中崎の1「モルヒネ」(63)

「中崎さんですか?」
「そうだが」
「僕です、香山です」
「ああ! 香山さんでしたか! これはこれは失礼を……はて、いかがなされましたかな」
「実は、会ってお話しがしたいのです。可能でしょうか」
「来週の水曜日の夜なんかいかがでしょう」
「水曜日ですか。予定を見てみますが―僕は大丈夫です」
「でしたら、その日に会いましょう。中州のAビルで落ち合いましょう」
 終始重たい声で話す香山を前に、笑いをこらえきれなかった。水曜日は人が少ない。この曜日しかなかった。私はすぐに別の女と電話をはじめた。
「おお、お前今大丈夫や」
「はい」
「水曜日の夜、空けとけ。あと、ちゃんと道具とか持って来いよ」
「……なるほど、分かりました」
「なるほど、って、お前誰に向かって口ききようとや」
「申し訳ないです。かしこまりました」
 当日私が彼女を連れてAビルの前に行くと、案の定、背広に身を包んだ香山は先に着いて待っていた。時間の厳守などは、臆病者のすることだ。何かにおびえていなければ、時間なんぞ守らない。
 香山が先に口を開いた。
「中崎さん。そちらの方は?」
「知り合いですよ、さあ、行きましょうか。この街は飲み屋に困りませんよ」
 香山の疑問は無視しても問題はない。彼が私に畏怖を抱いていることは、以前の話し方、そして電話での話し方で読み取れた。
 入った店は、私が事前に貸し切りにしていたバーだった。店内には店主含め、四人しかいない。オレンジ色の照明が、几帳面に並べられた酒瓶に反射していた。
「おやおや、マスター。店カラとは珍しいもんですな」
「最近は中州も取り締まりが厳しくなりまして、うちも閑古鳥が鳴いております」
 カウンターに座り、私達はハイボールを呑んだ。彼が泥酔するまで世間話を続けた。
 酒の回った香山は暗い顔を浮かべていた。彼の考えていることは手に取るように分かった。嶋から話を聞いたとき、もしやとは思っていたが、喫茶店への道中、私は確信したのだ。
「さて、香山さん。本題に入りましょうか。今日はどんな用件で?」
「はい……実は大変情けないとは自分でも思っているのですが、僕はもうこの仕事を続けるのが難しくなってきまして」
「しかし、私はこう申し上げたように記憶しております。『この業界、一度入ったら出られませんよ』、と」
 こうして、私は一度突き放す。人を操るコツの一つを私は心得ていた。
「ですので私も苦しんでおります。自分で下した決断が、今こうして仇となって自分に降りかかってきています。過去の自分に、砂をかまされたようなものです。はじめて殺人の共犯になったときなど、私は、取り返しのつかないことをしてしまった、と悔やんでも悔やみきれない思いでした。
 しかし、二度目となると私は、もうその感情を捨て去ろうとしていることに気づきました。精神の正常な機能なのかもしれませんが私は、そんな自分に絶望しました。もういっそ、自分で自分の手首を切り落とそうと、ナイフを手に取りました。しかし、どうしてもできなかったのです。それに伴う痛みを怖れていたのです。他人の肉体に危害を加えておきながら、いざ自分にはできないなど、私はなんと卑怯な人間でしょうか。そして、そんな自分も含め、未来永劫許せる気がしないのです。そうだ! 中崎さん、一思いに僕を殺してや下さいませんか。後生です、お願いします」
 私は、彼の発言のすべてが予想通りであったことに少し驚いたが、それは自分にとって大変に好都合であった。
「お気持ちは分かりますが、せっかく親御さんから授けられた命です。間違ってもそれはいけませんよ。それに、僕にとっても香山さんは大切な友人です、僕が手をかけるなんて、それこそ怖ろしくてできやしない」
 私は、まっぴらだ、という具合で首を横に振った。すると、香山は泣きながら訴えた。
「しかし、もう耐え切れないのです。僕はあまりに罪を重ねてきました。これ以上生きるなんて、許されることではないのです」
 あと一蹴りだった。もう少しで、彼は道から転げ落ちる。
「私にどうこうできる問題ではないので、困りましたなあ。しかし、こうして良心の呵責に苦悩される友人をみすみす放っておいても、いつか本当に先立たれてしまいます。すると、私はこう思うでしょう。あのとき、無理やりにでもこうすればよかった、と」
「こう、とは?」
「実はね、香山さん」
 私は女の足を軽く蹴った。女はリュックから、道具を取り出した。
「先日お電話いただいた際に、なんとなく、―これも長年の勘なのでしょうなあ、亀の甲より年の劫というやつです―、こうなるのではないかと思い、私も一晩悩みに悩んで、こうされる他、香山さんが生き続ける術はないのではないか、と思いました」
「それが、どうして注射器になるんです」
「私も、こうするのは嫌なのです。ですがきっと気に入っていただけますよ」
 私は香山の襟首をつかんで床へ押し付けた。彼は抵抗しようと暴れるが、力が私に及ばないことは体格からも明らかだった。馬乗りになり、私は彼の背広の袖をまくった。
「おい、抑えとうけん、はよせろ」
「何をされるんです、やめてください」
 店主は、店の奥へ行ったきり出てこない。私がそう指示しておいたのだった。
 私は、彼の左腕にモルヒネが静脈注射されるまで、そうして抑えたままだった。香山は忽ち、なんの表情も持たぬガラス細工の人形になった。
 私は、ラッシュが駆け巡る金づるの耳元に顔を寄せて言った。
「こうすればいいんです。僕は最初から分かっていました。あなたがこんな業界で生きていける器ではないこと。それに大丈夫、モルヒネに依存性があるだなんて、嘘八百の厚労省の言うことです。まともに耳を貸す必要なんかないんです。人はいつだってモルヒネからおさらばしようと思えばできるんです、そう、大丈夫ですよ。恋しくなっても、それは依存症じゃあないんです。まあ、彼女にも生活があるので、お金はいただきますがね、きっときっと、楽になります。また、苦しくなれば私に電話してください。なあに、必ず、あなたは電話をしてきます。私はいつだって電話に出ますよ」
 搾取の火ぶたが切られた。これが、一人の若者を玩具に堕とした顚末であった。

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