きことわとE2-E4

「マニュエル・ゲッチングの『E2-E4』」

アルバムタイトルを聞くなり、永遠子は「知ってる」と声をあげる。ぎっしりレコードをつめたダンボール箱から、チェスボードのえがかれた一枚のジャケットをとりだして貴子にみせた。

「和雄さん、チェスの曲でしょう?」

和雄が驚くよりさきに貴子が驚く。

「とわちゃん、どうして知ってるの?」

「この曲を聴いた記憶があるの。ちゃんとおぼえてる」

貴子は思い出せないと言って、「どういう曲か歌ってみて」と永遠子にせがむと、和雄が「歌えるような曲じゃないよなぁ」と笑う。

朝吹真理子の小説「きことわ」を読んでいたら、急にこのアルバムが登場してきたので、ふいにこのアルバムを聴きながら読書を進めることになりました。いまではジャーマン・ロック・グループ、アシュ・ラ・テンペルのリーダーの名作の一つであるこの作品も、発表当時は何の評価も与えられなかったと記憶しています。しかしプログレ文脈とは別にハウス〜テクノ方面から、この「チェスの棋譜を音楽化した」という延々と同じフレーズがループするこのミニマル・ミュージックの心地良さが徐々に後の世代に再評価されました。

80年代の作品でありながら、時代をあまり感じさせない不思議なエレクトロ・ミュージック。ほとんど退屈と紙一重ともいえる究極のミニマル・ミュージックですが、時折無性に聴きたくなるような妙な中毒性があるのも確か。そういえばむかし、東京タワーの「蝋人形館」に行った時、店内ロビーのBGMで、この「E2-E4」が延々と流れていた記憶があります。

「きことわ」では物語の前半の後半に、このアルバムが印象的な形で登場しています。文庫本の解説を町田康が担当していますが「死ぬまで、そして死んでからも永遠に夢の中でこの小説を読んでいたいと思った」と絶賛しています。

「きことわ」は、物語に登場する「永遠子(とわこ)」と「貴子(きこ)」の名前に由来します。もう一人、登場してくる和雄がかなりのレコードマニアらしく、「この(E2-E4)オリジナル盤は千枚しか生産されていない」など、うんちくも。これは本当なのでしょうか? もちろん僕は持ってませんが(欲しい)

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