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弓田亨さんが亡くなっていたのを知った

弓田亨さんが亡くなっていたのを知った。

2014年にブックオフで食べ物系の本をあれこれ見ていたときに、「失われし食と日本人の尊厳」をパラパラめくっていたら、これは読んだほうがいい本なんじゃないかと思って、そのまま買って一気に読んだのが最初だった。

その時点では、イルプルーのことは店名を聞いたことがあるくらいで、食べたこともなかった。

もしかすると弓田亨の「失われし食と日本人の尊厳」という本は、自分の人生に一番影響を与えた本なのかもしれない。

34歳になる頃に読んだ本だし、人格形成とか価値観とか感受性への影響ということになると、さすがに若い頃に読んだもののほうがはるかに影響は大きいだろうけれど、本を読んで何かしらの行動を取ったとか、生活習慣が変化したとか、そういう目に見える影響としては、今まで受けた誰かからの影響で一番目に見えたものだったのかもしれない。

イル・プルー・シュル・ラ・セーヌにも食べに行ったし、ルネサンスごはんもやり始めたし、弓田さんが輸入したものもいろいろ買って試してみたし、とりあえずはしばらく弓田さんの書いていたことをそうなんだろうと思いながら過ごしてみようという気になって、書いてあったことを思い出しながら食べ物に触れる日々を過ごした。

そんなふうに誰かが何かを言っていたり書いていたりしたことを自分でもやってみるなんてことは初めてのことだったのだ。

弓田さんの本を読む前と後とで、食べ物に対しての意識というか、食べ物について何か思うときの思い方というのが、かなり変わったのだと思う。

本を読む中で、ずっとあれこれ食べている中でなんだかなと思ってもやもやしていたことを、やっぱりそうだったんだ、そんなふうに思っていてよかったんだとはっきりと確信させてもらえたからだったのだと思う。

それは自分がなんとなく思っていたことをはっきりとした形で文章にしてもらって、同じように感じていた人がいたんだなと気持ちよく自己追認できてよかったということではなかった。

弓田さんがどうしてそんなふうに思うようになって、それからどんなふうにしてそれを確かめて、どんな試行錯誤をしてきたうえでこれを書いているのかという話自体がとても面白かったし、こんなふうに自分の力で自分の道を切り拓いてきた人が、自分の手で確かめて、自分で現地で確かめて、自分で輸入して確かめたりしたうえでこう書いているのだと受けとめられたから、俺がなんとなくもやもやと思っていたことは、本当にそう思っていていいことだったのだと確信できたのだと思う。

俺は何にもやもやしていたんだろうと思うけれど、大学生になって自炊するようになった2000年代初頭くらいから、野菜があまり味がしないとか、中国産の野菜も日常的に買っていたけれど、日本産の野菜より美味しくないというのは本当なのかとか、昔の美味しい米ほど今の美味しい米が美味しくないとか、旅行に行くたびに、他のアジアの国に比べて、日本の庶民が食べている食べ物はそんなに美味しいのかということとか、日本の食べ物を持ち上げたがるメディア全般に、庶民レベルでは全くそんなことないんじゃないかと、聞いていたり読んでいたりして気味が悪くなるような感覚がずっとあったのだ。

そういうものの全部に、やっぱりそうだし、そんなふうに思っていていいし、それをよくないことだと思っていていいのだと思えるようになったのだ。

本を読んで少しして、イル・プルー・シュル・ラ・セーヌの代官山のお店にケーキを食べにも行った。
ケーキ的な味がするというよりは、クリームや生地やムースとかそれぞれのパーツの、素材がいい味だからいい味になっていると感じられる味たちがハーモニーを作っているバランスで食べられるケーキになっていて、確かにこれは本当に味わうほどに美味しく感じられるようなすごいものだと思った。

料理は素材がほとんど全てだというようなことは、よく言われていることなのだろうし、弓田さんは本でも、素材が美味しくないことを直視するというのはどういうことなのかということについてと、素材が美味しくないのであればどうすればいいのかということを延々と書いていたけれど、書いてあった通りだったのだ。

おいしいと思える素材を自分で探して、自分で輸入して、そこまでして美味しい素材を揃えて作ったからこそ、そんなふうな美味しさの感じられ方になるケーキを弓田さんは作っていて、それは本当にすごいことだなと思った。

ルネサンスご飯というものも試してみようと、ルネサンスご飯の本を買って、ずっとそこまでしなくてもいいかと思って乾物から出汁を取ることをしていなかったけれど、せっかくこういう巡りあわせがあったのだからやってみようとやり始めて、自炊に対しても、ずっとなんだかなと思っていたことがどういうことだったのか、だんだんと体感していくことになった。

弓田さんの家庭料理の教義で最も重要なのは「砂糖みりん不使用」になるのだろうけれど、それもちゃんと守りながら作っているうちに、俺がずっとなんだかなと思っていたことのかなり多くは、砂糖とみりんを使わなくても物足りなくないように調理したのなら感じないことだったというのもわかってしまった。

そこからもう10年近くになるけれど、俺はほとんど料理に砂糖を使ってこないでやってきた。

といっても、日本の糖類入りの甜麺醤やコチュジャンを使ったりするし、ポン酢だってソースだって使うし、練り物も食べるし、神経質に糖類を避けていたわけではなく、レシピに砂糖やみりんと書いてあっても入れないでおくとか、それくらいのことではあった。

正月に砂糖醤油で餅を食べたりはしたけれど、あとはインドカレーで砂糖の入っているレシピを試すときに、たまに完全に抜いてしまわずに、デーツをペーストにしたものを入れたり、お土産で買った黒糖の塊から少し入れたりとか、それくらいだったのだと思う。

それでも、そうやって砂糖みりん不使用で料理してきたことで感じたことはたくさんあった。

そうめんが好きだし、買ってきためんつゆで食べることはいまだにあるけれど、甘いなと思うし、めんつゆだけで食べていると、一食分を食べ終わるまでに口が甘さに疲れてくるようになった。

ある年に、実家の雑煮がヒガシマルのうどんスープをベースにしたものだったから、自分でもスープを買ってきて作ってみたけれど、うま味調味料の問題もあるにしても、こんなにもベッタリと甘みがあったんだなと思って、こんなに甘くなくていいし、やっぱり口の中にベタつくものを感じるなと思って、翌年は自分で出汁をとって、多少ヒガシマルに寄せたバランスで雑煮を作ったけれど、一口目に物足りない感じがしても、数口食べればこっちのほうが美味しいし、食べ終わるときには全く満足感が違っているなと思った。

甘いと美味しくないと感じるようになったわけではないのだ。
近年でも、鍋用の肉を買うのと一緒に、そのひとの手作りの、甘みが勝たないくらいにみりんが加えられただけの鰹昆布出汁の醤油味の鍋つゆを買っていたけれど、それは素直に美味しいと思っていたし、優しい感じにほの甘いことは心地よく感じるのだ。

けれど、砂糖やみりんを入れない食べ物に口が慣れてしまったあとでは、砂糖やみりんが入っていなければいないほど美味しく感じるようになってしまった。

それは慣れの問題で、おべっかや愛想笑いや相手の気分をよくしようという目的の相槌のようなものに慣れていない人からすると、そういうことをしないひとであればしないひとであるほど、一緒にいてうっとうしさを感じないし、一緒にいて気が楽で、相手の人柄を素直に感じ取りやすくなるのと同じようなことなのだと思う。

どうしたところで、ある程度以上甘くすると、その料理は口にしたときに風味から奥行きを感じにくくなってしまう。
糖類を添加しなければしないほど、その料理がどんな具材や調味料でどんな風味が混ざりあっているのかよくわかるし、そのためだけでも、砂糖やみりんを入れないことには意味があるのだ。

甘いものや、甘辛い料理が食べたいのなら、食べればいいのだと思う。
けれど、そういうわけでもなく、何を食べているのかよくわかって、味わえば味わうほど味をよく感じられておしくなっていくようなバランスのものが食べたいのなら、甘みが添加されていない食べ物に舌を慣らしたうえで、甘みが添加されていないものを食べるのがいいのだと思う。

弓田さんのルネサンスごはんの本では、うま味調味料が出てくるレシピはないとはいえ、市販のカレールーを使ったレシピもあるし、肉の味の薄さを補うために顆粒の鶏ガラスープを使うレシピもあるし、神経質にうま味調味料を排除しようとしていたりするわけではなかった。

けれど、いりこを中心に乾物のだしを取って、アク抜き下茹しないことで具材の味もしっかり出して料理するというのが、砂糖みりん不使用と並ぶルネサンスごはんの教義で、それは甘味と旨味を添加しなくてもしっかりと風味を豊かにしていくことで満足いく味にしていけるという考えでそうなっていることなのだと思う。

うま味調味料にしたって甘みと同じで、うま味調味料を使っていない食べ物に慣れてくると、どうしてもうま味調味料が入っていないポン酢やソースのほうが、入っているものより口に抵抗感がないし、最初のひとくちが少しぼんやりするだけで、食べ進めばすぐにそっちのほうが美味しいと感じるようになってくる。

漫然と一口食べて普通に美味しければそれでいいというのではなく、味わいながら食べて、食べ進むほどに美味しく感じられるものが食べたいのなら、旨味も甘みも添加しない食べものに慣れた口になって、旨味も甘みも添加しないで物足りなくないくらいに風味豊かに作った旨味も甘みも添加しないものを食べるのが一番シンプルなやり方なんだろうなと思う。

昆布といりこを放り込んだ水の中に、近所の農家が作った野菜を適当に皮もむかずに何種類かたっぷり入れて、近所の豆腐屋の豆腐なり揚げなりを入れて、地元の手作り味噌をといた味噌汁が、一番美味しくて、ずっとそれを食べていられるし、子どもたちもいつでもがつがつと食べているとか、そういう光景を、地方の食育に取り組んでいる人たちを取り上げた何かの番組とかで見た気がするけれど、本当に美味しくて、いつもがつがつ食べてしまうものというのは、そんなふうにできているものなのだと思う。

俺の実家は味噌汁が基本に食事についてこない家だったけれど、ほんだしでさほど美味しくもない野菜とか豆腐を少し入れて、スーパーで一番とか二番目に安い味噌をといて作っても、たいして美味しくはならないのだから、自然なことだったんだろうなと思う。

ルネサンスごはんでは、いりこ入りの味噌汁が全ての中心に据えられているけれど、毎日のように味噌汁を食べる生活になって、俺の母親が、栄養短大に行って、その後その学校で講師もしていたのに、普通に美味しい程度の味噌汁しか作れなくて、本当に美味しい味噌汁を作れなかったという事実に、「失われし食と日本人の尊厳」という題名のとおり、みんなが普通そんなものだろうと思っているだけで、いろんなものが失われていたり、豊かになったのだから都市の庶民にだって手に入れられるようになったはずのものを手に入れ損なったままで時が流れてしまったのは、どうしたって本当のことなんだなと思った。

10年近く、レシピ本に載っているいろんなものを作ったわけではないけれど、ルネサンスごはんの考え方で、味噌汁とか炒め物とか煮物を作って生活して、ブログを読んで、本を読んで、闘病記を読んで、たまにイルプルーでケーキとワインビネガーを買ったり、通販でナッツとかオリーブオイルとかの食材を買ったり、ワインを買ってみたりしてきた。日常的にお菓子を食べる習慣がないから製菓の本なんかは読んだことがないけれど、本業の弓田さんにはそんなふうにしか触れていなくても、ずっとすごい人だなと思って過ごしてきたし、ブログの最新の記事には、3年とか4年がかりで本を書きあげたいと書いてあったから、そうできているんだろうかと思ったりしていた。

本を書くこともできないほど、どうしようもなく大変な体調の中で、最後の数年間を過ごされたんだろうなと思う。

俺はただ、たまたま本を読んでびっくりして、そこから自分なりに読んだことをいろいろ考えて自分でもやってみただけの縁の薄い人間ではあるけれど、本当にあのとき「失われし食と日本人の尊厳」をたまたま手に取ってよかったなと思うし、弓田亨というひとを知ることができてよかったなと思う。

ありがとうございました。



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