【短編小説】成仏運転

「お姉さんは生きてるんですか?」
「え?」
 コンビニバイトの最中、カウンターに頬杖をついてあくびをしていたとき、不意に小学生くらいの男の子に声をかけられた。彼は売り物の板チョコを手に私を見上げていた。
「すごいことを訊くね、お客さん」
「すみません、気になってしまって」
「生きてるよ、多分ね」
「そうなんですか」
「うん」
 私は体を起こして右手を差し出した。男の子はちょっとびっくりした顔をしてから、慌てて板チョコを渡してくる。人気アニメとのコラボ商品で、バットをかまえたイケメン野球選手のイラストが描かれている。タイトルはたしか『転生したら史上最強二刀流メジャーリーガーだった』。
「……僕は分からないんです」
 バーコードが読み取られるのを眺めながら、男の子はぼそりと言った。
「市役所に行っても、証明書をもらえなくて」
「……498円です」
「はい」
 男の子はかわいらしい丸い財布から小銭を取り出した。私はお金を受け取り、お釣りを渡し……チラリと、レジ奥の壁に貼られたポスターに視線を投げる。バイト募集のポスターだ。制服姿の男女が笑顔で働くイラストと、応募資格として「生死を問わず」の文字。時給に関しても「生者」と「死者」は同額に設定されていた。
「君はまだ若いんだから、証明書なんていらないでしょ?」
「でも……発行してもらえなかったってことは、僕は生きていないのかなって」
「私も証明書なんて持ってないよ」
「え?」
「正社員にならないなら、別になくても困らないからね。……袋いりますか?」
「あ……いらないです」
 私は板チョコをそのまま男の子に手渡した。男の子はそれをぎゅっと胸に抱く。レジが吐き出したレシートを男の子に渡しかけて、私は思い直した。レシートを指の中でくるくると丸める。
 私は生きている……と思う。少なくとも死んだ覚えはない。自分が死んだことを覚えていない死者は珍しくないから、記憶はあまり信用できないけれど。とにかくこれまでの人生では、自分が生きているという前提で生きてきた。
 少子高齢化の時代。どこへ行っても労働力は不足しているから、アルバイト採用の際にいちいち生死は確認されない。
「いいじゃない、仮に死んでたって。特に不便はないでしょ?」
「でも……急に成仏するといけないから、いい仕事には就けないって」
「詳しいね、若いのに」
 私はうなずき、店内を見回した。店員と小学生の世間話を邪魔するようなクレーマーはいない。というか他に客がいない。
「あ……このアニメ、大好きなんです」
 私が店内から男の子へ――正確に言うと彼が手にしているチョコレートへ視線を向け直すと、彼はちょっとどぎまぎしながら言った。アニメ『転生したら史上最強二刀流メジャーリーガーだった』のキャラクターが描かれたコラボ商品。あまり興味はなかったけれど、私は「ふうん」と相槌を打った。
「面白いんだ」
「はい、それに……」
「それに?」
「もし僕が死んでいて、もし成仏するんだったら……」
 男の子はチョコの袋に描かれた、野球選手の姿を指でなぞった。寂しげな目をしていた。
「そうなったら、またどこか別の世界で目を覚ませるのかなって」
「……そういうのも、あるかもね」
 私は曖昧な返事をした。成仏した死者がどこに行くのか――多分、世界中で研究が進んでいるだろう。それに関する本を書店で見かけたこともある。けれど結局、何が真実なのかを私は知らない。この世界の仕組みはとても複雑であり、自力でちょちょいと調べたくらいでは、疑問は解消されるどころか膨れ上がってしまう。だから私は分からないことは分からないまま、胸の中に放置して生きていくことにしたのだ。
「お姉さんは気にならないんですか、成仏したあとのことが」
「…………」
 私はすぐには何も答えなかった。チョコレート。転生したらメジャーリーガー。生者。死者。アルバイト。いろいろな言葉が頭の中に泡みたいに浮かんでは消えていく。そうした言葉たちは、口から出されなければ世界に毛ほどの影響も与えはしない。最初から存在しなかったのと同じことだ。
 では、死者はどうだろうか。
「私は……」
「あっ……!」
 私が口を開きかけた、ちょうどそのときだった。
 自動扉の向こう――コンビニの外が急に暗くなる。私と男の子は同時に外に目を向けて、そして見た。車道をはずれた大型トラックが、その巨体を唸らせてこちらに突っ込んでくるのを。
 一瞬、時が止まったかと思った。
 ガラス扉越しにトラックの正面が――あのごつごつした昆虫の顔面のような姿がはっきりと見える。ハンドルを握る者はなく、フロントガラスの向こうは無人だった。
 成仏運転。
 その言葉が頭に浮かんだ直後、時間は再び動きはじめた。
 
 ドグシャアアァァアァァァ!!!!!!!!
 
 私はとっさに身を伏せ、気休めと知りつつレジカウンターで身を守った。トラックはすさまじい轟音とともにレジカウンターの前を通過していった。ガラスが飛散し、はね飛ばされた商品群が私の頭上で粉砕されていく。トラックは、奥のドリンクコーナーに頭を突っ込んでようやく停止した。ジュースやお茶が滝のように流れ出し、床を洗っていった。
「……げほっ、ごほっ……」
 私は咳き込み、のろのろと立ち上がった。視界はすべて、立ち込める埃とトラックの巨大な荷台部分によって埋められている。
「……生きてる?」
 それは誰に対しての言葉だったのか。自分でも分からない。
 私はガラスの散乱したカウンターを踏み越えて、トラックとレジの間に――そのわずかな隙間に降り立った。男の子の姿はなかった。血の一滴も落ちていなかった。床を流れるジュースとお茶とアルコールが、男の子の痕跡を洗い流そうとする。私はジュースが足元に到達する前に、そこに落ちていた板チョコを拾い上げた。板チョコは半分にへし折れており、野球選手の顔の部分はちぎれていた。
 私はカウンターによりかかり、チョコの包装紙を破いた。露出したチョコをかじると、口の中に甘みが広がる。アニメとのコラボ商品といえども、味は普通のチョコレートだった。
「うん、美味しい」
 チョコを咀嚼し、つぶやいた。美味しいということは、私は生きているということだろうか。いやよそう。味覚など何の根拠にもならない。私は生者なのか死者なのか。このチョコを作ったのが生者なのか死者なのか。どっちでもいい。バイト代が支払われるならそれでいい。
 痛みを感じて、私は右の手のひらを見る。ガラス片が突き刺さり、赤い血が流れていた。私はかまわずチョコレートをかじり続けた。自身の血とチョコが混ざり合うのもかまわずに、もぐもぐと食べ続けた。