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美林華飯店での昼飯の自分にとっての特別さ

麻布台ヒルズができてから、久しぶりに美林華飯店で食べて、改めて思ったけれど、本当に自分にとって美林華飯店で昼食を食べることには特別な喜びがあるんだなと思った。

炒め物でも煮物でも揚げ物でも、たっぷりのおかずを、ご飯をお代わりしながら、ずっと一口ごとに美味しいなと思いながら食べ続けて、お腹いっぱいになってきても、ずっと美味しいままで食べ終えていた。

美味しかったなと思いながら、軽く口を落ち着かせるくらいの味わいのデザートと、こだわりのなさを感じるコーヒーで一息ついて、店を出て会社までのそれなりに距離を戻りながら、ぼんやりと今日も美味しかったなと思っていた。

飯倉の交差点を経由するのではなく、ちょうどまるまる麻布台ヒルズになってしまった、高低差のあるボロい家が残るエリアを通り抜けていたけれど、緑が多くて、開けた景色の中には遠くに高層ビル群も見えて、天気がいい日はとても気持ちがよかったけれど、びっくりするくらい、美林華に向かう道よりも、美林華から戻る道のほうが心地よくて景色も美しく感じられた。

それは美林華で夢中になって一口一口に美味しいなと思いながらがっついていたことで、感覚をめいっぱい使おうとして、身体や気持ちが活性化して、しかも美味しすぎて幸福感がいっぱいになってしまっていたせいで、帰り道のほうが世界がよりくっきりと見えて、太陽の感触もはっきりと体に感じられて、目の前にあるきれいなものが美しく心地よいものに感じられていたということなのだと思う。

そんなふうに、食べ終わった帰り道の心地よさまでを含めて、俺は美林華飯店での昼飯によって、あまりにもたくさんの満たされた時間を過ごしていたのだ。

夜も十回以上は食べに行ったし、多分昼より夜のほうが美味しいのだろうけれど、それでも食事体験としては、一つのおかずでご飯をお代わりしながらお腹いっぱいまで食べる美林華の昼飯の幸福感はすごかったなと思う。

身体に発生している幸福感的な内分泌を数値化できたとして、俺の場合、今までの人生での食事体験の幸福度満足度トップ一〇〇のうち九〇以上とかが美林華の昼飯になってしまうんじゃないかと思う。

特に近年は自炊したものばかり食べているし、自分で自分をグルメだとか、食べるのが好きだと思っている人たちほどではないにしても、俺もそれなりにいろんな美味しいものを食べてきたのだと思う。

それなのに、二年と少しくらいのあいだ、月の半分くらい週に四回とか五回行っていた店での体験が、いろんな場所でのいろんな味の体験を押しのけて、そんなにも上位を独占するというのもおかしい気はする。

けれど、思い出としての特別さではなく、身体に発生していた幸福感ということでは、そうなるのはそれなりに自然なことなんじゃないかと思う。

自分のセックスでよりセックスを好きになってくれた人との、もっとセックスを好きになってくれて、もっと自分のことを好きになっていくのを繰り返している時期のセックスとか、そういうものを考えれば、わかりやすいのだろう。

そういう時期の毎回のセックスが、毎回自分史上最高に素晴らしいセックスに感じられて、高揚感とか、自己実現できているという心の深いところからの充実感みたいなものの強烈さということでは、他のいろんな人とのいろんなセックスの中に、もっと愛した人とのセックスや、もっと刺激的な状況でのセックスがあったりしても、その人とのその時期の毎日のようにしていたたくさんのセックスが自分史上最高のセックスの上位を独占してしまったとしても、そんなものだろうという気がしてくる。

おいしいものを食べることのモチベーションの中心が、それを話すことでいい気分になれる話のネタを手にすることにあるという人はたくさんいるのだろうけれど、そうでなかったとしても、豪華なものとか特別なものを食べているときの高揚感というのは素晴らしいものなのだと思う。

それでも、結局のところ、人生で一番心底美味しいなぁと思いながら満足して食べていたものトップ一〇〇は全て家の味噌汁だったのかもしれないという人生になっている人はとてつもなくたくさんいるのだと思う。

食べ物の体験というのはそういうもので、俺だって自分で美味しい味噌汁を作れるし、自分の作った具だくさんの味噌汁とご飯と、あとは釜揚げしらすとか、目玉焼きとか、野菜を茹でたものとか、そういうものがついている食事しかこの先の人生では食べられないとしても、さほど悲しくもないのだと思う。

逆にいえば、そんなふうに、結局味噌汁が一番美味しいなと思っているような人間にとっても、食事体験の幸福度満足度の上位を独占してしまうようなものが、美林華飯店の昼飯にはあるということなのだ。

二年と少しで五〇〇回以上食べたのだし、あまりにも馴染んでいるからというのもあるのかもしれないけれど、馴染んでいるだけではどうしたってそうはならないのだと思う。

けれど、食べ続けて、美林華の味に慣れすぎて、美林華的な味の仕方がすることに刺激がなくなって、ほとんど飽きている状態になりながらも食べ続けていたからこそ、俺はより美林華の味を好きになっていったのだろう。

美林華飯店は、飽きてしまってから、よりいっそう美味しくなってくるようなものを出してくれていたのだと思う。

そういう店の食べ物を、本当に飽き続けたまま二年も毎週四回以上食べ続けて、飽きているからこその美味しく感じられ方を満喫し続けられたことで、食事体験として、他の場所での食事の思い出とは、簡単には比較できないものになってしまっているというのはあるのだと思う。

いろんな人といろんな体験をしたようで、結局は一番馴染んでいった人と、一番急速に馴染んでいった時期のあれこれが、自分のすべての体験の中で一番素晴らしかったように思えたり、一番馴染んだ人との、馴染みきったあとのなんということもないリラックスした時間が、自分が体験することのできた一番幸せな時間だったと思えてしまうのと似たようなことなのかもしれない。

飽きるというのは、それに慣れて、それがわかって、それがわかっていることによって、そのもののそのものらしさを感じすぎているような気分になるし、それを知っていくことの興奮がなくなったことで退屈してきているという状態のことなのだろう。

人間に飽きるのも同じで、飽きていない相手は目新しさが高揚感や緊張感になるから、相手のすることを受け止められることに楽しい気持ちになりやすいけれど、相手に慣れてしまうと、ちょっとしたことでは何も思わなくなって、その人のその人らしさも鼻につくようになってくる。

そして、相手に慣れてしまって、一緒にいるだけでは特に何も思わなくなってしまっているのに、一緒にいるとちょっとしたことで楽しくなれたり、何を話していたわけでもないのにいつのまにか話が盛り上がったりする人というのが、飽きても一緒にいて心地よい人なのだろうし、それこそが本当に自分にとって心地よい人だったりする。

飽きているとはそういうことで、単純にいえば、食べ物の場合、飽きてから感じている味が、そのものの味ということになるのだろう。

美林華飯店が、食べ続けて口が味に慣れて飽きてきた感じになってくるほど美味しかったり、毎日食べているから、味の仕方にすでに口が慣れていて、日替わりのメニューにもすぐに口が飽きてくるけれど、だからこそより美味しさを強く感じられてしまうというのはそういうことなのだ。

美林華飯店の食べログなんかのレビューを見ると、「普通に美味しい」という感じの感想を書いている人がけっこうな割合でいる。
それは明確に、さほど味わわないで食べている人の感想なのだろうと思う。

美林華飯店のランチは、メインが出る前にスープと小さいサラダ(もしくは果物)とザーサイが出されるけれど、ザーサイなんかは、むしろご飯が進む、ちょっと塩っぱ過ぎる、うま味調味料もそれなりに添加されたものだし、サラダはシンプルなサラダか、もしくは市販のドレッシングっぽいものがかかっていたりで、日本人が生野菜のサラダを食べたがるからだしているだけのものだったりするし、スープも昔はどこまでも風味に浸っていられるとても心地よいスープだったけれど、味が変わってしまって以降だと、普通に美味しいくらいのスープなのだろうし、メインがでてくる前に、この店はしっかりじっくり味わって食べないといけないという心構えにさせられるような雰囲気ではないというのもあるのだと思う。

はっきりとは覚えていないけれど、俺自身は、最初に美林華飯店でランチを食べたときは、牛肉と卵の炒め物というのを頼んだのだと思う。

すぐに出てきたスープを飲んで、中華屋によくある感じのスープではない、にうまいなと思って、どんどんずるずると飲んでいたら、すぐに炒め物がきて、食べてみると、思っていた以上に塩気が薄くて、ちょっとこれは塩気が薄くないかと思いながら食べていると、それをおかずにご飯を食べるにしても、ぎりぎりそれで薄いということはないし、それくらいの塩気なことで、全体をまとめる風味が優しくて卵の風味ともうまく重なって、さほど味のしっかりした牛肉ではなかったし、野菜の青っぽさや、きのこのきのこ臭さが薄っすらと感じすぎてしまうくらいだったけれど、食べているとそれにも慣れて、そして、慣れてしまうと、スープと卵の存在感が、どんどんご飯を食べさせる感じになってくるし、具材の味をしっかり感じることも、しっかり感じるほどにそれがいい感じになってきた。

ひとくち食べたときにちょっと味が薄いくらいに感じるものが、食べ進むうちに心地よくなるというのは、それまでに体験したこともあったし、そういう味わい方もいいものだと思っていたのだと思うけれど、中華料理のどんどんご飯を食べてしまってご飯をお代わりしてしまうような感じの薄味というのは自分にとっては初めてだったのだと思う。

それはとても印象的で、食べ終わりながら、メニュー表に書かれた週替りメニューの今週の五品を見ながら、これは他のメニューも食べたいなと思って、また翌日なり翌々日に美林華飯店に来ることになった。

俺は米飯を中心にして食事をするのが好きだけれど、そうやってご飯を食べるうえでは、おかずというのは、ぎりぎりご飯が進む感じがしないくらいで、おかずがたくさんあることでご飯をお代わりしてたくさん食べてしまうくらいのバランスが一番心地よいと感じてきた。

美林華で毎日食べていた数年前に、高円寺の成都という中華料理屋の四谷三丁目店が、そういうご飯を美味しく食べるうえで最高のバランスの日替わり定食を出してくれていた時期があって、その頃も、シェフの人が入れ替わって味が変わってしまうまで、週に何日もそこで食べていたりした。

その頃に、俺は無化調的でありながら風味が豊かで味わいも力強い食べ物だからこその食べているうえでの楽しみ方があるというのを、だんだんと身体で知っていったのだと思う。

和食系の店で昼飯を食べるにも、とことん風味に浸りながら食べられる店での和食の楽しみ方がわかってきて、庶民的な口が重たく感じてしまう甘辛味とはまったく違う満足感がそこにはあるのだと思うようになっていった。

それでも、その頃は、たまに自炊するにしても、ほんだしとかガラスープの顆粒を使って料理していたし、普通に自炊して食べるというのはそんなものだと思っていた。

それから、転職して、六本木の泉ガーデンタワーで働くようになって、しばらくは同僚と一緒に食べていたけれど、上司が忙しくなって、バラバラに飯を食べるようになってから、俺はランチ時間内で行けそうな、千円ちょっと以内の中華とかアジア料理のランチをあれこれと試していって、そうして美林華飯店に出会ったのだ。

美林華に出会ってからも、週替りのメニューと相談して、週に一回とか二回他の店を試していたし、他にも美味しい店はあった。

けれど、食べれば食べるほど食べているものの味がくっきりしてきて、味わえば味わうほど美味しく感じられるということでは、結局美林華飯店が一番だった。

そんなふうに、たまに他の店でも食べながら、美林華飯店に毎日のように何百回も行って、美林華飯店の炒め物や煮物や揚げ物でがつがつとご飯を食べ続けて、それ以上に心地よいご飯をがつがつ食べる昼飯を体験しないままになったことで、こういう味の仕方こそ自分は一番好きなのだと、心底から思うようになっていったのだろう。

美林華飯店によって、そういう感じ方になっていきながら数年間を過ごして、その間に、食べ物全般にちょっとずついろんなことを思って、そういう時間があったから、俺はブックオフで立ち読みした弓田亨さんの本にぴんときたのだと思う。

弓田さんの本は、俺が食べ物に対してずっともやもやと思っていたことについて、やっぱりそうだったんだ、そんなふうに思っていてよかったんだとはっきりと確信させてくれるものだった。

(弓田さんとのことについてはこちら)

そこから、俺は自炊でも、自分がこういう味の仕方のものが一番心地いいと思うような味の仕方のものを作るようになっていった。

そして、そんな自炊に満足しながらけっこうな時間を過ごしてしまったのに、やっぱり久しぶりの美林華飯店は、うま味調味料も砂糖もみりんも使わない料理に慣れきってしまった俺にとっても、昔のままに、あまりにも食べていてどんどん美味しくなっていくのが幸せな味だったのだ。

美林華飯店の何が俺にとってそんなに特別なんだろうと思う。

特に、ご飯を中心にして食べる美林華飯店での昼飯の特別さというのは、どういうところでそうなっているのだろうと思う。

俺は料理人ではないし、料理の勉強もしたことがないけれど、食べるということでは、少なくても美林華飯店で五〇〇回以上は食べているし、食べる人として、食べていたときの感触を思い出しながら、どんなふうにすごかったなということを考えてみたい。



(続き)

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