明の8 「獣ゆく細道」(24)

 空港から博多駅はそう離れた場所にはない。香山が車を転がせばすぐに筑紫口に到着し、私はお宮とともにハチロクから降車した。逃げ出さぬようにお宮の肩に手を回して、強く握った。
 私の狡猾は、香山の加糖練乳よりも甘ったるい判断をあざ笑いはじめていた。それはじわじわと私の中に悪意を宿らせた。ちょうど、コーヒーに半紙を浸したような具合だ。
 計算だと? 冷笑が絶えないね。
 自分以外の存在が下劣と名付けるに事欠かぬ風に思えたのは、久しくなかったことだった。
「ねえ、わたしのこと好き?」
 幾年か前の夏の夜、裸で横たわる女が尋ねた。私はものぐさに応答した。
「なんだってそんな質問をするんだい」
「だって、わたし何度も言ったのに、あなたは一度も言ってくれていないじゃない」
 はらわたがぐつぐつと煮えくり返った。卑猥な桃色に染まったはずの部屋が、一気に黒くなった。二の腕にかかる彼女の髪がうざったく思え始めた。そもそも、言動からして男慣れしていない雰囲気が気に食わない女だった。見下し、性欲のために利用しただけだった。
「さあね」
 と言いながら接吻した。
 悟りを得たような心地でなければめった刺しにしていた。それからぶつぶつと女々しいことを述べるのだが、言葉のそこら中に陰気が匂い、とてもではないが記憶しようとは思えなかった。体だけは相性が良かったから、何度かまぐわいを為したが。それでも次第に興味が薄れていき、連絡を取らなくなった。あの女と交際なんぞはまっぴらだった。
 私の中に構築されている世界の要素は、計算や論理のように、説明が明快なものに重きをおいたものではない。
 この世界の中心にあるのは、殺意からなる、生命の根源を脅かす狂気だった。計算なんぞは二の次でよろしい。自分の論理がこの戦争を勝利へ導くと思う香山は、一体どれほど愚かだろうか! 私はこれほどまでに嘘が自分に味方する瞬間を見たことがない。ああ……美しい。たとえ邪魔なお宮を連れていても、会う直前に殺してやればいい。瑣末な問題はきっとどうにかなるであろう。人が苦しみ、わめく姿が、自分の娯楽だった。誰かを支配してやるのも極上の一つだ。
 貫一への雪辱の欲望が私を高揚させた。
 肩にかかるホルスターが揺れた。拳銃も腹に当たって少し痛い。
 すれ違うサラリーマン、金髪の若い男女、改札口で口論を吹っ掛けられる駅員、練り歩く男子中学生、誰かを待つ背広の女……どいつもこいつも平等に弱点がある。それを私はつまみ、捻り、無力さを理解させる。腹の底から叫ばれる、苦痛を耳にぶち込んでみたい。命乞いなんぞはつまらぬ瞬間だった。命が消える、限界的な瞬間は、興味の与えられるものではない。彼らが積み上げた、幸福、そして幸福を裏打ちする不幸、すべてがローラーで踏みつぶされることを理解した瞬間の表情がいい。
 土木のバイトをしていたとき、私はある同僚をいじめていた。彼は気の強い男で、入りたての頃はいつも親方の手を焼かせていた。安っぽい金髪が品の悪さを象徴する男だった。しかし、私は体力や立ち回りで彼を上回り、それを見せつけて彼の強気の根拠を失わせた。
 それは実に簡単だった。実際、前面に出された強気ほど、トランプタワーを崩すように楽に崩すことができる。彼は私に嫉妬の感情を抱くようになり、私の作業を邪魔しはじめた。すると私はもはや支配を獲得したようなものだった。人から憎悪を引き出せば、その人間は単純な動きをしだす。私は彼についてあることないことを吹聴し、彼の信頼を貶めた。彼は、だんだんと作業場全体の人間から虐げられるようになった。そして、私は彼の肩を持ちはじめ、彼に私以上に優れた人間などいないという思考を植え付けた。そうして得た信頼にも似た関係を私は主従関係に変えた。相手しかこちらに信頼をおいていないのだから、そうなるのは必然だった。彼への要求を徐々に残虐にしていき、とうとう私は彼をつるはしで殴った。背後からではない。そして私は彼を生き埋めにしようとした。土をかぶりながら、彼は泣きだした。自分は太陽や空と二度と会うことができぬと覚悟した。彼は慌てながら首を振り、声を裏返らせて助けを求めていた。結局はそこを職場の人間に見られたために私は中断し、解雇されたのだが、金以上に得れるものがあったために一切の不満を感じなかった。

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