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自閉スペクトラム症(ASD)の人が「普通の仮面」を外して生きるには

自閉スペクトラム症(ASD)の人の多くが、その症状や特徴を隠し、社会に合わせて「普通にふるまう」ための表面的な仮面をつけて暮らしています。

その仮面を取り外し、新しい世界で自分らしく生きるための方法を紹介している本が、『自閉スペクトラム症の人たちが生きる新しい世界 Unmasking Autism』(翔泳社)です。副題であり原題でもある「Unmasking」とは「仮面を取り去る」という意味です。

原著(※)が出版されたアメリカで非常に高く評価され、Amazon.comでは1600件以上(評価全体の80%以上)の☆5を得ています。読者は本当の自分を見つめ直したり、仮面を外して生きようとしたり、本書から勇気をもらっているようです。

※Devon Price, PhD『Unmasking Autism: Discovering the New Faces of Neurodiversity』(2022, Harmony Books)

本書では、ASDの当事者で社会心理学者の著者であるデヴォン・プライス氏が自身の体験をベースに、ASDの特徴をはじめ、ASDと診断され自覚してからの生き方や、ASDの人が社会から「定型発達の仮面」を押しつけられていること、そしてその仮面を外して生きるにはどうしたらいいのかを様々なエピソードとともに解説しています。

自分がASDや発達障害の当事者であったり、「もしかしたら」と不安や悩みを抱えたりいたりする方は、本書をチェックしてみてはいかがでしょうか。また当事者のご家族や、発達障害の方を支援している教育・福祉・医療職の方にも手に取っていただければと思います。

この記事では以下で「はじめに」の一部を抜粋して紹介します。著者がASDについて理解を深め、本書を執筆するに至った経緯が語られています。

◆著者について
デヴォン・プライス(Devon Price)

社会心理学者、博士、作家、シカゴ・ロヨラ大学助教授。自閉スペクトラム症の当事者でもある。オハイオ州立大学で心理学と政治学の学士号を取得後、シカゴ・ロヨラ大学で応用社会心理学の修士号、博士号を取得。著書に『Laziness Does Not Exist』(「怠惰」なんて存在しない 終わりなき生産性競争から抜け出すための幸福論、ディスカヴァー・トゥエンティワン、佐々木寛子訳、2024)など。

◆翻訳者について
堀越 英美(Hidemi Horikoshi)
文筆家。早稲田大学第一文学部卒業。著書に『親切で世界を救えるか ぼんやり者のケア・カルチャー入門』(太田出版、2023)、『紫式部は今日も憂鬱 令和言葉で読む『紫式部日記』』(扶桑社、2023)、『エモい古語辞典』(朝日出版社、2022)ほか、訳書に『自閉スペクトラム症の女の子が出会う世界 幼児期から老年期まで』(河出書房新社、2021)など多数。


異質な存在として疎外されるということ

二〇〇九年の夏、私はクリーブランドからシカゴに引っ越した。二一歳だった当時、友だちを作る必要があるとは思いもしなかった。生真面目で、人付き合いが苦手な自分には、他人など必要ないと本気で信じていたのだ。大学院進学のためにこの街に引っ越してきたのだから、授業と研究に全力で打ち込んでいれば、他のことは何も考えなくていいと思っていた。

それまでの自分にとって、一人ぼっちであるほうが都合がよかった。学業も優秀だったし、浮世離れした生活を送っていれば、自身の抱える多くの問題に気を取られずに済んだ。摂食障害で消化器系がボロボロになっていること。自身の性別に違和感があるせいで、他人からの視線が不快であること。不快の理由は、当時はわかっていなかったが。

人に近づく方法も、会話を始める方法も知らず、それらを学ぼうとも思わなかった。人と付き合ってもイライラすることばかりで、話を聞いてもらえないと感じられたからだ。わずかな人間関係も、自他境界がぐちゃぐちゃな状態だった。人の問題の責任を背負い込み、相手の感情を自分がどうにかしようとしていた。そして私には、理不尽な要求を突っぱねる能力に欠けていた。

夜になると、絶望と処理しきれない感情が押し寄せてくる。骨がきしむほどの嗚咽。すすり泣きながら部屋の中を歩き回り、掌の底でこめかみを叩いた。孤立は、いつの間にか自分を閉じ込めるものになっていたのだった。あまりに社交スキルが低く、自分の感情も認識できなかったから、そこから抜け出すこともかなわなかった。

どうして自分をこんな惨めな状況に追い込んでしまったのか理解できなかった。自分には本来友人が必要で、人生を求めていたのだとわかっていなかったせいだ。だが、どんなにがんばってもうまくいかないのに、どうして他人とつながろうと思えるだろう。自分が本当に楽しめることもわからないまま、人前ではあらゆる自然な反応を隠して、普通の関心、普通の感情を持っているふりをしなければならないと感じていた。

自分にはどこか根本的におかしいところがあるとしか思えなかった。自分が壊れているように感じた。自分では説明できないのに、誰が見ても一目でわかる壊れ方で。それから数年間はボロボロだった。燃え尽きるほど勉強し、情緒不安定になり、人とのつながりを求めて恋愛相手に依存することで、自分には価値があると思い込もうとした。

そんな状況がようやく変わり始めたのは、二〇一四年にオハイオ州サンダスキーにあるシダーポイントというアミューズメントパークで休暇を過ごしてからである。そこは我が家が毎年出かける旅行先だった。私たちは決めごと(ルーティン)を愛する家族だったのだ。

旅行先で、いとこと一緒に温水プールで過ごす機会があった。いとこは大学進学で家を出たばかりで、環境変化になじめず苦しんでいた。そこで彼から、「最近、自閉スペクトラム症だと診断された」と打ち明けられたのだ。

私が社会心理学の博士号を取得したばかりだったこともあり、いとこは私が自閉スペクトラム症(以下、ASD)について何らかの知識があるのではないかと知りたかったらしい。

「ごめん、そのへんのことは本当に疎いんだ」と私は告げた。「自分は精神障害を抱えた人を研究しているわけじゃない。自分の研究は正ノーマル常な人々の社会的行動に関するものなんだよ」

いとこは、自分の苦しみをすべて話してくれた。クラスメートとのかかわりの難しさ、行き場のなさ、刺激に敏感すぎること。セラピストからASDの可能性を告げられ、自分の特徴がASDの特性であると知ったいとこは、自分の特徴は私たち一族に共通していると指摘したのである。

私たち一族は変化を好まなかった。自分の感情を口にするのが下手で、決まりきった定型会話を用いてやりとりすることが多かった。食べ物の食感や味の濃さにこだわる家族もいた。興味のある話題について延々としゃべり続け、他の人を死ぬほど退屈させようがおかまいなしだった。環境が変わるのを恐れ、新しい経験や友人を求めて社会を広げることはめったになかった。

いとこからこの話を聞かされた私は、恐怖を感じた。私の中で、ASDとは恥ずべき、人生を台無しにする障害だったからである。ASDと聞いて思い浮かぶのは、子ども時代の同級生クリスだった。協調性に欠け、誰からも相手にされない、「気持ち悪い」ASDの子ども。

ASDは、『シャーロック』でベネディクト・カンバーバッチ演じるシャーロックや『ビッグバン★セオリー』のシェルドンのような、自分の殻に閉じこもった気難しいドラマの登場人物を思い起こさせた。あるいは、言葉を話さず、食料品店に行くにも大きくて不格好なヘッドホンを付けなければならない、人間ではなくモノとして見られていた子どもたち。

心理学者だったにもかかわらず、ASDについて知っていたのは、あまりにざっくりした非人間的なステレオタイプだけだった。ASDであるとはつまり、自分が壊れているということなのだった。

確かに、私はもう何年にもわたって、自分が壊れていると感じていた。休暇から帰宅するやいなや、私は荷物を投げ捨てて床に座り、膝にノートパソコンを乗せてASDについての情報を夢中になって読み始めた。

むさぼるように雑誌の記事、ブログの投稿、YouTubeの動画、診断アセスメントの資料を吸収した。強迫的にASDの情報を集めていたことは、当時のパートナーにはなるべく知られないようにしていた。私は他人と生活していく上で、心の奥底にあるこだわりをひた隠しにしていたから、今回も同じようにしたのだ。

私はすぐに、こういうこだわり方自体がASD者によく見られる特徴であることを知った。ASD者は自分を魅了するテーマに執着し、はたからは奇妙に思われるような情熱でそのテーマに集中する傾向がある。熱中していることをバカにされたら、私たちは自分の特別な興味を隠すようになる。

すでに私は、「私たち」という言葉でASDについて考えるようになっていた。ASDコミュニティの中に、自分自身がはっきりと映っているのが見えた。その事実が、私を恐れさせ、また奮い立たせた。

ASDについて読めば読むほど、自分が抱えるさまざまな問題がすんなり理解できるようになった。私はいつも大きな音や明るい光に圧倒されていた。人混みではどうしようもなく腹が立ち、笑いやおしゃべりの声で怒りが爆発することもあった。ストレスが溜まりすぎたり、悲しみに打ちひしがれたりすると、話すのも難しくなった。

これらの問題を何年もひた隠しにしてきたのは、このせいで自分が面白味のない嫌な奴になっていると確信していたからだ。ASDだと気づいてからは、なんでそこまで自分をひどい人間だと信じ込んでいたのだろうと思うようになった。

ASDはもはや自分の最新の関心対象になっていて、ASDについて読んだり考えたりすることを止められなくなった。とはいえ過去には、ほかにもたくさんの趣味があった。子どもの頃は、コウモリ観察やホラー小説に夢中になっていた。周りの子どもたちばかりか、大人たちにも、「変なの」「テンション高すぎ」とたしなめられたものだ。私はいろいろな意味で「過剰」だった。

はたから見れば、私の涙は未熟さゆえにかんしゃくを起こした結果で、私の意見は上から目線の罵倒だった。成長するにつれて私は激しい感情を抑えることを学び、みっともない失態は少なくなった。それは「自分なくし」の過程だった。

人の癖を研究し、脳内で会話を分析することに多くの時間を費やし、他人をより理解できるように心理学の本を読み込んだ。私が社会心理学の博士号を取得できたのは、このおかげである。他の人たちが当然のように受け入れる社会規範や思考パターンを、私はじっくりと研究する必要があったのだ。

ニューロダイバーシティ(神経多様性)

一年ほど一人でASDについて研究した後、ASDの当事者コミュニティに出会った。そこはすべてASD当事者によって運営されていて、人間の多様性の中の完全に正常な一形態として、ASDという障害をとらえるべきだと主張していた。

こうした思想家や活動家たちは、ASD者のあり方が間違っているわけではまったくないと語る。私たちが自分は壊れていると思ってしまうのは、私たちのニーズに対応できない社会の問題なのだと。

ラビ・ルティ・リーガン(ブログ「Real Social Skills」運営者)やアメセスト・シャーバー(動画シリーズ「Neurowonderful」配信者)といった人々のおかげで、私はニューロダイバーシティ(神経多様性)[訳注・神経や脳に由来するさまざまな特性の違いを優劣ではなく多様性ととらえて相互に尊重しようという考え]について学んだ。多くの障害は社会的疎外によって生み出され、悪化させられているのだという認識を新たにした。

こうした知識を得て自信を育んだ私は、ASDの人々と実際に会い、ASDについてネットに投稿し、ニューロダイバース(神経学的に多様)な人々が集まる地元の集まりに参加するようになった。

私はそこで、自分と同じように正体不明の自己嫌悪に何年も苦しみ、大人になってから障害が発覚したASD者が何千人もいることに気づいた。こういうASD者たちは、子どもの頃からあからさまに不器用だったのに、支援を受けられずにバカにされてきたのだ。

彼らは私と同じく、周囲に溶け込むための対処法を身につけていた。例えば、人のおでこを見てアイコンタクトに見せかけたり、テレビで見たやりとりをお手本にした会話の台本を暗記したりしていた。

こういう隠れASD者は、受け入れてもらうために知性や才能が頼りという人が多かった。信じられないほど消極的な人もいた。個性を抑えつけておけば、「熱中」しすぎるというリスクを冒さなくて済むからだ。あたりさわりのなさを装う完璧な仮面の下で、彼らの人生はめちゃくちゃになっていた。

自傷行為、摂食障害、アルコール依存症に苦しんでいる人も多かった。虐待や空疎な人間関係から抜け出せず、どうすれば自分を見てもらえ、評価されるのかがわからなくなっていた。ほぼ全員が人生を悲観していて、深い空虚感にとらわれていた。彼らの人生はすべて、自分自身への不信、自分の身体への嫌悪感、自分の欲望への恐怖によって形作られていた。

仮面を取って自分自身を受け入れる

ここ数年、私はASDにまつわる科学的文献を理解するために、社会心理学者としてのスキルを駆使してきた。そしてASDの活動家、研究者、指導者、セラピストたちとつながり、私たちが共有する脳のタイプについて理解を深めてきた。

本当の自分と向き合って、自身の仮面を取ることにも取り組んできた。傷つきやすくて、不安定で、奇妙な自分。人前ではずっと隠してきた裏の顔だ。ASDの当事者コミュニティのリーダー的な人々とたくさん知り合いになり、ASDのセラピスト、指導者、活動家らが作成した、抑制を解いて仮面を捨てるトレーニング用資料を大量に読みあさった。

今の私は、自分が大きな音や明るい光に苦痛を感じるという事実を隠さない。相手の言葉やしぐさの意味がわからないときは、説明してくれるよう率直にお願いする。車や子どもを持つといった伝統的な「大人」の基準には何ら魅力を感じないし、それでまったく問題ないとわかっている。

私は毎晩ぬいぐるみを抱いて眠り、近所の騒音を遮断するために音の大きい扇風機を回している。興奮すると、その場で手をひらひらさせて身もだえする。調子がいい日は、自分がこんな風だからといって子どもっぽいとか気持ち悪いとか未熟だとか思うことはない。私はありのままの自分が大好きで、他の人たちも本当の私を知った上で愛してくれる。

自分を正直にさらけ出すことで、私は教師や書き手としていっそう力を増していく。普通の生活を維持することの難しさを知っているからこそ、学生たちが苦しんでいるときに寄り添うことができる。自分の視点から自分の言葉で書けば、もっともらしく立派なプロのように見せかけようとするよりも、はるかに深く読み手とつながることができる。

仮面を取る前は、自分は呪われていて、心の中はほとんど死んでいるように感じていた。人生は、見せかけの熱意で維持される長くつらい仕事のようだった。今の人生にも困難はあるけれど、信じられないほど生きていると感じている。

自分自身を理解し、仮面を取るようになったことで得られた大きな安堵感と連帯感を、すべてのASD者と分かち合いたいと思う。また、私たち一人ひとりが自分らしく生きることに取り組み、必要な調整(※)を求めることが、ASD当事者の肉体的な負荷の軽減やコミュニティの将来にとって不可欠であると考える。

本書によって、ASD者たちが自分自身を理解し、ニューロダイバースな仲間と力を合わせ、少しずつ自信をつけて仮面を外せるようになる手助けができればと思う。

仮面を取るという行為は、ASD者の生活の質を根本的に改善する可能性を秘めている。本当の自分を封印し続けることが心身に与えるダメージの大きさは、研究によって繰り返し示されている。

定型発達者の基準に合わせれば、一時的に受け入れてはもらえるが、自分の存在の根幹にかかわる大きな代償を伴う。マスキングは、肉体的な疲労、心理的なバーンアウト(燃え尽き)、うつ病、不安、さらには自殺願望を引き起こしかねない、非常に消耗する行為なのである。

もしASDではない人たちが私たちのニーズを聞いたことがなく、その苦しみを知らなければ、ASD者を受け入れるために合わせてあげようなど思いもしないだろう。ASD者は、自分たちにふさわしい待遇を要求するべきだし、私たちを見過ごしてきた人たちのご機嫌をとるために生きることをやめなければならない。

定型発達者を装うことをやめるのは、障害差別にあらがう革命的行為である。それはまた、徹底的に自己肯定するための行為でもある。とはいえ、ASD者が仮面を外し、障害のある真の姿を世界に示すためには、まずありのままの自分でもわかってもらえるのだという十全な安心感を持つ必要がある。自分への信頼と慈しみを育むことは、それ自体が一つの大仕事なのだ。

※訳注・障害者権利条約の外務省公定訳において「Reasonable accommodation」が「合理的配慮」とされていることから accommodationは配慮と訳されることが多いが、この単語自体に配慮という意味はなく、当事者からも「恩恵として施すもの」というニュアンスが生まれる誤訳だという指摘があがっているため、本書では一貫して「調整」と訳出している。

仮面の下の自分に自信を持つためのエクササイズ

仮面にとらわれない人生は、ASD者の誰もが可能である。しかしそのような人生を切り拓いていくのは、気が遠くなるほど大変かもしれない。そもそもなぜわれわれが仮面をつけ始めたのかを考えてみれば、往々にしてたくさんの古傷がうずいてしまう。

本書への情報提供に協力してくれた指導者でASD権利擁護者の一人であるヘザー・R・モーガンは、自分の仮面を分析して仮面を外せるようになる前に、まずは世間から隠してきた自分が信頼に足る人間であると認識しなければならないと強く主張した。

「仮面の下の人の安全を確認しないうちから、仮面の由来を考えたり、仮面を外そうと考えたりするのは危険なことだと思います」とヘザーは言う。「安全な着地点がなければ、仮面を取ると口にすることすら恐ろしくなります」

私自身の経験からも、また本書のためにインタビューしたASDの人たちの人生を見ても、仮面を取るプロセスにはそれだけの価値があるという確信が私にはある。

しかし仮面を取ろうと思い立ったばかりで、本当の自分が何なのか混乱している状況なら、乗り越えた先に価値ある自分が待っているとは、まだ信じられないかもしれない。メディアが広めたASDのネガティブなイメージにいまだとらわれていたり、仮面を取ったら自分の機能が低下する、ヤバい人になってしまう、愛されなくなってしまうといった心配があるかもしれない。

特に社会から疎外された立場にある人の場合は、障害が表ざたになれば現実的に重大なリスクがあることも認識しているだろう。きわめて合理的な理由から本当の自分をさらすには安全ではないと考え、いつ、どのように仮面を取ればいいのかわからない人もいるだろう。

そこでまず、仮面を取ることの肯定的な側面と、自分をあまり抑えつけなくて済む人生とはどのようなものかを考えてみよう。

次に示すのは、ヘザー・R・モーガンが開発したエクササイズである。初めてのクライアントには、まずこれを実施するそうだ。このエクササイズは、仮面をつけた人が自信を深め、仮面の向こう側にある素晴らしいものの存在を考えられるようになることを目的として作られたものだ。

このエクササイズを完了するには時間がかかるかもしれない。何日、あるいは何週間かかってもいいので、さまざまな状況や時期から特別な瞬間を思い出してほしい。これらの瞬間についてはのちのち振り返ることになるが、今はただ、どんな出来事であれ思い出すことの心地よさに浸ろう。

本書は多くのASD者に仮面をつけさせる構造的抑圧について論じ、仮面がASD者の生活に及ぼす悪影響を探っていく。その過程で、折に触れてここで書き出した幸せな瞬間に立ち返り、そこから力を引き出すことが役に立つこともあるだろう。

あなたの記憶は、あなたが壊れていないということを思い出させてくれる。そして生きるに値する本物の人生を築くための設計図が、すでにあなたの中に存在していることに気づかせてくれるだろう。

◆本書の目次
第一章 ASD(自閉スペクトラム症)とは何か
第二章 どういう人が仮面ASD者になるのか?
第三章 仮面の研究
第四章 仮面がもたらす犠牲
第五章 ASDをとらえ直す
第六章 ASDに合わせた生活を構築する
第七章 ASDらしい人間関係を育む
第八章 ニューロダイバーシティを世界に広げるには

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