香山の3「職務質問」(06)

 こんこん、と手が助手席側の窓を叩いた。吸い寄せられるようにそちらを見る。スーツの袖であった。暗がりでは袖の色がよく分からないが、微かな街灯を吸い込む色であれば、黒か青のどちらか。手首を象るような白い袖口が見えた。カラーシャツである。もしや、明か。こんな時でもスーツを着てくるのは奴らしいとも思える。私は間抜けにも、その手の主が明だと信じて疑わなかった。
 私は何もしないで、手の主が他の部位を見せるのを待つ。時計を見た。彼は三分遅刻している。彼には、少しでも計画からそれた行動を減らせるよう、時間は厳守するように、と口を酸っぱくして注意を促していたのに、と舌打ちをした。今思えば、家を出る時、遅刻の予感に情けないほどの狼狽をしていたのは、深層心理にそう言った手前、格好がつかないという見栄があったのか、それとも自分で他人に対して言っているつもりが自分をしつけていたのかが分からない。そう思うと、先の舌打ちがみるみる内に虚栄を伴って再来し、恥を感じた。
 のっそりと顔を除いた上半身が露わになる。私は先ほどまで、この人間が着用しているものはスーツだと認識していたのだが、スーツではない別の服であることが分かった。この服には、胸と肩に紋章があったのだ。そういう服装をするのはお巡り、駅員、警備会社の社員ぐらいだ。はてさて誰だろうか。まだこの男が明ではない、と決まったわけではない。彼が副職(どちらが副職なのかは分からないが)として警備会社に勤めている可能性もある。そこで、すぐに私はその可能性に対して疑り深くなった。
 私が仕事を行う際に注意を注がなければならないことは、何も逮捕のみではない。明が私の知らぬ人間と仕事の契約を結んでしまうことである。彼の行動から考察するに、彼は他人を傷つけることなどやすやすとやってのける人間であった。つまり、良心の呵責が頭の辞書から完全にと言っていいほど欠落している。また、そんな人間と付き合うために書籍の漁に出たが、そういった類の人種は衝動的な行動を起こす傾向が高いことを知った。その行動は何の思慮もなしに歩まれた道の途中にあるために、思わぬ悲劇をもたらしてしまうかもしれないのだ。仮に明が私以外の人間との契約を結んでいる場合、(一緒にいるだけでも危険な存在であるのに)、私が社会との恐るべき契約に書かれた通りになりかねないのだ。この危険を回避するために、私は部下には相応の分け前を与えていた。明などは特に仕事の要領がよく、華美な生活を望まぬ男であったので、多めに振り分けていた。そんな待遇で、果たして人間はまだ働こうなどと思えるものだろうか。
 そこまでも部下に信頼をやらぬ私が今回の会食を提案したのは、どうにかして彼から良心や信頼のような心情を引き出すか、無理くりに植え付けるかして、仕事を円滑に進めるための機会を設けようと考えたからだ。もしくは、私は彼にどこか朋輩のような愛着を覚えはじめていたのかもしれない。この点について、私は決着をつけることができなかった。
 男が身を屈めて、顔を出した。二十代の若い青年で、無邪気な面持ちが抜け切っていない。これからこの白いシーツは、都会の大気で汚されていくところであろう。彼は私を見ると、口の端を上げて微笑んだ。もう一度窓を叩く。窓を開けるよう要求しているらしい。
 額に帽子が描く曲線が横へと伸びているのが見えた。帽子には胸同様のマークが付いている。紋章の輝きがその全容を確実なものにした。こいつはお巡りだ、と頭で認識したときにはすでに、頭と別の次元で動く心が体を硬くこわばらせていた。自分の生業と司法の不一致を意識の外で理解したらしい。
 ひらひらと舞う蝶が、蜘蛛の巣に近づく映像が浮かんだ。果たしてこの蝶は、蜘蛛の巣に絡み取られてしまうのか。
 静かだった車内に、自分の拍動の音が響きだす。非常に速いペースで、あり得ないほどにうるさい。だが、と踏みとどまる私は、ここで論理を立ててみることにした。今は仕事をしているわけではない。はたから見れば私はただの市民であり、有象無象の一人にすぎぬ存在だ。こんな格好をした私と生業を結びつける紐はない。免許証は財布の中にある。お巡りから隠す必要などなにも―。
 ここで、助手席を眺める私の視界の端に銀色が見えた。ダッシュボードの上に視界の中心を動かす。お巡りの注意を惹きかねないので、顔はぴくりとも動かさない。拳銃がそこに居座っていた。身の危険を想定した上での厳しい用心が身を亡ぼしにかかるとは、なんとも皮肉なものだ。汗が吹き出る。まずは動揺を悟られぬように振る舞うことを考えねばならない。敵意がないことを表明する必要を感じて、世界共通のコミュニケーションである笑顔が浮かんだ。恐怖と自己防衛で裏打ちされた笑顔をお巡りに向けて、少しずつ息を吸って吐いた。

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