香山の8 「侠盗」(13)

「こんなシャンパンが五万とは、本当にあほらしい世の中だよな、君」
 嶋(しま)と名乗る男が、メニューを見ながら私に問いかけた。私達は、中洲川端のビルの一室を借りたキャバクラにいた。キャストがそのシャンパンを取るために席を外している間のことだ。彼は、私のところの風俗店の常連であった。
「他のところはどうなっているのか知らないが。実にあほらしい。ところで、俺は建設関係の仕事をしている、と教えたことはあったかい」
 アルコールの回った客が他人の目を忘れるようにして始める、こういった独白じみたものが私は好きであった。以前にもそのことは聞いていたのだが、私は、首を振った。
「そうかい。では明かすがね、実はそうなんだ。うちの会社はね、客に物件の値段を提示して、それを払わせるのだがね、その値段の内訳なんか、まるで嘘っぱちだ。レトリックに酔うのなら、嘘で塗り固められた請求書を送りつける、とこうくるわけだ。コンビニの握り飯と同じさ。実際、あの米の塊がどんな内訳になっているのか、つまり、商品の原価率なんぞは誰も考えようとは思わないんだ。 俺達の商品の原価率なんかはな、四割にも満たない。でも残された六割は利益だけじゃない。では、一体その虚ろな金はどこに行くと思うかね」
 私は、間抜けの様をまとった。
「さあ、考えたこともないですなあ。嶋さん個人の給料ですか」
「それもあるがね、君、暴力団だよ、物騒だろう? 実に物騒だよ。俺達は、その虚ろな金を、暴力団に払っているんだ。いつのころからかは分からんがね、そういうことになっているのだよ。どこの建設会社だってそうだ。そういうことになっている、というだけでそうなっている。俺は、金払いのいい会社だし、そんな危ないことを目にするわけではないから、辞職しようなんてことはこれっぽちも考えちゃいないのさ」
 彼は一見、温厚な人間に思え、そんな一面があるとは夢にも思っていなかった。彼の他にも、そういった類の人間は枚挙にいとまがなかったが、こんな男ですらその一人だとは思わなかったのだ。予想もしていなかった返答に、私は善悪のない興味を惹かれて話に聞き入った。人間が好奇心をもって歴史を歩んだからこそ、今の文明があることを忘れてはならない。
「俺も含めて、この世の中は実に吐き気のするほど穢れた人間どもであふれていると思っている。みんな、馬鹿から金を合法な形で盗み取っているんだ。信頼の壁に向かって知恵の糞便を投げつけて、その壁を見ては清々しい達成感を覚える。そして『さあ、明日も頑張ろう』と言うんだ。それが、俺達が呼ぶ労働というやつの黒幕さ。俺は今日、気まぐれでせめてもの罪滅ぼしと思って、馬鹿どもから奪った金を、ここで働き、人身で商いをしている馬鹿どもに返してやるんだよ」
 嶋は侮蔑の滲みかかったまなざしで店内を見渡した。彼の内部に存在する虚構の色恋でにぎわうこの店内に座る私達二人は、互いに虚構の関心を装っていた。
 無関心になるのは、狭い空間に密集された人間の発揮する性、人間ならせうがなひのだ。
 そのとき私は彼に、風俗店の経営難から、物騒なことを商いにしようかと考えていることを告げた。その考えは貧困に追いやられ、無関心の境地にたどり着いた私の結論であるかのように思われる。彼は、知り合いの暴力団員を私に紹介した。その暴力団員は、中崎滉介(なかざきこうすけ)という、私と歳の変わらぬ、服装の柄が悪い男だったが、どこか私よりもはるかに分厚い経験を隠し持っているような男だった。
「嶋さんから聞きましたよ」
 私達は、タクシーの中、喫茶店へ向かう途中であった。彼は話を続けた。
「それにしても、そろそろ暑いでしょう、その服装では。」
「そうですね、福岡もすっかり暑くなってきました」
 私は季節外れの長袖の背広を着ていたので、それを気遣っての発言であった。春も終わりに差し掛かり、ちらほらと薄着の人間は街に現れはじめていた。。実際私も汗ばんでいた。私は彼に成り行きを説明した。
「そういうことでしたらこちらから、お仕事を回しますよ。こちらも、警察の世話になることが減って助かるってもんです」
 私は謝辞を述べた。中崎の手首のブレスレットががちゃがちゃと音を立てる。左手にはロレックスを着けていて、間隔をおきながら誇示するように時間を確認する素振を見せた。
「香山さん、一つ警告じみた、説教じみたことを言わせていただきますがね、この業界、一度入ったら戻れませんよ」
 私は、中崎の警告を聞きながらも、選択を変えようなどとは思わなかった。危ない稼業とは承知しての選択であったし、今更大上段に構えられたところで、何の仄聞もなければその想像を膨らますほどの警戒心は備わっていなかったのだ。私は生返事をした。
「そういうものですか。ところで可能なら、そのあたりのことをしてくれる人間を探しているのですが、心当たりはないですか」
「ちょうど、昨日組に入ったばかりの男がいましてね。呼びましょうか」
「しかし、彼にも組に入った目的だとかがあるのでしょう。すぐに移しては彼も反発するのでは」
「いいえ、あいつは人の目をしていない。かといって、すすんで悪意を発する奴でもないのです。気まぐれでこの世界に入ってきたみたいな、気に食わん輩です。時として、そんな奴がふらふらとこの世界に入って来るのですよ。集団生活なんぞ屁とも思っていない奴なんでしょう。明、と名乗っていますがそんなのどうせ本名でもないんでしょうな」

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