筑波大学の入試改革こそが社会構造の変化に沿ったモデルケースになるべき
センター試験が共通テストに変わり、高校では新教育課程がスタートしています。
新しい学力観が問われて久しくなりますが、従来型の受験勉強強者を評価する入試制度はなかなか変化を見せません。
その理由の一つは、国公立大学が従来型の入試制度をあくまでも主軸に設定しているからです。
そんな状況を打破する取り組みを打ち出したのが筑波大学です。
共通テストで学力を測る代わりに、面接や小論文を重視するスタイルへ変更をするということです。
これは従来で言えば総合型選抜と呼ばれた受験方法を一般選抜として採用するということになるでしょう。
従来型学力観への固執
この変更方針に関して疑問の声が少なからずあるようです。
こちらのツイートやそのリプなどもそうですし、従来型の受験強者たちはこぞって反対をしています。
曰く「共通テストは真の学力を測れない」、「2次の記述力こそが学力」、「(英語の)単語数だけでも大きな差がある」など、その理由は様々ですが、総じて2次試験の学力こそが能力を正しく測定するものさしである、という認識のようです。
従来型の学力は暗記ゲームだけではない
もちろん、私も従来型の学力が暗記ゲームだというつもりはありません。
深い思考力を問うものも多く存在していますし、難関大学の記述試験を解ける人材は数理的能力や語学力に関して高度な力を持っているのは間違いない事実でしょう。
しかし、一方で彼らがイノベーティブ、クリエイティブでしょうか。
彼ら計算能力も高く、知識量と優れた論理的思考力で先読みをする能力にも長けています。
そのためにある種「保守的」になりやすい側面があるのではないでしょうか。
これは決して短所というわけではありません。
ミスが許されない公的な職務を行う場合においては優れた適性と言えます。
東京大学が官僚養成機構であった、そして国公立大学が地域の行政職養成機関であった時代において、こうした受験での能力は職務遂行力を測る良き指標となり得ました。
また、右肩上がりの前例踏襲をすれば進歩と発展が約束されていた時代であれば優れた社員として活躍をしたでしょう。
ところがそうした人材が研究者として優れているかどうかは不明です。
そして筑波大学は従来型の学力優秀な人間の中から研究者や起業家候補を探すのではなく、学力は共通テストでラインを引きつつも広く探したいという意図なのでしょう。
共通テストは学力を測ることができないのか
筑波大学の方針を批判する人の多くが口にするのが「共通テストでは学力を測ることができない」ということです。
この話に関しては以前記事で私の考えをまとめています。
共通テストが教科の細分化した学力を問えるか、と言われると微妙ではあるが、総合的な思考力を測るには十分なものではないか、と考えています。
少なくとも、アンチの人達が言うような学力を測る試験として機能していない、とは言えないでしょう。
今回の場合、教科学力を問うのが2次試験であるが、筑波大学は高校時点での教科学力よりもその時点でのモチベーションや専門分野への関心に可能性を見出したということなのでしょう。
筑波大学の方針はスタンダードとなりえるか
筑波大学は歴史的に文科省との蜜月関係を維持することで研究環境その他の優遇を受けてきた印象のある大学です。
実際、旧帝国大学ではないがそれと同格として扱われてきたことは有名です。
法人化前の学長の給与格付けなどは東大、京大を除く旧帝国大学と同じ扱いであったし、指定国立大学に認定を受けたの旧帝大である九大より先でした。
そのため、入試改革や総合型を含むアメリカ型の入試制度に移行を促したい文科省の意図を汲んだ方針であると邪推されるても仕方がないし、実際そうした側面も存在するのでしょう。
そうした裏側の事情は存在(それはどんな組織や集団にも存在します)したとしても、今回の改革は明らかに文科省の進めるモデルケースとなるでしょう。
個人的には、従来型の学力が高いがアカデミズムに向いていない生徒や学力はそこまでないが研究畑で才能を発揮しそうな生徒を見てきた経験から、今回の変更が良い方向に進むことを願うばかりです。
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