香山の6「ビー玉」(11)

 『お前が香山か』という言葉に反応した自分の思慮の浅さを呪った。呼吸がなかなかできない。

 鈴木と名乗ったその男は、確実に私の首を絞め、行動に必死さがうかがえた。
 どういうわけか、私は、自分の罪を思い出していた。
 私は、自分の虚構の愛を現実であるかのように見せかけ、幾人の女から搾取を繰り返すヒモの生活をしていた。ある日を境に自身がヒモであることが耐えられなくなり、すべての女に真実を打ち明けて関係を絶った。思えばあの瞬間、私は女を虜にする能力を自己愛の材料としていて、自身の時間を無駄にされたという女の悲嘆は全く響かなかった。あくまで私は、こうありたくないという私から遁走したにすぎなかったことを認めなければならない。
 私は、風俗店でバイトを始めた。電話の鳴るままに案内所へ客を迎えに行き、笑顔で嘘をついては女を売っていた。そして、客に辛辣な行為をされ、泣きながら退勤していく従業員を、数知れず見た。私がここで働いているからだ、と自覚しながらも、自身の生活のため、私は仕事を辞めなかった。諸悪の生みの親は店長なのだ、と責任転嫁しては、歯車を正当化しようと試みていた。だが、建設者の私は当然その論理の空洞性を見透かしていた。日に日に他人の苦痛を見るうちに、他人の痛みに慣れるどころか、拍車をかけるように世界への認識が厳密性を増したのだ! この時期から私は、以前より喫む煙の量が明らかに増えた。煙草は手軽に入る合法なドラッグの一つであり、罪から意識を遠ざけるために、どうしても薬に頼るほかなかったからだと推測する。やがて店は潰れ、また私は収入源を失った。
 そして、ろくな職歴もなかった私は仕方なくこの業界に足を踏み入れたのだ。夜の街で働くと、様々な方面から客を受け入れる。次第に、運命とやらのせいか、物騒な方面ばかりの人脈が増えていった。そして様々な物騒な人間を自分の配下に置き、人を傷つける商いを始めた。
 私は、大変に汚い人間だった。罪悪を思い返せば思い返すほどに、死は美しく清らかに私を浄化してくれるかのような観念に見えた。自分が生きながらえるには、罪を重ねすぎたのだ。今こうして現実に自分が殺されるのも、天罰覿面であった。黒い闇が徐々に思い描いた景色に滲み、とうとう私は幼少期の自身の顔写真すら浮かべる始末である。明らかに、私は人生を悔いていたのだ。そして私がここで死んで誰かの役に立てるのであれば、それ以上に何を望むであろうか。
 ようやく私は、死を迎え入れることにした。相変わらず苦痛は私を襲うが、それもあと少しで終わる。
 すると私は気管が広がるのが分かった。咳とともに唾液が口から飛び出て、鈴木の腕が離れたことを確認した。
 窓の外には、鈴木の肩にナイフを深々と突き立てる明の姿があった。鈴木が悶絶していた。
「離すな、明」
 明は顔に痣のような傷を負って、上の前歯を一本欠いていた。ダッシュボードの上の拳銃を回収して、鈴木に向けた。明がナイフを抜き取ったかと思うと、もう一度、二度と肩を突くので、制止した。明は、明確な殺意を伴って鈴木の肩を刺していた。しかし、今この男に死なれては、私が命を狙われた意味が知れなくなってしまう。
 すぐには気づかなかったがこのときの私には、死を受容する姿勢というものが全くに欠如していた。死は目前に近づけば、あれほどまでに美化された観念に化けたのに、救済を得て遠ざかった途端にそれは忌むべき滅亡の黒々とした固まりに戻ってしまったのだ。死は遠くから見ると怖ろしく、近くから見れば美しい、奇妙な遠近法の論理を持った概念であった! そして私はここでもう一つの道を見出した。私が死を美化したのは、あくまで自身の幸福を増やすための、即席の自己正当化行為だったのではあるまいか? 現に私は、幸福から離れた今ですら幸福に満ちて拳銃を構えているではないか!
 鈴木と明を後部座席に乗せ、私は駅から出発した。幸いにも、誰も私達に注意を払っている様子の無かったことは、人々の無関心に感謝せざるを得ないところであった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?