみてほしい。もしロボットではなく、あんな両親の手で育てられていたらと思うとぞっとするではないか。模範的なロボットに育てられていなかったら、俺はいったいどうなっていただろう。少なくとも、真っすぐに育つことはなかっただろう。なんらかの歪みを抱えて生きていくことになったはずだ。
 子育てをロボットに任せるという両親の判断は、正しかったと言わざるを得ない。
 
 だから俺は、両親を見習うことにした。
 今年から、俺の代わりにロボットを帰省させることにしたわけだ。これから盆と正月は、両親は毎年ロボットと過ごす。ロボットが演じるのは完璧な息子だ。
 帰省のときのみならず、ロボットはこまめに両親に電話する。健康に問題はないかと尋ね、仕事の様子を適度に報告する。父母の誕生日、そしてもちろん父の日、母の日には必ず心のこもった手紙かプレゼントを用意する。不必要な米や野菜が送られてきても、イヤな顔をしたりはしない。見合いの話は不快に思われないように気を付けながら断るし、運命の相手と出会えたら、きちんと事前に報告に行く。そして子どもができたら、孫型ロボットを連れて会いに行く。
 そうした行為は、俺自身が完璧に実行するのは甚だ困難なものだ。必ず親は不満を覚え、そこには軋轢が生じる。正直、自分の人生だけで精いっぱいなのに、親を背負って走ることなど不可能だ。3人分の人生を生きるのは、人間という欠陥だらけの存在にとって荷が重すぎる。
 にもかかわらず、老いた親の欲求には際限がない。人生の終着点が見えてきて焦る気持ちもあるのだろう。そんなとき、模範的な息子がそばにいることはとても重要だ。最終的に、親は介護が必要な年齢になるだろうが、そのときもロボットが活躍してくれることだろう。完璧な息子として完璧な役割を演じてくれるだろう。
 もちろん、遺産のこととか、そういう重大な話し合いだけは俺自身が参加する。かつて両親がやったように、ロボットと生身の人間の使い分けは大切だ。
 
 これほど効率のよい親孝行は他にない。
 生身の人間というのは、親を満足させるには欠陥が多すぎる。その点、ロボットならば安心だ。模範的な息子に孝行されれば、きっと親は笑って人生を終えることができるだろう。
 これが俺なりの、感謝の仕方だ。