【小説】つまらない◯◯◯◯ 7
自分ひとりで何かを思っていても、今まで考えてきたのと同じようなことを頭の中に繰り返しているばかりで、たいして何も感じていない場合がほとんどなのだ。たまに誰かと騒いだり、多少楽しめる気晴らしをしていても、気持ちといえるようなものはほとんど動いていなくて、楽しかったからいいやと、楽しく時間を過ごしたことに自己満足しているだけだったりする。他人の気持ちに触れて、自分の気持ちがしっかりと動かされる時間というのは、自分の感情と自分の生活がそれほど結びついていない俺にとっては、自分が何をどんなふうに感じているのかを確かめられているような感覚になれる時間で、それはおぼつかないものが自分の中から消えていくという意味で心から落ち着ける時間だった。
誰との話のネタになるわけでもないのに、いまだに音楽を聴いていたり、映画を観に行ったりしているのも、そういう時間ができるだけ欲しいからなのだと思う。特に音楽は、三十三歳にもなっていかがなものかと思うくらいに、いまだに音楽を聴くことを気持ちの逃げ場にして、それに頼りきって生活しているように思う。音楽の場合は、気晴らしのように自分の気分がよくなるために聴いていることも少なくないけれど、それ以上に自分の気持ちを動かしてもらいたくて聴いていることが多いのだと思う。その曲を演奏している人の気持ちや意思の感触が自分の中に流れ込んで自分の中を埋め尽くしてしまうことで、自分の中に積もったちっぽけな感傷が洗い流されて、深く息をついて落ち着かせてもらえたという数分間が、今まで数えきれないくらいあった。そういうときに自分が感じ取っているものは、音というよりも、その曲でどんな昂揚を作り出そうとしているのかという演奏者のイメージと、実際にそのような昂揚が浮かび上がるような演奏にしている、その一瞬の演奏者の演奏に込められている感情や集中力のようなものなのだと思う。その人が何をやろうとして、そしてどんなふうにそれを実現できていて、そんなふうにできていることで、どんなふうに昂揚しているのかということが、そのまま自分の中に流れ込んでくる。そして、そんなふうに演奏している人の感情のようなものをそのまま感じられた気分になって、その人の感情の感触が自分の中を埋め尽くしたとき、それは、自分のような小さくて弱いエネルギーを生きている人間からすると、自分の感情だけを生きているかぎりは感じられないような大きくて力強い感情が自分の中にある時間になるのだ。映画を観ていても同じで、俳優の姿や表情や声に、そのキャラクターの感情そのものを感じているような気分になったり、画面に映る光景がそのような感触であることに呆然としたりすることがある。そして、音楽でも映画でもそうだけれど、そうやって呆然と気持ちを満たされたあとは、目に映るものの見え方が違っていたりして、ひとつひとつのものがくっきりとその感触を伝えてきたり、そばにいる他人とのあいだに、はっきりとした距離感を感じたりする。大きな気持ちに触れたことで、まどろんでいた自分の気持ちがショックを受けて、目の前のものに何かを感じる気力を取り戻したような状態になるということなのだろう。
日常生活での他人との関わりの中では、そういうものはめったにないのだ。大人になってしまったあとでは、関わりがあるのはほとんど大人だけになってしまう。ある程度の年齢を過ぎれば、多くの人は本気になって何かをすることなんてほとんどなくなってしまう。強い気持ちを発しているのを目にするとしても、そのほとんどがヒステリーでしかないものだったりする。いろんな事情や経緯や既定路線があって、みんなそれなりに疲れていて、頑張ってみたつもりでも、無意識にこんなもんだろうと思っている範囲でしか力は込もっていない。少なくても、俺はそういうくたびれた人たちで構成された集団でしか活動していないから、目を奪われるような姿を目にすることはめったにない。そして、俺にしても、頭を空っぽにしている時間はほんの少ししかなくて、いつでも何かをうっすらと気にしていて、他人のことなんてほとんどまともに感じ取れていないのだ。俺の日常の中で、目の前の他人の姿に目を奪われるなんて、仕事でごく稀に少しと、あとは恋愛絡みとセックスだけなのだろうなと思う。
好きな相手にくっつきたくて、くっついて気持ちがいいことがうれしかったり、かわいいと思っていることを伝えたかったりと、セックスの中にはいろんな強い気持ちが動いている。そして、それはこれまでのふたりの関りがあったうえで可能になっているやり取りだったりもして、今気持ちいいことが、ふたりが今まで過ごした時間を祝福しているような感覚にもなってくる。お互いのあいだにそんなにも素晴らしいものがあるのだと思えてくるし、そうすると、その素晴らしいものをもっとどんなふうに素晴らしいのか確かめたくなって、どんどんと相手を感じようとすることに夢中になっていってしまうのだ。
そんなふうにして、聡美とのように、引きつけ合って目が離せない状態になって、相手を感じている度合いが高まった状態がずっと続くことは、あまりにも気持ちがよすぎることになってしまう。風景に圧倒される時間であれば、数秒とか数分で終わってしまうのに、その時間が数十分とか数時間と続いてしまうのは、それがセックスだからなのだろうと思う。親しい人と話し込んでいて、お互いの感情が満ちてきて、お互いが相手の気持ちをしっかりと感じ合っているのが身体でわかるような、じーんとした感覚に包まれた状態で会話がしばらく進んだりすることもある。けれど、それにしたって、そこまで長い時間にはならない。せいぜい三十分とか、一時間はいかないくらいだろう。そんなにまでお互いが感情を示し合い続けられるような話題は、そこまで長くは続かない。映画だって長くて二時間と少しで終わってしまうし、映画の中で盛り上がったり落ち着いたりしてしまうから、そんなにも全力で感じられている状態が続くというわけでもない。けれど、セックスは、お互いの反応を確かめることに無心になれていれば、いつまでもそういう状態を続けていられる。気持ちいいことをして、それが相手にとっても気持ちがいいことを確かめているだけでよくて、何かのネタを通してやり取りしているわけではないから、ネタ切れになることも、ネタを選び間違うこともない。頭で何かを考えなくてもいいことで、いつまでも感じることに没頭し続けていることができる。
感じることに没頭したままで長い時間を過ごせる機会というのは、めったにないものなのだ。自分が今までにしてきたことで、セックスに比肩できるくらいに何時間も長々と気持ちよさに没頭できていたことがあったとすれば、クラブで身体を揺らしていられたときくらいなのかなと思う。いいロングセットであれば、四時間とか五時間のあいだ、ほとんどひとつながりで、ずっと音に意識を埋め尽くされたまま、その音の感触に気持ちを動かされ続けながら過ごすことができる。音の気持ちよさと自分の身体の動きを混ぜあわせていくほどに、自分が身体を動かしていることと、音がそんなふうに続いていくことの気持ちよさとが混ざり合って、自分の身体が音で気持ちよくなっているとしか思えない状態になっていく。朝になって周囲の人の数が減ってきて、鳴り響いている音がそろそろ終わろうかという雰囲気になっていくまで、延々とそれを続けていけるのだ。彼女がいたからというのもあるけれど、もう二年以上くらい、行くと疲れてしまうからと、クラブに行くこともなくなってしまったけれど、どっぷりと自己嫌悪に浸ったまま抜け出せなくなっているときにクラブに行って、いいプレイにあたったときは、とてもよかったセックスをしているときのように、いつまでも気持ちが満ちた状態で気持ちよさが続いて、朝になって音が止まってしまったときには、感傷がすべて洗い流されてしまったような、疲労が自分の肉体を甘く濁らせていることしか感じられない状態になっていた。そして、朝の景色を美しいとだけ思いながら部屋に戻って、何を思ったりするわけでもないまま眠りにつけていた。
逆に言えば、そんなにも深く自分の感傷や雑念を洗い流してしまうほどの時間を、聡美は俺にくれているということなのだろう。ペニスを自分の中に入れさせて、自分がどんな気持ちかわかるように顔を向けながら、俺の感情を確かめ続けてくれることで、俺はそんなにも充実した時間を過ごせてしまっているのだ。
聡美が自分の中で盛り上がって、勢い任せにセックスをする人でなくてよかったなと思う。ムードに酔ったようにして、自分の気持ちよさに集中してしまうのではなく、ずっと俺を感じていて俺から気を逸らさないでいてくれるから、ずっと視線が噛み合ったままでいられるのだ。
俺は勢いに任せるようにしてはセックスするが苦手なのだと思う。セックスの中で大げさなことするのも、遊びを楽しむようにしてセックスをするのも俺には難しかった。相手が自分の中で盛り上がっている感じにセックスしているときには、俺も相手の出しているムードに合わせたふうにはするけれど、自分はなんとなくムードに酔えないままで、ただ気持ちよさそうにしている相手を眺めているだけになって、少し退屈してしまうことも多かった。
俺がもう少しムードに酔ったりできたとしたら、また違ったふうにセックスを楽しむこともできるのだろうなとは思う。けれど、そうやってお互いが自分の頭の中で盛り上げた気持ちを向けるようにして見詰め合ったとしても、そこにあるのは酔っ払い同士のやりとりのようなものなんじゃないかと思ってしまう。お互いに酔っていれば、お互いに大雑把にやりとりをしながら、細かいところは置いておいて、大げさなことを言い合って楽しんでいられる。そういう噛み合い方はできるし、そうやってお互いに大げさに振る舞い合うことで得られる気分的な昂揚もあるのだろう。けれど、セックスにしても、大げさに振る舞うことの楽しさというのがあるのだとしても、そういうときに感じているものは、相手そのものからは遠ざかったものにはなってはしまうのだろう。自分の気持ちを盛り上げるために、自分の中のロマンチックだったり、ポルノ的だったりするセックスへのイメージをかぶせてお互いを見ている状態になるのだと思う。
もちろん、そういうポルノ的なイメージが、それぞれの人の頭の中にあるのだろうと思う。恋人同士の甘ったるいムードに満ちたセックスというイメージだってポルノの一典型なのだろう。変態行為に興奮する人だっているのだろうし、ポルノビデオに素直に憧れているような人もいるのだろう。そういう頭の中で普段想像して楽しんでいるようなイメージに実際のセックスの中で浸れるとうれしいという気持ちは多くの人にあったりするのだろうと思う。
昔付き合っていた人で、乱暴にされてみたいという願望があると言っていた人がいた。その人とは、聡美にしているよりは、多少乱暴に相手の身体を扱っていたところもあっただろうけれど、その人が頭の中のポルノとして思い描いていた欲望を満たせるほどのことはしてあげられなかったのだろうなと思う。その願望に応えてレイプごっこでもしてあげられたら、それはそれで盛り上がって楽しかったのだろうと思わなくもない。頭の中で自分が興奮できるイメージを膨らませて、それと身体の気持ちよさを同期させて自分を昂らせていけたのなら、また違った快感を体験できたのかもしれない。
けれど、俺はただ相手の感触に浸っているだけで充分なのだ。俺の頭の中にだって、ポルノ的な妄想は詰まっているけれど、それはすべてノーマルなセックスでの相手が自分に対してどんな気持ちになってくれるかということについての妄想ばかりだった。設定やシチュエーションの凝った妄想ではなく、ただ普通のセックスを気持ちよくしている妄想ばかりしていたし、そうでなければ昔自分がした中でよかったなと思えるセックスを思い出して満足していた。
けれど、そんなふうに、シチュエーションに盛り上がることを苦手に思っているというのは、俺の想像力が貧弱だからというのもあるのだろう。注意散漫というか、自分の頭の中の考えにうまく集中できないから、セックスしていても、自分の頭の中のイメージよりも、目の前の相手の姿や声に気がいってしまうというのは大きいのだと思う。どうせ相手に意識がいってしまうから、自分の頭の中でセックスの気持ちよさを増幅させようとするのではなく、むしろ頭を空っぽにして自分の中をその相手の感触で埋め尽くせたほうが、それ以上気が散りようもなくて安心するということでもあるのかもしれない。
昔は、大人数で雑魚寝している中でこそこそとセックスしたり、部室で鍵もかけないまま誰かが入ってくるかもしれない状況でしたりとか、そういうことはしたことがあった。どきどきはしたし、楽しくはあったのだろうけれど、どうしても気は散っていたし、セックス自体の楽しさは薄くて、またそんなセックスをしたいとも思わなかった。俺はシチュエーションの特殊さではそこまで盛り上がれないということなのだろう。
そもそも、シチュエーションで遊ぶという以前に、二人きりでセックスしているうえでも、ムードを作ろうと意識したことすらなかったのだ。ムードのために何かを準備したりもしないし、相手がムードに浸れるような、普段使わない大げさだったり格好をつけた言葉を使ったりすることもなかった。セックスの中で相手に向ける顔や言葉が普段と違うということが自分にとって気持ち悪かったりもしたのだろう。どこかから借りてきたムードに自分を合わさなくても、自分の素の気分のままで相手に没頭して、気持ちが高まったぶんだけ相手に向ける顔や言葉に力がこもればそれで充分だろうと思っていた。自分の気分が盛り上がるような刺激を持ってこなくても、お互いの感触に没頭できていれば気持ちは満ちてくるのだ。何かしらの経緯を持った男女が裸で腰を合わせて向き合っているということをそのまま感じているだけで充分で、何かの想像を持ち込む必要があるのかなとずっと思ってきたのだと思う。
そんなふうだから、自分のセックスはつまらないのだろうなと思う。面白みなんてちっとも欲しいと思っていないのだ。変なことも、変わったことも、テクニカルなことも、刺激的なことも、暴力的なことも、何もいらないなと思ってしまう。ただ普通にできればそれで充分だと、心底そんなふうに思っているのだと思う。
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