【短編小説】日曜の午後、人魚を探しに行く

「人魚の肉が食べたい」
 ソファでくつろいでいるときに、ヒナが突然言った。ユウイチが顔を上げると、ヒナは手にしたスマホの画面をスクロールし、繰り返す。
「うん、食べたい。人魚の肉」
「また漫画か何かで読んだの?」
「そう。死ななくなるんだって」
「死ねなくなる、とも言うかな」
「そうかも」
 ヒナはうなずいた。漫画の表示されたスマホを左右に振る。
「人魚の肉、どこにあるの?」
「そりゃあ海だろうね」
「じゃあ行こう」
 言うが早いかヒナは立ち上がった。ユウイチがソファに身をあずけて眺めていると、てきぱきと釣竿とクーラーボックスを用意してしまう。ユウイチは笑った。自身も立ち上がり、車のキーを手に取った。
 
 
 
 ユウイチはヒナを助手席に乗せ、ハンドルを握った。日曜ののどかな空気の中を、車は滑るように進んでいく。海に向かって進んでいく。
「今の車の人も、人魚を獲りに行くのかな」
 途中、運転の荒い車に追い越されたときにヒナは言った。ユウイチは追い越しの車を目で追って「そうかもしれない」とだけ答えた。
 
 間もなく、きらきらと宝石をまぶしたように輝く海が見えてきた。ヒナは窓を開けて、潮の匂いをいっぱいに吸い込む。そしてユウイチを振り返った。
「沖に出た方がいいのかな」
「だとしたら船を借りなきゃいけない」
「じゃあ船を探そう」
 ヒナはやる気満々だった。ユウイチが適当なところに車をとめると、彼女はさっそく釣竿を手に降車する。ユウイチはクーラーボックスを担いであとを追った。
 海藻や流木がごちゃごちゃと散らばっている、あまり見栄えが良いとは言えない砂浜に、2人でおりた。砂に足を取られながらも、ヒナは海沿いに歩いていく。まだ冬には早いとは思っていたけれど、海風は冷たかった。
 
「いた。人魚」
 しばらく海沿いに砂浜を歩き、ごつごつした岩場に辿り着いたところで、ヒナが前方を指さした。ユウイチは彼女の示す先に目を向ける。浜からほど近い、浅瀬から突き出たとがった岩の先端に、人魚が腰かけていた。下半身が魚で、上半身が人間の女性。貝殻で作った水着とかではなく、普通のTシャツを着ていた。
「本当だ。人魚だ」
「でも、この釣竿じゃ無理そう」
 ヒナが釣竿と人魚を見比べて残念そうに言う。彼女はユウイチが担いでいるクーラーボックスを一瞥してから、また人魚に視線を向けなおした。
「肉をくれないか訊いてみよう」
 ヒナは砂浜を歩いて岩場に向かって突き進んでいく。ユウイチもあとからそれを追う。やがて2人は声が届くくらいの距離にまで、人魚に近づいた。
「すみません」
 ヒナが後ろから声をかけると、人魚はビクッと震えて振り返った。そして、声をかけたのが釣竿を持った女性だと見て取って、ニコリと笑った。
「人魚の肉をくれませんか。お代は払います」
 ヒナは単刀直入にお願いした。けれど、人魚は首を傾げただけで何も答えなかった。ヒナはユウイチに目配せする。ユウイチは仕方なく、彼女の代わりに声をかけてみた。
「ハロー。ハウ・アー・ユー?」
 人魚は困ったように眉をハの字にした。ヒナとユウイチは顔を見合わせた。
「日本語も英語も通じないみたいだ」
「困ったね。どうしよう」
 ヒナは途方に暮れた様子であった。ユウイチも同じく途方に暮れてしまった。事情を吞み込めない人魚は、ヒナとユウイチと、釣竿とクーラーボックスとを順々に眺めて……やがて笑った。
 
 どぼんっ
 
 気づいたときには、人魚は海に飛び込んでいた。ヒナが「あっ」と言って追いかけようとしたので、ユウイチは腕をつかんで引き留める。ヒナは不満げにユウイチを見た。ユウイチは首を横に振った。
 
 人魚は間もなく戻ってきた。Tシャツは当然びしょ濡れになっていたけれど、気にしてはいないようだった。人魚はぴちぴちと暴れる魚を2尾、両手に持っていた。
「サンマだ」
 ユウイチはそう言って、クーラーボックスを開いた。人魚はボックスの中にサンマを投げ入れてくれる。コントロールは正確だった。見事にボックス内に収まった2尾の魚を見て、ヒナが目を丸くする。
「このへんでサンマって獲れるの?」
「分からない」
「人魚だからかな」
 そんなふうに納得すると、ヒナは「ありがとう。サンキュー」と声をかけた。人魚は、今度は首をかしげなかった。ニコリと笑って、両手のひらをこちらに向ける。
 
 間もなく、ヒナとユウイチは人魚と手を振って別れた。離れてから振り向くと、ちょうど人魚が海に飛び込んだところだった。彼女はそれっきり、姿を見せなかった。
「今晩はサンマの塩焼きにしよう」
「そうしよう」
 ユウイチは微笑み、ヒナと一緒に砂浜を歩いた。砂に足を取られながら。クーラーボックスを揺らしながら、ゆっくりゆっくり車を目指した。