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続・弓田亨さんが亡くなっていたのを知った

弓田亨さんについて投稿したけれど、あまりにも自分の体験からしか語っていなかったから、弓田さんが家庭料理を再生させたいという思いでやってきたことについて、それがただおいしいレシピを紹介していたのとはかなり方向性の違う活動だったことについて、いつか誰かが俺と同じようにブックオフで「失われし食と日本人の尊厳」や「ルネサンスごはん」に出会って、これは特別なすごい本なのかもしれないと夢中になって読んだあとに検索してみて、同じようにこれはすごい本だと夢中になって読んだ人が人がいたのだとわかるように、俺が思うことを書いておきたい。

「失われし食と日本人の尊厳」で語られているとおり、弓田さんがルネサンスごはんを通して提示していたものは、普通のレシピ紹介とは全く別の価値観によって生み出されたものだった。

普通に美味しい、という表現があるとして、世の中のレシピ本の大半は、普通に美味しいと感じられるくらいの料理になればいいという前提で作られているのだと思う。

とてもいい材料で作ればとても美味しくなるけれど、近所のスーパーで一番安い肉と野菜と調味料を買ってきて作ったのなら、普通には美味しいけれど、別に感動するほどでもないものになるということがわかっているうえで、そういうものだと思って、レシピを紹介しているのだと思う。

美味しいにもいろいろあって、本当にどこまでも食べれば食べるほど美味しいものもあれば、美味しいかもしれないけれど別に感動もしないし食べ疲れるしあんまりだなと思うようなものもあるけれど、後者でくらいでも、普通に美味しいということにはなる。

「失われし食と日本人の尊厳」で弓田さんが書いていることは、その全てが、家族で一緒に美味しいご飯を食べることが、家族の絆や喜びとなるし、そんなふうに家族を結びつける喜びとなるためには、その料理は本当に美味しいものでなくてはならないということを前提にしたことだったのだと思う。

普通に美味しくはあるけれど、スナック菓子とか外食で食べるもののほうが美味しいと思うようなご飯を作っていたり、手をかけているようでいて、風味の薄い素材をさらに風味を弱めるように調理して、甘味と旨味を添加することで美味しいような気にさせるような料理を食べさせていると、その家の子供は、家のご飯が大好きな子供にもなれないし、美味しいご飯を作ってくれる母親や父親に感謝してもっと大好きになるということを日々繰り返せない子供時代を過ごすことになってしまう。

そうだとして、風味の弱い食材しか手に入らない日本の都市生活者が、家族を結びつけるような本当にどこまでも美味しいご飯を作るにはどうすればいいのかということが、ルネサンスごはんだったのだ。

甘味と旨味を過剰に添加することで美味しい気がするだけで何を食べているのかよくわからない料理にするのではなく、風味が足りないのであれば、いりこや昆布やナッツやオリーブオイルを入れてタイ米と混ぜたご飯を炊いてみればいいし、切干大根や豆やスルメとか身欠きニシン具材に加えることで風味や自然な甘みを持たせて煮物にすればいいし、揚げ物だって、甘いソースで何を食べているのかわからない感じに食べるのではなく、衣にナッツやごまやチーズを足してしっかり味わえるものにできる。

そして、レシピにあらわれる手法としてだけではなく、ルネサンスごはんでは、材料選びについても、どういうものを選ばなくては美味しくならないということが、かなりのページ数を割いて語られている。

それはいい野菜やいい米を入手しろという話ではないのだ。
米や肉や野菜は近所で手に入るものを使うとして、それらがどれも風味が弱いとしても美味しいものを作るためにどうするのかという話になっていて、だから、風味の足りない食材を美味しくさせる食材は風味が足りないものではいけないとして、乾物や味噌や塩についても、どういうものを選ばないといけないということが具体的な商品をあげながら語られるし、ナッツやオリーブオイルやシェリービネガーなんかは、風味が豊かな上質なものとして、自身が輸入したものを紹介してもいる。

ルネサンスごはんにはサラダのレシピも載っているけれど、それはほとんど、美味しい酢と美味しい油を使えばサラダはとてつもなく美味しくなるから、そういうものを入手しろということを伝えるためにあるようなページになっていたように思う。

多くのレシピ本では、できるだけ上質なものを入手してくださいとは書いてあるのだろうけれど、そんなものは道中お気を付けてくらいの意味にしか受け取られていないのだろうし、実質材料の指定がないから、食材や調味料の美味しさに依存したできばえになってしまうし、多くの場合、普通に美味しいくらいの料理になってしまいがちなのだろう。

けれど、ルネサンスごはんでは、各種料理に使うアーモンドについても、スペイン産のマルコナ種を入手してください、アメリカ産の方が安価ですが全く風味が違いますし、調理しても同じ味にはなりませんと書いてあったりする。

俺も最初はイルプルーが輸入しているマルコナ種のアーモンドを使って、その後、安いからとアメリカ産のアーモンドを使ってみたりしたけれど、アーモンドいりこ昆布オリーブオイル塩を入れて炊くご飯で比べたときには、アーモンドの違いによる、加わるコクや柔らかな甘味の分厚さが全く違っていたし、マルコナアーモンドで作っているときは、確かにこの食べ方は美味しいなと思っていたけれど、アメリカ産だとうっすら香りと甘みがつくくらいだし、これだったらアーモンドを入れなくてもいいのかもしれないと感じた。

品種の違いもあるにせよ、長いこと土地に負担がかかり続けているところでは、日本の多くの食べ物がそうなっているように、素材の風味が全体に弱まって、薄ら甘さだけがぼんやりしているような感じになるんだなと思って、だからこそ、食材の風味の弱さをカバーするためのアーモンドはアメリカ産ではダメだということなんだなと納得できた。

そんなふうに、ルネサンスごはんは、(完全に書いてあるとおりの食材を揃えると金がかかるとはいえ)書いてあるとおりに作った場合、米や野菜や肉などの食材の風味の弱さを補えるようになっていて、普通に美味しいのではなく、本当に味わうほどに美味しいご飯を作ることができるようになっているのだ。

ルネサンスごはんが、普通に美味しく食べられるご飯ではなく、風味の弱い材料しか手に入らない人が家族を結び付けられるほどに美味しいご飯を作れるレシピになっているというのは、そういうことなのだ。

材料に美味しさが足りないけれど、それを甘味や旨味で覆い尽くすことで気にならなくさせるのではなく、他の材料の風味と組み合わせることで、いろんな素材の風味の重なり合いとして、その素材を満足感のあるものとして味わえるようにするというやり方は、豚汁とかけんちん汁みたいな、具だくさんの料理をシンプルに味付けすれば自然とそうなることではあるけれど、どういう料理をするにしても、そういうようなシンプルなぶんだけ風味の豊かさにひたれる味わいにするにはどうすればいいのかということが体系的に示されている本だったのだ。

俺はレシピ本の三分の一も作っていない感じではあるけれど、ご飯も味噌汁も煮物や炒め物も、レシピのとおりに作ってみたものは、どれもなるほどと納得できる美味しさだった。

肉じゃがとか、生姜焼きとか、醤油味の煮物とか、今までだったら砂糖を入れていた料理を砂糖やみりんなしで作って、具材の自然な甘みの中で、糖類が添加されていないからこそたっぷりと風味が感じられるバランスに、こっちのほうが全然いいなと思った。

実際に書いてあるとおりに作ったひとたちは、俺のように、もともと日本の庶民の食べているものは甘すぎるし味をつけすぎていると思っていたような人ほど強烈に刺さったかは別としても、みんな、たしかにこれは美味しいなと思ったのだと思う。

(インターネット上のブックレビューで作ったけれど美味しくなかったと書いていた人がいたけれど、ほとんどが味噌なり醤油なりが少なかったパターンなんだろうと思う。ルネサンスごはんは、煮物の汁も全部飲めるくらいにしょっぱくはないものではあるけれど、全く薄味感が皆無なものになるはずで、それくらいに味をつけることを前提に、一部の食材を除いてアク取りをしたりせずに、できるかぎり風味を強めようとしているレシピなのだ)

もちろん、ルネサンスごはんはもうずいぶん前の本だし、ルネサンスごはんをベースにしたものをお店で出しているような人はいたりするようだけれど、今では話題にする人もほとんどいなくて、このまま埋もれていくレシピ群になっていくしかないのだろう。

それは残念ではあるけれど、俺が会社の人とご飯を食べたりしながら食べ物の話をしたりしている感覚としても、みんなスーパーの安い食材の味や風味が薄いなんて感じていないし、一般的だと思われている和食的な食べ物の味付けが甘すぎるとか味をつけすぎているとも感じていないし、そうなるしかないことなんだろうなと思う。

俺の身の回りだと、ほとんどの人はたいして食べることに興味がないけれど、食べ物から強烈な喜びを感じてきていないから、食べ物からそういう喜びを感じたいというモチベーションがなくて、食べることに興味がないのだろうし、そういうひとたちからすれば、刺激の強い食べ物を気が向くままにとっかえひっかえしているほうが満足度が高いのだろうし、ルネサンスごはんを食べたとすれば、食べ飽きないし、体にしっくりくる感じに満足感があるとは感じてくれるだろうけれど、結局のところ、糖類と旨味調味料に頼らずに満足感のある食べ物に慣れた口にとってしか、ルネサンスごはんはそれを続ける価値を持たないし、多くの人は一生そんな食べ物に慣れた口になることはないままなのだ。

けれど、ルネサンスごはんが埋もれていくのに対して、土井善晴が家庭料理の世界でむしろ存在感が増していっているような感じなのは、なかなか皮肉だなと思う。

「失われし食と日本人の尊厳」では、日本の家庭料理をよくない方向に進むままにしてしまった人たちや企業に対しての怒りのこもった非難が延々と続いていく本でもあった。

特に、家庭料理に割烹料理の手法や価値観を持ち込んで、それが上質な家庭料理であるように広めた人たちのことは、日本の家庭料理を豊かな素材の味を楽しむ料理から遠ざけて行く流れを作った大罪人のように語られていて、そのような「悪魔の調理法」を世間に広めた第一人者として、土井勝がどのような調理手順をやってみせていたのかを怒りを込めて非難していた。

もちろん、そこで非難されているどの人も、どの会社も、時代の要請によってそうしていただけなのだろうし、ただ時代の流れに合わせて、みんながありがたがりそうなことを言ってあげたり作ってあげたりしていただけではあるのだろう。

そして、それは今の土井善晴だってそうなのだろう。
土井善晴の立場で、近所のスーパーで売っている野菜にも肉にもたいして風味がなくて、それをあまり風味のないスーパーで売っている一番安い調味料でシンプルに料理しても、子供ががっつけるほどおいしい料理にはならないから、こういうふうに料理しましょうというような伝え方ができるわけがないのだろう。

そして、むしろ、土井善晴は本当に美味しいことを積極的に諦めようとしているのだろうし、むしろ、それを諦めるロジックとして、「一汁一菜でよいという提案」という本があるのだろうと思う。

「一汁一菜でよいという提案」という本では、不思議なほど美味しさの話がされない。

味噌汁とごはんが基本でいいのは、食べ飽きないからだし、親が子供が帰宅してから料理するのが素晴らしいのは、子供が親が料理しているのを目や耳や鼻で感じながら、親の愛情を受け取り、家庭の中で生きていくうえでの安心を育むことができるからとか、そういうことが語られる。

みそ汁の作り方についても、味噌に関しては、住んでいる土地の伝統的な製法で作られたものを使うようにとは書いているけれど、具は何でもいいからいろいろ組み合わせて作ればよいとして、そして、そうやって作れば、あまり美味しくならないときもあれば、たまにびっくりするほど美味しくできることもあって、そうしているうちに、美味しいとかまずいとかは大きな問題ではないことがわかってくるというように書いてあるのだ。

それは弓田亨がご飯が本当にとても美味しくて子供の頃にご飯が楽しみで毎日がっついていられるというのは、とてつもなく素晴らしいことなんですよと訴えているのとは、あまりにも対照的だろうと思う。

というより、一汁一菜でよいという提案では、家庭料理はおいしくなくていいという項まで用意されていたりする。

そこで書かれているのは、いつも行き届いたおいしい食べ物を提供するのがいいわけではなく、そのときの家庭状況とか、冷蔵庫に残ったものの状況に合わせて作ったものを、今日はどういう食事になったねと確かめ合って食べればよくて、料理が上手でも下手でも、そのときできることをちゃんとやっていればそれでいいのですというような内容で、それ自体はまともな言説だろうと思う。

けれど、ルネサンスごはん的なパターンで、乾物でしっかりと出汁を取って、風味の豊かな味噌を使うなら、一汁一菜と同じように適当な材料をあれこれ入れたとしても、ほぼ毎回飽きなくて深い満足感のある美味しい味噌汁が食べられるのだし、美味しいとかまずいとかは大きな問題ではないなんて思うまでもなく、美味しいご飯を食べさせてもらえてうれしいなと思い続けていられるし、こんなに美味しいものを作ってもらったのだから、自分もいつか誰かにご飯を作ってあげるときには美味しいものを作ってあげたいと思えるようになるのだ。

「一汁一菜でよいという提案」という本をよくないことが書いてある本だと思っているわけではないのだ。

俺の親はそんな意識で料理していなかったし、俺自身もそんなことを思ったことがないけれど、世の中には家族に出す料理は何品も用意してあげないといけないと思って、毎日献立に頭を悩ませて、料理しなくていいのならどんなにいいだろうと苦しい気持ちになっている人がたくさんいるのだろうし、そういう人たちは自分の身の丈に合わない妄想にとらわれているのだから、本を読んで一汁一菜でいいと思えたのなら、それは素晴らしいことだろうと思うし、土井善晴はたくさん人助けしているなと思う。

そうでなくても、本に書かれている全てが、そういうことを知っていくことで、より食べることや料理することを大事に思えるようになっていける教養となるような内容になっているとも思う。

ただ、あまりにも弓田亨と土井善晴の向いている方向が違うことに、土井善晴にしてもフランスでの修行時代があっただろうに、どうしてここまで違っているのだろうとは思ってしまうのだ。

もしかすると、単純に、土井善晴という人は、ずっと美味しいものしか食べてこなかったし、それなりにいい食材が常に手元にある状態でしか生活してこなかったのかもしれない。

そもそも庶民が買い物するスーパーの一番安い野菜がどれくらい味が薄いのか知らないのかもしれないし、一汁一菜の本で味噌汁に入れていたベーコンも、スーパーの一番安いベーコンではなく、糖分添加の少ないしっかりした味のベーコンだったのかもしれないし、だったら別に何でも美味しくなるんでしょうねというだけなのだろう。

そうだったなら、普通に作ればそれで充分に美味しいだろうと思って、いろいろ手の込んだものを多品目作ろうとなんてしなくていいんですよと、見るに見かねて一汁一菜でよいという提案をしたくなるというのもわからなくはない。
けれど、さすがにそんなわけはないのだろう。

土井善晴が一汁一菜の本で提案していることというのは、凝った料理や、刺激の強い過剰な味付けに慣れて、そういう刺激を求めてはすぐに飽きてということを繰り返すように食べ物を楽しんで、家庭でもそんな楽しみを提供しなくてはいけないと思って消耗するのはバカげたことで、家庭では料理は毎日食べていても飽きないものを中心にするべきで、基本はシンプルな味付けでその季節に応じた素材の味を楽しめるように料理するべきだということなのだろう。

それはつまり、家庭での食事にはそぐわない「美味しさ」を追い求めるのではなく、一汁一菜を中心とした食生活の中で、食べるべきものを食べて、その味に満足していくという「美味しいとかまずいではない」味わい方を身に付けていくべきだと説いているわけで、そもそも家庭料理を美味しくすることを目的に語っているわけではないのだ。

土井善晴は近年の情報発信でも、料理は美味しくなくていいという言い方を続けていて、現代の美味しさとは過剰な味付けのことで、人工的な過剰な味付けなしでも、火を入れたものに自分で塩をふったり醤油やソースをかけて食べればいいし、昔はそういうものだったとか、茹でただけ、焼いただけで美味しく食べられるし、和食とはそういうものだというような話をしていたように思う。

弓田亨がルネサンスごはんでやったのは、昔は塩をするだけで美味しい漬物や、醤油で煮るだけで美味しい煮物になっていたけれど、今の材料では同じように調理しても昔のような味にならないからどうしようかというところから考えた料理法だったのだから、全く考える道筋が逆なのだ。

けれど、土井善晴からすれば、ルネサンスごはんのレシピは、自然のものをそのまま味わうのではなく、ごちゃごちゃと味を重ねすぎた、日本の伝統的な食文化の美意識から遠ざかるような方向性の美味しさだということになるのかもしれない。

実際に、ルネサンスごはんは、炒めたり焼いたりする料理では、デグラッセをするという工程が入ってくるし、韓国料理を食べている中で味の重ね方に着想を得たと書かれていたり、割烹的な日本料理の文脈にはない美味しさのイメージを取り込んだものになっている。

一汁一菜でよいという提案という本では、かなりの部分で、ハレの料理とケの料理の違いとか、お店の料理と家庭料理の違いとか、日本の風土とか伝統がどうのこうのという、精神論的なことを論じられている。

それは、弓田亨は日本の食べ物の味が弱っていっていることに抗うためにレシピを考えたのとは逆に、それが日本人として自然な味わい方なのだから、そうやって味わうべきだし、そうやって味わってそういう味がしているのだから、それでいいということにしなくてはいけないという態度なのだろう。
土井善晴がどういうつもりであれ、延々と語られる精神論は、日本の食べ物がどうであれ、ただそれを受け入れればいいのだという考えを補強するためのものになっているのだ。

さほど風味がないものを、そういうものだと思って、あまりないなりの風味を感じ取って、自分はちゃんと素材を味わえていると自己満足しろということでもあるのだろうし、むしろ、そういうことを考えもしないでおくために、日本人とはそういうものだとか、家庭料理とはそういうものだということをごちゃごちゃ考えて、そこで考えたつもりになって思考停止しておくことで、自分の体や食べてくれている人の体が感じていることをまともに感じないままでいられるようにしているともとれるのだ。

普通に美味しいものと、食べれば食べるほど美味しくて、似たような醤油味や味噌味でもうまいうまいと毎日がっついて食べてしまうような美味しさのものがあるのだ。

食べてくれている人が夢中になってがっついてくれているのかどうか、みんな確かめているのだろうかと思う。

夢中でがっついて食べている子どもたちの姿くらい、誰だって見たことがあるだろうし、思い浮かべることができるはずなのだし、自分の子供がそんなふうに食べているのかどうか、確かめてみればいいんじゃないかと思う。

そして、弓田亨がルネサンスごはんでやっていたことというのは、レシピ通りに作りさえすれば、普通に美味しいのではなく、毎日がっついて食べてくれるような味になる料理を作れるレシピ群を作るということだったのだ。
そして、それは実現できていたことでもあるのだ。

もうじき10年になるけれど、俺はずっとルネサンスごはんの考え方で味噌汁を作り続けてきたし、これからも面倒だからと、ほんだしで作ったり、一汁一菜で書いていたような、頭とはらわたを取ったいりこを少し野菜と一緒に入れて少しだけ火を入れるようなやり方で味噌汁を作ったりはしないのだろう。

別にルネサンスごはんの味噌汁は面倒くさくないし、全く飽きもしないし、俺は出汁といろんな具材の風味がぶつかり合いながら、けれど、適正な濃度まで味噌をとき入れることで、その風味の豊かさの全体がすっと味噌の風味の中に収まった、力強くにぎやかな味噌汁が大好きなのだ。

ルネサンスごはんはこのまま埋もれていくだろうけれど、弓田亨の本をたまたま手に取る人はこの先もきっといるのだろう。

食べ進むほどに美味しいと思って、夢中になってがつがつご飯を食べることができる日々を過ごしたことがある人なら、弓田さんの本を読んで、思い出すことがあったり、自分の日々の食事にもやもやとした気持ちが浮かんだりするのだと思う。

そうだった人が昔もいたんだなと思ってもらえたらいいなと思う。

製菓では弓田さんの店も残るし、レシピもこの先長く残っていくし、その他の功績も日本の製菓業界の歴史的事実として認知され続けるのだろう。

けれど、弓田さんの成し遂げたことはそれだけではなかったのだ。

ルネサンスごはんはレシピ通りに作ることで確実に一線を越えて美味しいものを作ることができるレシピ群として完成しているし、それがどういう考えで作られたものなのかということも「失われし食と日本人の尊厳」を読めばわかるようになっている。そして、それを素晴らしいものだと思っていた人がそれなりにたくさんいたのだ。

弓田さんの本に出会えて、本当によかったなと思う。
本当に、ありがとうございました。

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