人生の夏休み 大学生活から就職まで
僕はAO入試を受けて合格し、明治学院大学に入学した。
附属高校だったため中京大学にそのまま進学するという選択肢もあったが、家族のことと生活の面から藤沢の実家に戻るというのが最優先だった。
ゆったりとした家族との生活へ。
入学前の2011年3月11日、東日本大震災が起きた。
入学式はなくなったが、サッカー部の練習は行われていた。
時間を持て余した僕は、自らアポを取り練習に参加した。
同期とは中学のクラブチーム時代の話をしたり、出身高校の話などからも意外な共通点があったり、比較的すぐに打ち解けることができた。
実際、サッカーのレベルは中京大中京高校の方が高かったと思う。
中京大中京のメンバーの、身体能力が高すぎだったのもあるが。
明学で頑張れば「4年生の時にはレギュラーで出れるかもなぁ」なんて淡い期待を抱いていた。
入学当初はサッカー部でガンガン頑張り、トップチームで活躍したいと思っていた。
しかし、入学早々から練習で肉離れをし休むことになってしまった。
部活に行ってもリハビリをして見学するだけで体力を持て余していたこともあり、その他のサークルの新入生歓迎会に潜入しいろいろな飲み会に参加した。
飲み会デビューを果たすと、徐々にサッカーに対する気持ちが冷めていった。
いつの間にか、サッカーを頑張ろうという気持ちがなくなっていた。
高校時代で、自分の実力から考えてプロサッカー選手として生きていくのは難しいと実感していた。だけど、サッカー部を辞めてサークルに入りのんびりウェイウェイするという考えには一切至らなかった。
これまでの人生でずっとサッカーしかしてきていない自分が、サッカーをやめたら何が残るのか?
ここまで続けてきたサッカーしか、自分を肯定できるものがなかったのだ。
しかし、「サッカーを頑張ったところで自分には先がない」と思っていた僕は、サッカーへの熱意は薄れ芯やプライドがなくなり、とにかく周囲に流されがちだった。
そうして、僕は徐々に「大学デビュー?」を果たしていった。
コールを覚えて飲んで、ゲームして飲んで、タバコを吸って。
朝練の用意を持って飲み会に出かけオールし、寝ないで朝練に行くなど体力に身を任せてフラフラしていた。
元々人見知りだったのだが、この頃から少しずつなくなっていったと思う。高校時代まではプライドが高く人からいじられるのがとても嫌いだったのだが、それも少しずつ嫌ではなくなっていった。
むしろ、いじられるのはおいしいことだということに気付いた。
あえて自分を落としていじられにいったり、プライドを捨ててアホをやったり。友達にKARAの「ミスター」を踊らされたり。
今まであまりアホをやれなかった自分を引き出してくれた友達にとても感謝している。もちろん、お酒の力が加わったおかげもあるが。笑
だらだら過ごす中で、バイトにも気が入らず長続きしなかった。
唯一長続きして2年半やったのは、テラスモール湘南の映画館のバイトだ。
仲良くみんなで飲み会をやって「ザ・大学生」みたいなバイト生活を送っていた。
フラフラしているとあっという間に月日は経ち、大学2年生に。
サッカーへのやる気のなさがピークを迎えていた時、気付けばチームの最下層にいた。
試合の対戦相手のレベルも大きく下がった。
僕は、ディフェンスは全然やらない、ボールを取られても追わない、個人プレーに走る。ちんたらちんたらしていた。
どうにもこうにもやる気は出ず、魂を抜かれた抜け殻状態だった。
練習が終われば隠れてタバコを吸い、授業は出席だけして寝る。
それからバイトをして夜は飲みに行く。
起きたら朝練に行き、授業がなければ昼から一軒め酒場に飲みに行ったり。
バチがあたったのだろう。
サッカー部の合宿中にお酒を飲んでるのが先輩にバレて大問題になった。
約2か月近く、軍手と火バサミとゴミ袋を持って、学校周辺から戸塚駅を掃除することになった。
一切練習をさせてもらえない状況に。
少しずつお許しが出て、外周から始まりなんとかチームに戻してもらえるようになったが、腑抜け生活のピークを迎えていた。
しかし、腑抜けの生活を送っていても飽きるタイミングが来るものだ。
本当に、自分ってしょうもないな。
いつからこうなってしまったんだろう。
遅れてきた中二病か、頑張ることが恥ずかしい。
しかしもう、本気でサッカーをやれるのはこの大学生活だけだろう。
「このままで良いのだろうか?」
自問自答を繰り返していた。
2年生の秋くらいだろうか。
気持ちを入れ替えて練習するようになった。
走り込みが多かったのだけど、体力を取り戻していき上位に入るようになっていった。
そして少しずつ評価も上がり、徐々に上のチームに引き上げてもらうことができた。
そして、3年生になる前のタイミングで開かれる新人戦。
初めてトップチームの公式戦に出場した。
対戦相手が弱かったこともあり、得点を決めたりで好調!
しかし、舞い上がったのも一瞬、長続きはしなかった。
自分の実力が至らない中で、何かが足りない、光るものがない。
結局、チームにとって欠かせない存在になることはできなかった。
また気付けばBチーム。
さらに、グローインペインになったり、肉離れをしたりで怪我続き。
サッカーはもういい。
それから、僕のサッカーに対する情熱が再燃することはなくなってしまった。
3年生の夏休みを迎える頃、
僕は就活を見据えてインターンシップに参加しようと考えていた。
しかし、自分はどんな仕事をしたいのか、何も検討がつかなかった。
ずっとサッカーと飲み会しかやっていなかったので、それ以外にやりたいことが思いつかない。
ただ、自分の父は製薬会社に勤めていたため、父がどういう仕事をしているのかは気になった。
その背景から、インターンでは製薬会社を受けてみようと考えた。
父から情報を聞くと、新薬のパイプラインをたくさん持っているところがいい、ということらしい。
とりあえず、ネット上に出ている業界ランキングなどをリサーチした。
インターンの内容としては、仕事内容を具体的に知れるものが良いと思い、営業同行をさせてもらえる、三日間以上のプランが組まれているところを受けようと考えた。
また、そのインターン期間でうまく目をつけてもらえれば、そのまま内定にも繋がるだろう、なんて淡い期待も抱いていた。
そうして受けたのが、大日本住友製薬のインターンシップ。
正直、面接など苦手だった僕はまったくうまく話せなかったのだが、言葉に詰まりながらも気持ちだけで熱意を伝えていた。
倍率は高かったという話だったが、難なく合格。
約一週間のインターンシップに参加することになった。
僕はそのインターンで、見事ボロボロになった。
グループワーク、グループディスカッション、資料作成、プレゼンテーション、レポート提出など。
すべてにおいて、何もできなかった。
学部生から大学院生や薬学部生までいる中で、論理的な思考力からプレゼン能力まで明らかに自分は劣っていた。
グループで話し合っても、とにかく思考が浅い。
物事に対して深掘りすることだったり、論理的に整理することだったり全てが弱い。
考えを文章に起こしても全然まとまらない。
プレゼンをしてもまったく内容をまとめられず、何を伝えたいのかがわからない。
もっとうまくやらなきゃ、と考えれば考えるほど硬直した。
自分のできなさが恥ずかしくてしょうがなかった。
それはどんどん悪循環に、深みにはまっていった。
失敗を繰り返すことで、完全な上がり症になってしまっていた。
気付けば、みんなの前に立つだけで頭の中が真っ白になった。
インターンの帰り道、ストレスで嘔吐していた。
とにかく、このままではまずい。
「うまくいけば内定もらえるかも!」なんていうのは夢のまた夢で、自分の現在位置をよく知ることができたインターンシップだった。
この経験から、グループディスカッションやプレゼンテーションのワークやセミナーに積極的に参加するようになった。
そういう場で、とにかく手を挙げて質問したり発言をしたりするようにした。失敗してもいいから、グループディスカッション時もあえて発表者に立候補した。
そのことにより、なんとか人並み水準に考えたり話したりできるようになったと思う。
同時並行で、就活で必須の「自己分析」をしていた。
今までの自分の過去を振り返っていた。
自分はどういう人間で、どういうことが好きで、どういうことが得意なのか。
自分の価値観や、得意なこと、好きなこと、苦手なこと、嫌いなこと。
当時、自分の考えた軸は下記の3つだった。
(1)感謝 / 恩返し
(2)お金
(3)実力主義
一つ目は、これまで自分を育ててくれた両親、とても負担を掛けた家族に対して何も恩返しができていない。
多くのことにチャレンジさせてもらってきたのに、何一つ華々しい活躍として、晴れ姿を見せることができていない。
そのことが何よりも心残りであった。
何か形として「必ず家族に恩返しをしたい」そのことが第一優先だった。
その原体験は僕の高校時代だ。
二つ目は、僕はとにかく自分がやりたいことに対してわがままで、元々はお金のことなど全然考えていなかった。
しかし、幼少期から地元の少年団とクラブのサッカースクールに3つも通わせてもらったり、塾にも通わせてもらったり。数万円掛かる遠征費だってそう。
さらに、高校時代には自分のせいで家族は名古屋と神奈川の2重生活で家計の負担は倍増。
それを実現できたのは、父と母が頑張って仕事をしてくれていたから。
かつ、世間一般でいう収入が高い業界で働いていたからだ。
そのことから、まずはお金に詳しくなりたい。
そして、自分自身の将来を考えたときに、お金に困ってやりたいことがやれないような環境になりたくない。
自分に家族ができた時に、やりたいことをやらせられないような家庭にしたくない。
そのことから下記の2点を重視して考えた。
・お金に詳しくなる
・給与水準が高い業界
上記から、金融業界、特に銀行を考えるようになった。
三つ目は、サッカーを通してずっと実力、結果が第一の世界で生きてきた。
年功序列で給料が上がっていく世界の方がのんびりとしていられるかもしれない。
ただ、自分が家族に恩返しをしたいと考える中で、のんびりとできる環境は適さないと思った。
自分が納得できる恩返しとは、実力で這い上がり、その上で自分がトップに立つこと。金融業界で自分が40歳になった時、もしくは50歳になったときに、支店長などの役職に付いているようでは遅い。
その考えから、実力を評価してもらえて、それに準じた昇進、待遇が見込める環境が良いと考えた。
ある銀行での面接の際に質問してみた。
「最短で支店長になれるのはおよそ何歳くらいでしょうか?」
「早くても40代、もしくは50代になるだろう。」
とにかく、しっくりこなかった。
その中で受けていたのが東京スター銀行だった。
東京スター銀行では、すでに30代で支店長になっている人がいる。
ボーナスの割合も人によっては年収額くらいもらっているケースもあり、結果や実績が反映されやすい風土がある。
また、銀行の中では特殊で中途入社の人が多くバックボーンもさまざま。
過去の東京相和銀行時代に倒産した背景と、その後に投資ファンドに買われて運営されていた背景があり、安定性に不安はありながらも自分の考えと合うと思っていた。
そして、無事に内定。
そのまま内定を受諾して入社を決意した。
無事に就活を終えて大学4年生、
就活に集中しており部活にはほとんど行っていなかったため、身体が驚くほど動かなくなっていた。
復帰後は、肉離ればかりで、どうにもならない状況だった。
もう、サッカーは満足にできないなと思った。
怪我をしてなかなか動けない中で、本格的に筋トレに目覚めたのがこの頃だった。
最後の大学生活、
仲の良いメンバーとサッカーをやりながら、部活後はみんなで楽しく帰り、和気藹々とした大学サッカー生活だったと思う。
何かに真剣に打ち込むことなく、ただただゆるく楽しい時間を過ごした大学4年間。
まさに人生の夏休みだった。
これから期待と不安が入り混じった、社会人生活が始まろうとしていた。
働き始めてから、さらに自分にとって強い価値観が作られるのだった。
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