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父親1948 ①

1948年。父は10歳の時、密航して済州島から日本に一人でやって来たと聞いている。
それまで父は祖母や親せきに育てられ母親の愛情を知らずに育った。
その当時は子供は一人しか連れて来れず祖母は父の幼い弟(叔父)だけ連れて日本に来ていた。
なので、父は母親の愛情を知らない。(祖父は幼いころに亡くなっている)
あの頃たくさんの韓国人が日本の中で豊かな生活を求めて日本にやってきた。
食べる物に困る、容赦ない差別。そんな中で生きてきたと聞いている。
聞いている・・というよりは聞き出している・・に近いかもしれない。
本当に辛いことなんて、言葉に出せないんだと思う。
父はバカにされないようにひたすら勉強して
早稲田の夜間に通った。
机の上の勉強が好きだったんだと思う。
どんなに勉強しても日本の企業には入れない時代だったのだろう。
その後、祖母のやっていた定食屋を継いで、結婚し、私達を育ててくれた。
しかし、父は日本の社会に馴染めなかった。在日にとってこれは大問題である。馴染めないなら、そう努力できないなら自分の国に帰る手段もあったからである。
だが、親せきは皆日本に来てそれなりに成功してた。大金を稼いでいた。
父は人が嫌いだ。当然自分の親戚も嫌いだ。困ったもので、その輪のなかにはいれなかった。
他人とコミュニケーションがとれない・・というか、とろうとしない。
ひっそり生きてる事を望んだ。このひっそり・・というのが厄介なのだ。
私はそんな父が嫌いだ。
意味もわからず、小さな時から誇りを持てだの、なんだのと、在日でありながら、言葉も知らず、ただ言われ続けられ、それが嫌で嫌でならなかった。
家族には威張り散らし、感情的に母に暴力を振るう。他人の前では小さくなって何も言えない。気が小さく、情けなく、恥ずかしくたまらなかった。
社会に溶け込めない70年以上の月日を思い出すとゾッとする。
そんな父に早く死んでほしいと思ったことは何度もある。
②に続く



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