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推しについて本気出して考えてみた #『推し、燃ゆ/宇佐見りん』を読んで



話題の、推し、燃ゆ。


芥川賞を受賞する前から気になっていた作品でしたが、なんとなく読むのに体力が要りそうな感じがしていて、ようやっと読みました。


だって「推し、燃ゆ」ってね。推しを持つ身としては、ちょっとしんどそうなタイトルでしょ。でも読まずにはいられなかった。

ある種の使命感みたいなものから読みました。笑

で、読んでみて、結論から言うと、すごく面白かったです!!!

このお話、主人公が発達障害のような特性を抱えていたり、学校や家庭内での孤独が描かれていたりして、『社会的マイノリティ者の孤独』みたいものもテーマにあったのかもしれないですけど、私は完っ全なオタク目線で読んでしまいましたね。

色々なバックグラウンドは全ての人間の現実世界での生きづらさをわかりやすく描いてるだけで、作者さんが書きたかったのは寧ろシンプルに「誰かを推す人生」だったんじゃないかと個人的には思います。

あと、すごく面白かったのですが、予想どおり、結構なダメージも受けました


推しがいる方は、できるだけ体調の良い時に読んだほうがいいと思います。笑





〜以下からは、推しへの思いをこじらせたオタクが『推し、燃ゆ』を読んで、主人公に共鳴し、苦悩する模様をお送りいたします〜



※ここからがっつりネタバレ含みます※





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あらすじ

主人公のあかりは、アイドル『上野真幸』を”推す”ことを生活の中心として生きている高校生。

※推すとは・・・同義語は、好きでいる、応援する、ファン、追っかけ、といったところでしょうか。特定の芸能人やキャラクター等のことを一押しする、というところから派生してできた言葉だそうです。
そしてその対象のことを『推し』と呼びます。

あかりは、部屋の片づけが極度にできなかったり、同時に複数のことをできなかったりと、生きづらさを感じながら生きています。
病院から何らかの診断も受けています。

勉強は苦手、学校には馴染めず、推しを推す資金のために始めたバイトもうまくできません。
家族とも解り合えずにいます。

そんなあかりの唯一の居場所で、あかりの『背骨』とも言える存在である『推し』が、ある日、ファンを殴ったというニュースが拡散され、炎上します。

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表現力が凄い

作者の宇佐見りんさん、現役大学生の21歳だそうですが、まずはその表現力に脱帽でした。
さすが芥川賞受賞作。

本作はひたすらに主人公目線の心理描写で進んでいくのですが、その表現が本当にリアルで、生々しくて、凄かったです。

たとえば、あかりがバイト中にパニックになっているシーン。読んでいるだけで息苦しくなります。

ちょっと長いけど引用しますね。

戸口を閉めるごろついた音、波打つガラス戸の外から聞こえる二次会がどうとかいう声、幸代さんが食器を洗って立てかけていくとき特有の硬い水音、換気扇と冷蔵庫の音、店長の「あかりちゃん、落ち着いて、落ち着けば平気だから」の柔らかい声、はい、はい、すみません、と答えるけど落ち着くってどういうことだろうせわしなく動けばミスをするしそれをやめようとするとブレーカーが落ちるみたいになって、こう言っている間にもまだお客さんはいるのにと叫び出す自分の意識の声、体のなかに堆積したそれがあふれて逆流しかける。さっきから大量につめ込んでいる、自分のだかお客さんのだかわからないすみませんで窒息しそうになり、あたしは黄ばんだ壁紙と壁紙のめくれた継ぎ目のあたりにかけられた時計を盗み見る。(p49.50 )


ね。すごくない??
一文の異様な長さと、あかりの感じる大量の音の描写から、パニック状態が伝わってきて、こっちまですごいしんどいですよね。


本作は全体をとおして、あかりが見ている風景、世界の色、音、身体の感覚、感情が、句読点があまりなく濁流のように羅列されている感じの文体が特徴的だったように思います。
自分が主人公になったみたいに、五感がリアルに伝わってきます。


また、あかりとオタク仲間とのやり取りや、推しのツイートやライブ配信につくコメント、あかりが書いている推しブログ等、世界観が妙にリアルなのも、面白かったです。

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推しを推すということ ー 共感の嵐

本作では特に、あかりの『推しに対する感情』が丁寧に描かれていて、それが絶妙に上手いなと思いました。


私自身にも、推しがいます。

私の推しライフのはじまりは、遥か昔、16年ほど前のこと。ライブをしている推しの姿をテレビで偶然見たのがきっかけでした。

本作のあかりはひとりのアイドルを推していましたが、私の推しはロックバンドです。
バンドそのものを推していて、メンバー全員が同じように大切なタイプ。
俗に言う『箱推し』ってやつですね。


そして、私には推しのバンドが2組います。


1組目は、前述した、16年前からずっと好きだったバンド。他にも好きな芸能人はいたけど、きっと推しと呼ぶのは一生このバンドだけなんだろうなあ、くらいの感覚でいました。

しかしそんな矢先に、ここ数年で新たに出会い、どんどん沼にハマり、すっかり推しと呼ぶようになったバンドがもう1組います。


どちらも大好きで、大切な存在です。

箱推し、かつ、2組を推している私は、メンバー全員の個々の活動も含めた全てをチェックしなくてはいけないので、なかなかハードで充実した、幸せなオタク生活を送っております。


そんな私なので、あかりが推しを慈しむ気持ちの描写には共感の嵐でした・・・!



このnoteのあらすじ部分で『推す』を説明するために同義語を並べてみていますが、どれも本当はしっくりきていなくて。


あかりが、他の言葉では言い表しにくい『推す』という行為を見事に言語化しているな、と思いました。


(一応、あかりに全然共感しない方もいらっしゃるとは思います。推しへの想いは十人十色ですので。非オタクの方は、オタクが全員こうだと思ったら大間違いでございます。ただ、私はかなり共感しながら面白く読みました。)

たとえば、特に共感したのが、推しに対する『かわいい』の種類について。

どんなときでも推しはかわいい。甘めな感じのフリルとかリボンとかピンク色とか、そういうものに対するかわいい、とは違う。顔立ちそのものに対するかわいいとも違う。どちらかと言うと、からす、なぜ鳴くの、からすはやまに、かわいい七つの子があるからよ、の歌にあるような「かわいい」だと思う。(p.83)


ここ、めちゃくちゃ共感したんですけど、わかりますかね。推しに対するかわいいって、たしかにこんな感じ。

なんでそんなに推しが好きなの、とあかりが姉にきかれたときの、この文章もとても良いですね。

愚問だった。理由なんてあるはずがない。存在が好きだから、顔、踊り、歌、口調、性格、身のこなし、推しにまつわる諸々が好きになってくる。坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、の逆だ。その坊主を好きになれば、着ている袈裟の糸のほつれまでいとおしくなってくる。そういうもんだと思う。(p.29)


以前、友達に推しの顔について「全然かっこよくない」と言われて「顔とかそういうのじゃないから!!!!でも顔も良いから!!!!」とかなり矛盾したことを言いながら、喧嘩したのを思い出しました。顔ファンってわけじゃないけど、結果的に顔も好きなんだよな。



推すことに理由などないのです。

何故推すか?? 推しがそこに居るから。


星座占いは自分のは興味ないのに推しの星座だけチェックする描写はさすがにちょっと笑っちゃったけど、なんとなく気持ちはわかってしまいます。

また、推しとの関係を表す文章で、こんな表現がありました。

携帯やテレビ画面には、あるいはステージと客席には、そのへだたりぶんの優しさがあると思う。相手と話して距離が近づくこともない、あたしが何かをすることで関係性が壊れることもない、一定のへだたりのある場所で誰かの存在を感じ続けられることが、安らぎを与えてくれるということがあるように思う。(p62)


うーん、わかる。
これ、案外ミソなのでは?

私も、推しを喜ばせる拍手の一部になりたい、歓声の一部になりたい、という想いは強くありますが、個人として近づきたいという気持ちはありません
あくまで恋愛的な好きとは違う感情です。


いや「来世こそは推しと結婚してえな〜」とは思うんだけれども。


彼氏彼女の関係や友達同士の関係、家族の関係とは違う、『推しと私』という独特な関係のなかに、そこでしか得られない安らぎが確かに存在していると思います。


その理由の1つが、もしかしたらあかりのいう『へだたりがある』ということなのかもしれません。



こんなことを言うと、不健全だとか、虚しいとか思う人もいるでしょう。

確かに、コンサートやテレビ画面では、推しが私たちに見せたい表の部分しか見えません。
ファンがいくら推しを解釈しようが、どれだけ好きでいようが、相手のことを本当の意味で解ることはできないし、距離が縮まることもない、うすっぺらな関係です。


それでも、今日も推しはどこかに存在していて、私は推しのことが好きで、推しはとおとい、ただそれだけの絶対的な関係が変わらずあるということが、心の支えになったりするものなのだと思います。

推しとの関係には、客席とステージ分の隔たりがあるからこその安らぎがある、というのは、真理かもしれないと思いました。

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終わりのことを考える


本作では、後半、『推しとの決別』が描かれています。
あかりの推しが芸能界を去ってしまうのです。


推しが自分の世界からいなくなる。

これは、全オタクが最も恐れている事態であり、いずれみんなが直面する問題なのではないでしょうか。

推しを推さないあたしはあたしじゃなかった。
推しのいない人生は余生だった。(p112)


あかりは『背骨』となっていた推しを失い、きちんと立つことができなくなってしまいます。


後半は読んでてもう絶望でしかなかったですね‥‥‥可哀そうにあかり‥‥‥。
それでも這いつくばってでも生きていくあかりは本当に偉いよ‥‥‥。



そしてそんなあかりの姿から、考えたくなかったけど、やっぱり考えざるを得ませんでした。

私は、私の推しが終わりを選んだ時、その選択を受け入れ、きちんとさよならできるのか、ということを。




考えてみると、私は、私という人間を説明するには推しの存在なしでは語れないくらいに『推しを好きなこと』がアイデンティティのひとつとなってしまっていることに気付かされました。

何せ、物心がついた頃からずっと推しているのです。推しと出会わなかった人生のことは想像ができません。


人参を鼻先にぶら下げた馬のように、推しの新しい曲、次のライブ、これからの活動を目指して、推しを追いかけることが、私の人生の進み方でした。

もちろん、それ以外にも普段の生活はあったけど、辛いこと、大変なことがあっても、推しの存在を燃料にして走ってきたような感じがします。


だから正直、今の私は『その時』がきたら、すぐには受け入れられないだろうと思います。
きっと絶望して、泣いたり、喚いたりしてしまう。


でもそれと同時に、彼らが大好きで、大切で、感謝しているからこそ、彼らには彼らの人生を誰よりも幸せに歩んでほしいという気持ちが強くあることにも気がつきました。

思い出したのは、先日、私の推しが、ファン向けのインタビュー記事で、ファンへの思いについて話していた言葉です。
彼は、「ファンのみんなの人生の一部を担わせてもらっているのが嬉しいし、その人生を少しでもより良くしてあげたいっていう、責任みたいなものを感じている」ということを言ってくれていました。

私が勝手に好きでいて、勝手に人生重ねてるんだから、そんなことに責任なんて感じなくていいのに。もはや恐れ多いですよね。こんな風に思ってもらえるなんて、ファンとしては幸せすぎることです。

またこの発言の方以外も、私の好きな人たちは、みんな本当にファン思いの方ばかりで。そんな推したちに対して、この期に及んでわがままなんて言えないなと思いました。

自由に好きなように元気に生きてくれればそれで充分です、と言いたい。
もし終わりの時がきても、それが推しの選んだ道であれば、その後の推しの幸せを願える自分でありたいと思います。


その上で、推しが私たちの人生の一部を担うことを嬉しいと言ってくれるのなら、推しの歩む人生と私の人生が重なり合っている間は、しっかりと推しのことを追いかけていようと思います。


そうして、最後まで精一杯推していれば、いつか終わりがきたとしても、推しと過ごした時間は、そのあとの私の人生のこともきっと照らしてくれる。そう信じたいと思います。


本当に本当にまじで終わってほしくないけどな。
できるだけ長く続くことを願うのみです。




そういえば、私の推しも、こう歌っていましたし。
(上記したインタビュー記事の推しと、こちらの推しは別の人です!)

いつからか時間が意味をなくしていたの
1秒と1000年の間に違いはなくて

永遠でなくてもいい
限りある命と 愛しい時が流れて
小さな泡になって 消えていく瞬間
それさえ愛したい

(グラヴィティ/ポルノグラフィティ アルバム『m-CAVI』より)



推しと過ごす時間は人生のほんの一部でも、
私にとっては1000年の時のように深く大切な時間なのです。

永遠じゃなくても、とにかく今この時を大切にするしかないですね!

ということで。

私はこれからも、最後の最後まで全力で、推しを推していきます。



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はあ、疲れた。

最終的に本の感想から大きく逸れていきましたが、推しについてこんなに本気で考えたことなかったので、楽しかったです。


以上、『推し、燃ゆ』を読んで苦悩するオタクの模様でした。



PS.何か言おうとした時、すぐ推しの言葉を引用してくるオタクの悲しい性を最後に結局出してしまいました。どれだけ推しに影響されているのか・・・とほほ・・・

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