白い楓(4)

「大学の卒業証書は運転免許のようなものだよ」
 という姉の言葉が気になった香山は、ぞんざいに大学の文学部へ進むことにした。気は進まなかった。どうせ人生は楽ではない。自分が経験したことのないような苦難があることは何となく予想がつく。それが、人口の半分近くが通過するライフステージを潜り抜けた程度で軽減されることはあり得ないのだ。そうやって反抗しつつも、免許証という言葉の軽々しさが妙にしっくりきた。なのでとにかく自分の低い学力に見合うところを必死になって見つけて、そこを受験した。福岡にある私立大学だった。
「東大とか、有名大学以外のことを企業はほとんど知らないからね」
 とも、彼女は付け足した。名を高くする大学の求める成績のレベルは非常に高く、自分の手の届くところではないので、都合がよかった。
 香山の何を言われようと穿った見方をする嫌いは、教鞭をとる人間の鼓舞などに空虚ゆえのうさん臭さを感じさせた。それでも姉のそういった発言にはどこにも抵抗なく受け止めることができたあたり、姉の言うことがもっともらしく聞こえたり、姉への信頼を持っていたのだとうかがえる。幸いにも同調する彼を後押しするだけの経済支援を申し出た両親を背に、とにかく大学へ進んで様子を見てやろう、と思った。

 大学へ入るとすぐにバイトを始めた。父親が送った仕送りで何の苦労もなく生活が望めたので、時給にこだわらず面白そうな職種ばかりを選んだ。飲食店は当然やったし、危ない職にも手を出した。色々な危険も体験することになったが、若いからにはそれも重要な経験であると前向きに捉えて、親心は無視することにしていた。目論見通り、転々とした勤務先で得れるものはたくさんあったから、後悔はしていない。

 大学を出た香山は定職に就かなかった。代わりに、中洲川端の南新地にある風俗店にてバイトをはじめた。常に石鹸と煙草の匂いが店内を占めていた。仕事をするのであれば常連を得るために対象の深い部分にまで入り込むのがふさわしい。体裁を求め、彼は休みの日でも客と会うことがあった。
「こんなシャンパンが五万とは、本当にあほらしい世の中だよな、君」
 嶋と名乗る男が、メニューを見ながら風俗店のボーイをしていたころの香山に問いかけた。二人は、中洲川端のビルの一室を借りたキャバクラにいた。キャストがそのシャンパンを取るために席を外している間のことだ。彼は、香山の勤める風俗店の常連であった。
「他のところはどうなっているのか知らないが。実にあほらしい。ところで、俺は建設関係の仕事をしている、と教えたことはあったかい」
 アルコールの回った客が他人の目を忘れるようにして始める、こういった独白じみたものが香山は好きであった。以前にもそのことは聞いていたのだが、首を振った。
「そうかい。では明かすがね、実はそうなんだ。うちの会社はね、客に物件の値段を提示して、それを払わせるのだがね、その値段の内訳なんか、まるで嘘っぱちだ。レトリックに酔うのなら、嘘で塗り固められた請求書を送りつける、とこうくるわけだ。コンビニの握り飯と同じさ。実際、あの米の塊がどんな内訳になっているのか、つまり、商品の原価率なんぞは誰も考えようとは思わないんだ。 俺達の商品の原価率なんかはな、四割にも満たない。でも残された六割は利益だけじゃない。では、一体その虚ろな金はどこに行くと思うかね」
 香山は、嶋のご機嫌をとろうと間抜けの様をまとった。
「さあ、考えたこともないですなあ。嶋さん個人の給料ですか」
「それもあるがね、君、暴力団だよ、物騒だろう? 実に物騒だよ。俺達は、その虚ろな金を、暴力団に払っているんだ。いつのころからかは分からんがね、そういうことになっているのだよ。どこの建設会社だってそうだ。そういうことになっている、というだけでそうなっている。俺は、金払いのいい会社だし、そんな危ないことを目にするわけではないから、辞職しようなんてことはこれっぽちも考えちゃいないのさ」
 彼は一見、温厚な人間に思え、そんな一面があるとは夢にも思っていなかった。彼の他にも、そういった類の人間は枚挙にいとまがなかったが、こんな男ですらその一人だとは思わなかったのだ。予想もしていなかった返答に、香山は善悪のない興味を惹かれて話に聞き入った。人間が好奇心をもって歴史を歩んだからこそ、今の文明があることを忘れてはならない、という彼の信条がそれに味方していた。
「俺も含めて、この世の中は実に吐き気のするほど穢れた人間どもであふれていると思っている。みんな、馬鹿から金を合法な形で盗み取っているんだ。信頼の壁に向かって知恵の糞便を投げつけて、その壁を見ては清々しい達成感を覚える。そして『さあ、明日も頑張ろう』と言うんだ。それが、俺達が呼ぶ労働というやつの黒幕さ。俺は今日、気まぐれでせめてもの罪滅ぼしと思って、馬鹿どもから奪った金を、ここで働き、人身で商いをしている馬鹿どもに返してやるんだよ」
 嶋は侮蔑の滲みかかったまなざしで店内を見渡した。彼の内部に存在する虚構の色恋でにぎわうこの店内に座る二人は、互いに虚構の関心を装っていた。
 無関心になるのは、狭い空間に密集された人間の発揮する性、人間ならせうがなひのだ。
 そのとき香山は嶋に、風俗店の経営難から、物騒なことを商いにしようかと考えていることを告げた。その考えは貧困に追いやられ、無関心の境地にたどり着いた人間の結論であるかのようであった。彼は、知り合いの暴力団員を香山に紹介した。その暴力団員は、中崎滉介(なかざきこうすけ)という、香山と歳の変わらぬ、服装の柄が悪い男だったが、どこか香山よりもはるかに分厚い経験を隠し持っているような男だった。

「嶋さんから聞きましたよ」
 香山と中崎は、タクシーの中、喫茶店へ向かう途中であった。彼は話を続けた。
「それにしても、そろそろ暑いでしょう、その服装では」
「そうですね、福岡もすっかり暑くなってきました」
 香山は季節外れの長袖の背広を着ていたので、それを気遣っての発言であった。春も終わりに差し掛かり、ちらほらと薄着の人間は街に現れはじめていた。実際香山は汗ばんでいた。香山は中崎に成り行きを説明した。
「そういうことでしたらこちらから、お仕事を回しますよ。こちらも、警察の世話になることが減って助かるってもんです」
 香山は謝辞を述べた。中崎の手首のブレスレットががちゃがちゃと音を立てる。左手にはロレックスを着けていて、間隔をおきながら誇示するように時間を確認する素振を見せた。
「香山さん、一つ警告じみた、説教じみたことを言わせていただきますがね、この業界、一度入ったら戻れませんよ」
 香山は、中崎の警告を聞きながらも、選択を変えようなどとは思わなかった。危ない稼業とは承知しての選択であったし、今更大上段に構えられたところで、何の仄聞もなければその想像を膨らますほどの警戒心は備わっていなかったのだ。香山は生返事をした。
「そういうものですか。ところで可能なら、そのあたりのことをしてくれる人間を探しているのですが、心当たりはないですか」
「ちょうど、昨日組に入ったばかりの男がいましてね。呼びましょうか」
「しかし、彼にも組に入った目的だとかがあるのでしょう。すぐに移しては彼も反発するのでは」
「いいえ、あいつは人の目をしていない。かといって、すすんで悪意を発する奴でもないのです。気まぐれでこの世界に入ってきたみたいな、気に食わん輩です。時として、そんな奴がふらふらとこの世界に入って来るのですよ。集団生活なんぞ屁とも思っていない奴なんでしょう。明、と名乗っていますがそんなのどうせ本名でもないんでしょうな」
 去来する車であふれる道路をタクシーは駆けて、博多駅の近くに位置する喫茶店に着いた。運転手の女性が、料金を告げた。香山はここから、何が起こるのかがおおよそ分かっていた。ほとんどの関係に置かれた二人は、料金を払う役割を到着までに決めず、到着したとたんに、ここは自分が、と言い始めるのだ。実際、確実に中崎は財布を取り出すつもりであった。
 中崎の財布は、灰色の長いルイ・ヴィトンであった。ロレックスにルイ・ヴィトン。彼の靴を外観だけでブランドをあてることはできない。そこで、おそらく財布同等の名声を持つものであると暫定するのは、過誤である。それは彼の背広についても同様だった。背広やネクタイ、靴といった、服飾を見抜く目が洗練されている者でなければ判別のできない範疇にあるものまで高貴な会社のものにする必要が、人にはないのだ。人は、いざショップの中で気に入った背広を見つけても、値段を見た時にその値段の必然性がないと考えては、安価なものに鞍替えする傾きがある。一体、ブルックス・ブラザーズを選択しておきながら、クロムハーツのブレスレットを装着する人間などいるはずがないのだ。香山は、彼が背広や靴へのこだわりが決定的に欠けている男の一人だと推測していた。香山がそういうがさつな点を鑑みては、彼が堅気から外れた人間だと考えた。彼の身に着けるものがコピー商品に見えてしようがなかったのは、そのせいだった。しかし香山は自身を俯瞰して同じ結論が見出した。香山はコピー商品を多量に所持していた。
 香山はグッチの長財布を取り出して一万円札を抜き取った。無論、彼はこの紙幣を出すことに抵抗があった。それでも彼は支払いをしようとするふりをした。
「中崎さん、今日は僕がお世話になるので」
「これぐらいなんでもありませんよ。そのお金は、僕らの協力のために他のところでお使いください」
 香山が下手に出たところを中崎の発言が包み込んだ。香山はもとより余裕のある生活をしていなかったので、支出への抵抗が中崎より強かった。しかし、中崎にその余裕があると考えたのは、香山の傲慢さ故だった。中崎が取り持つことになり、先に降車した。彼が下りたとき、香山は自分が気づかずに緊張していたことに気づかされた。彼が暴力団員であることを認識していた香山は、彼の逆鱗に触れるまいと慎重になっていたのだ。改めて見ると、彼は背広でわかりにくかったが、彼の肩幅はその屈強さを表し、大きな黒目と刈り込んだ髪が、偏見だと思いながらも怖ろしくてならなかった。やせ細った香山の体では勝ち目がない。先ほどのやり取りで、自分が仮に無理やり料金を支払っていたら、と考え、結論を出さずに彼は喫茶店へ急いだ。
 香山は中崎のためにドアを開けた。中崎は一瞥もくれずに電話をしながら入店し、即座に指を三本立て、煙草を吸うしぐさをしてみせた。店員が席へ案内するように手を上げ、歩いていくので、二人はついていった。香山は何人が席に座るのか、完全に頭から抜け落ちていた。自分が緊張していることをまじまじと思い知って、少し動揺していた。
「お前、今から博多駅の近くのコメダに来れるか。今すぐ。タクシー代はだそう。おう、じゃあ。待たせるなよ」
 彼は明という男を早口でまくしたてた。電話を切り、香山に向き直った。香山は慌ててメニューを開き、彼だけが読めるよう自分とは逆向きにした。中崎が片手でメニューの向きを、お互いが読めるようにし、すぐに注文を決めてカフェオレを頼んだ。香山は追従するようにカフェオレを注文した。
「この年になっても、甘いものが好きでして」
 中崎は笑ってそう香山に言うのだった。中崎が煙草に火をつけ、自分も続こうかと思ったが、気が引けてやめておいた。
「香山さん、煙草は吸わないんですか。僕はてっきり夜の仕事の方はみんな吸うのかと。明は煙草を嫌がります。あいつの心象を気にされるのなら、遠慮せず今のうちにどうぞ」
 そう言われて香山は煙草を吸うことにした。カフェオレが届いても、彼らはそのまま座り、ぎこちない会話をするしかなかった。いいや、香山自身は二人ともぎこちなく振舞っているように感じたが、実際には香山ばかりがぎこちない話し方で、中崎は徹頭徹尾どすんと構えた話し方だった。その威圧に香山はどこか頼りがいのある印象を受けた。
 中崎は世間話ついでに質問した。
「どうして、風俗店員から殺し屋の周旋人になろうと思ったんですか」
 それは、香山が自分でも考えていたことだった。今の店が廃業しようが、他の店に移ることも可能だったからだ。
「意外と、給料が悪くて。法律を破ることは慣れたので、もういっそ、と」
 彼は答えなど持ち合わせていなかったが、それらしい答えを口にした。それを受けた中崎も、どこか納得しきっていない様子だったのはわかった。彼は、無視して明の話をはじめた。
「明は、僕が面倒を見ることになったのですが、先ほども言ったでしょう、気に食わん輩だと。肌でわかる、というと胡散臭いでしょうが、でも話していると、急に饒舌になって嘘をでっちあげたりする男ですよあいつは。あいつと働くのなら、覚えておいた方がいいですよ」
 入店して、二十分も経たずに明が到着し、挨拶をした。電話を受けた時にたまたま近くにいたのだという。彼は、背広にオールバックの髪型で、高校生のような青臭さがあった。肉体と服飾の不釣り合いが、どうにも奇妙な印象を与えた。香山は中崎に言われたことを思い出して煙草を消火したが、中崎は意に介せずに煙草を吸い続けた。明は中崎からタクシー代を受け取って彼の横に座り、中崎が話し始めた。
「こちらの方は、香山さん。殺し屋を探しているそうだ」
 明は、歓喜を顔に浮かべてすぐに快活にしゃべった。
「僕、結構好きですよ、そういう仕事」
 香山は彼の返答に心底驚き、恐怖した。人を傷つけ、それが好きという人間を目の前にして、戦慄していたのだ。きっと彼にペンチを与えたなら、彼は喜んで人を捕まえて抜歯をするタイプだ。急に香山は自分の歯の所在が心配になった。
「なら、話が早い。お前、この人の下で働いてみたらどうだ。突き放すようで悪いが、昨日話した感じだと、任侠の血がお前には流れているようには思えなかった。むしろ、こういうのの方が向いているだろう」
 藪から棒に中崎が、破門を意味する提案をしたが、明は歓喜を取り下げる気配がなかった。え、いいんですか、僕、そんなの許されるんですか、などと中崎に言い、彼は了承した。すると、中崎が退店しようとテーブルに一万円札を置いて立ち上がった。そして、世話人さながらの台詞を口にして去った。
「では僕は邪魔でしょうし、あとはお二人に任せますよ。香山さん、何かあったらすぐに電話してください。明、お前とはこれでお別れだが、この人に迷惑をかけるなよ。そんなことがあれば、俺も黙ってはいないからな」
 香山はだんだんと露わになる、中崎の語意の過激さを感じた。金の受け取りを辞退しようかと思ったが、同じことの繰り返しだと思い、香山は礼を告げ、彼を見送った。香山は中崎の金に全く辞退の態度を示さない明を見逃してはいなかった。

 中崎が去り、雰囲気も軽くなったように香山は感じた。
「香山さんは、いくつ」
「二十六になったが、そちらさんは」
 香山は甘ったるいカフェオレを飲み、唾液すら甘くなっているのを感じていた。本来はこのような飲み物は好まない。明はまだ何も注文していなかった。
「じゃあ、同い年か」
 明が少し語調を強めた。香山は中崎と話したときと同じ威圧を覚えた。
「そうか」
 今度は、香山は特段気に留めなかった。他人に暴力をふるう人種などそんなものだろうと思った。そして、そこまでかしこまった態度は、もしかしたら自分が望むところではないのかもしれない、とさえも考えた。香山は、明と同じ態度で接することにした。
「天神の本屋にでも行ってみないか」
 香山はそう提案した。特に見たい本は無かったが、彼のひととなりを知る機会だと思ったからだ。しかし、今後彼に頼む仕事の内容を考えると、慎重になれば彼との接触は可能な限り避けた方がいいのは確かであった。それを上回る香山の生来の好奇心の強さがあったのだ。それに、仕事仲間には、互いにある程度の信頼がなければならない。このように非合法な場合は、どちらかが口を割ったりしないようにしなければならず、大変に重要だ。彼に自分の信頼を示し、少し信頼を与えるつもりでもあった。これは、彼に道徳の精神があれば成り立つ話である。この時の香山は、明との差異を軽く見積もっていた。
 店を出た二人は、天神まで歩くことにした。再び日光を浴びた香山は汗をかき、乾き始めたシャツを湿らせていった。
 歩く途中、昼の陽が照らす中洲川端の風俗街を通り過ぎた。そのとき、香山はこの場所に自分が抱く暗黒が映されているのを見た。彼には諸悪の根源が、すぐには何か理解できなかった。自分の、水商売は身売りの化けの皮であるという観念を見落としたためであった。人の観念は、それが一つの命題であることを認識しないと、その奥に埋没する重要な命題を見落とさせる効果がある。彼は街並みから水商売を、水商売から身売りを、身売りから従業員の恥辱を連想し、水商売が表面に見せぬ人の苦痛をまじまじと想起したことを理解した。その暗黒はまがまがしいもので、太陽の光を全て吸い込み、そして不穏を彼に見せつけた。だが、彼は暗黒を無視した。
 続いて彼は、ここの同業者に関していえば顔が広くなかったことを思い出した。特に働いているとき、目新しい客引きをしたり、いないはずの警察の目を気にして店の外に出なかったためであった。すると、この場所なら監視の目がないかもしれないことを考えた。明と次に会うのは、ここがお互いに都合がいいだろう、と考えた。
「明、お前は昨日暴力団に入ったそうだね」
「いいや、違う。そうではない。俺が入ったのは数カ月前だ」
 香山は困惑した。世間話をはじめるつもりで出した話題が、嘘だったのかと教えられ、ビルの土台をダイナマイトで爆発された気分になった。しかし、ここで香山はすぐには諦めなかった。明に虚言癖があり発言に神経をとがらせなければならない、と中崎がぼやいていたことを思い出したのだ。嘘とは、現実の模倣品である。香山の持つコピー商品と同じだった。顕微鏡で細かに観察すれば、必ず縫製の質の悪さといった粗悪が白日の下にさらされるのだ。彼の話を掘り下げてみれば、ぼろが出るのかもしれない、と思い、香山は質問をした。
「ほう。どうしてだい」
 香山はわざと自分の疑問の境界をわかりにくくした。
「それは、数カ月前に入った点についてききたいのか」
 香山はこの時点で疑いの感情を強めた。わざと疑問の焦点をぼやかして喋ったのだ。先の質問は、どうして暴力団に入ったのか、という見方もできる質問であった。しかし、明が注目して口にしたことは、明の意識の集中する場所を暗示するものであった。彼にとって隠すべき事実があるのであれば、それを確実に精査したうえで嘘を作らなければならず、それはむしろ、大変に彼の意識をその事実へと傾ける。そう、繰り返すが、嘘が孕む矛盾をあぶりだすには、詳細に現れるぼろを見つければいいのだ。パズルは、ピースを無理やりにはめ込んでも完成したときに絵のぎこちなさを生み出す要因となる。そして、まだ彼が嘘をついているという証明にはならない。彼の答えをきく必要があった。
「そうだな」
 そう言って明は少し笑うと、修辞をもって続けた。
「悪魔のきまぐれさ」
 これをきいた香山が、彼が嘘をついていることを確信したかといえば、そうではない。彼には、口をつぐむだけの過去があるのかもしれなかった。だとすれば、これ以上の詮索は彼のかさぶたをめくり、彼が自分に柔和な態度を示さなくなる怖れもあったし、香山自身も中崎に似た返答をしたばかりで、どうもそれを望む気になれなかった。結局、彼の答えは何の確証も彼に与えなかった。そればかりか明の過去は、さらに謎を得た。
 天神の書店に着くと、香山はどことなく店内を歩きだして、明も黙ってついていった。興味のないミステリー作品の棚へ行き、明は本を実際に手に取ってみせ、難しそうな表情を作っては戻す、を繰り返して、こう言った。
「お前は何か見たい本があるのかい」
「別に、ないね。本だとか、論文だとか、活字というのはどうも衒学的な感じがして俺は好きになれないな。一種のアレルギーみたいなもんさ」
 すると、棚と香山の間に空間を見つけた男女が、すみません、と割って入った。香山は反射的に彼らと距離を置いた。人生の中で、他人との衝突を避けるために作り上げたアルゴリズムを無意識に適用したのだ。男女は、二人の存在を無視してそこで会話が盛り上がっていた。痴話話を傍らにしてばつが悪いと考えた香山は、別の棚へ向かおうとした。すると、明が香山に、高らかな声で話しかけた。
「迷惑な人達だね」
 人達、というのであれば、対象は香山ではないことはすぐにわかった。彼は、香山ではなく男女へ向かって文句を口にしているらしかった。香山は、この男女に一切の敵意を抱かなかったために、突然敵意をむき出しにした彼を前に閉口し、かろうじて質問を聞き返すことしかできなかった。余計なトラブルに巻き込まれるのを拒んで、彼が発言を取り消してくれることを期待したのだった。しかし、聞き返された明は、取り消すどころか先ほどよりも、声量を上げ、大げさに言った。
「いや、一体なんて迷惑な人達なんだろうね! と言ったのさ。これで聞こえたか?」彼は表情を無くしていた。「この二人は一体、人の道理を知らぬのか、知恵遅れめ」
 香山はひどく動揺した。当然男女は驚き、会話をやめて明を見ていた。彼らも、自分たちがここまで直接暴言を吐かれるとは思っていなかったのだ。振り向いた女が口を開いた。
「でも、すみません、と言いましたよね」
 女の言い分は分からないでもなかった。すみません、には『前を失礼します』の意が含有されていたのだ。明確にそれを口にしなかったのは彼女のミスかもしれないが、こんなことは腹の立つことではない。街に出れば何でもない、ありふれた場面であった。互いに互いが迷惑で、どちらかが譲歩すればそれで済む話なのだ。今回は幸か不幸か、香山と明が譲歩する役回りだっただけだ。しかし、明は彼女のそんな一見まともな反論を受けても、全く屈することなく言い放った。
「じゃあなるほど、君はさっきの『すみません』で、『どけ』と言いたかったと、こう言うんだね? こうなったら仕方がない、君達に本当のこと、真実を教えてやろう。こちらにいる方は、盲聾者でいらっしゃるのだ! ヘレンケラーのレベルの苦難を抱えて、今までの人生を生きてきた! 毎日、毎日、大変だったろうに、俺はこの方に気に入っていただけて、こうして本屋まで同行させていただき、お手伝いをさせていただいているんだ。こんな思いをさせてしまって、俺はまったく情けないよ。しかしなぜ君達は、真実を知らされてもなお、今こうやってつっ立っていられるのかが不思議でならない。俺が君達なら、今頃、膝をついて、地面にがらんどうの頭をこすりつけて、涙を流して、この方に許しを乞うところだね! いいや、待った。もしかしたら聞き間違いだったのかもしれない、決めつけてかかってはいけないね。では、もう一度、自分の良心に誓約して言ってもらおうか。君は先ほど、何と言ったのかね?」
 女は怪訝な顔で男に、行こう、と言い、二人はその場を去った。彼らはきっと、後で明に対する不平を言うに違いない、と香山は憔悴した。横にいる明は、とても満足そうだった。彼は、本を見るつもりなど毛頭ないのに、『悪魔のきまぐれ』とやらで男女を押しのけたのだ。しかし、彼の激烈な言動をきくとそれは『きまぐれ』で済む事態ではなかった。『衝迫』であった。
「見たか、あいつら。さしずめ礼儀を心得ない愚者が本屋に来たってところか。ひょっとすると俺は、愚の世界から抜け出そうと必死になる愚者を、淵から蹴り落としてしまったのかもしれないね。まったくそう思うと、俺は……愉快でならないよ」
 香山は一種の詭弁をしゃあしゃあと並べて人を乱暴に追い払う彼を目の前にして、茫然自失としていた。彼と会ってから時間も経たずにその片鱗を露わにした狂気を、受け入れるのにもう少しの年月が必要だと感じたためだ。そして、佇んだ香山に明はとうとう矛先を向けたのだ。
「おっと、思わずあんたを共犯にしてしまったらしい。まあ、別に気にすることでもないさ。誰だって、死ねば無になるんだからな。そこには何も残らない。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。あっはっは」
 香山は、明と自分との間に横たわる決定的な違いを思い知った。そして同時に、ものごころついてから良人などというものはついぞ信じられなかったが、彼がそれをきれいに逆さまにした人間だと知った。彼とうまく接するには、もう少しの時間と、知識が必要だった。そしてこの職には適任なのかもしれない、とも思った。

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