古典を学ぶ意義は入試という箱庭から出ることで見出せる
ここ最近、古典教育に関しての賛否を発信する有名人が増えています。
その中でももっとも有名なアンチ古典教育論者がひろゆきこと西村博之氏です。
彼は教育や古典に関しては当然ながら素人ですが、素人目線、あるいは実社会からの立場から現代の古典教育を否定的にとらえています。
これは記事中にあった、ひろゆき氏がツイートした言葉の引用です。
彼の主張をまとめると以下のようになるでしょう。
古典は現代においてほとんど使わない
古典よりもより実践的なことは複数ある
古典とそれらを優先順位を入れ替えるべき
というものです。
有識者の反論
これに対し、多くの国語教育者、古文や漢文の研究者、教育者は反論をします。
これもリンク先の記事の引用ですが、評論家の呉智英氏が語ったものです。
これ以外にも、欧米でのラテン語、エリート層の教養などという反論が上がっています。
これらの内容に共通するのは古典は現代社会においても必要で、役に立つのだという基本スタンスは崩していないということです。
実利性は低い
しかし、正直なところ現実を見れば古典を学ぶことに関して実利性が低いのは明らかであり、その点で争えばひろゆき氏の論に勝てるはずはないのです。
大学進学率が5割を超える中で一部のエリート層の教養やたしなみとしての実利性をいくら唱えることはあまりにも空虚な議論です。
少なくとも共通テストという年間50万人が受験する試験の主要科目として取り扱うという理由にはなり得ないのです。
また記事中でも、文系の入試では必須であるし、難関大学では理系の現代文でも古典の知識が求められるという理由が挙げられています。
しかしこの理由こそが致命的であり、「試験で出るからやる」という学問への冒涜に近いロジックを教育関係者が持ち出しては元も子もないでしょう。
実利性は低いが意義がある、というスタンス
大学進学者が増加し、AI技術の発達によって古典を原文で読める能力を養うことのプレゼンスは大きく低下しました。
もちろん、専門と関連する分野の学習者が原文を読む能力をつけることは必須ですし、そうした一部の人が学ぶことは誰にも否定できません。
しかし全国一律で試験を課すことに関してはそれとは別次元の話です。
正直なところ、現実問題として古典を共通テストのような基礎学力を測る試験において必須科目として課すことは前例踏襲以上の理由を見つけるのが難しいでしょう。
では古典を学ぶ意義は無いのでしょうか。
それもまた異なるでしょう。
古典は過去の偉人の業績や文化習俗を知るための手掛かりであり、文化教育、教養教育としての価値は十分に存在します。
また原文で触れることで言葉の使い方や機微などを読み解くには原文学習は不可欠です。
古典を学ぶことで人生の指針を見つける人も少なくありません。直接的には役に立たないが、自身のアイデンティティの確立の一助となるはずです。
その視点に立つと、古典教育の存在意義は書道やなど芸術科目に近く、芸術科目やそれに準ずる形での教育が望ましいとも考えられます。
和歌や漢詩なども含めて、入試科目ではない形での教育方針を見出すことこそが古典学習の意義に繋がるのではないでしょうか。
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