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カリスマ講師の映像授業だけで教育は成立するか

教育問題がマスコミやSNSで話題になっているとき、訳知り顔のコメンテーターや高偏差値大学入学(≠高学歴)自慢の人がよく口にするのが

「教師不要、カリスマ講師の映像授業を見せればよい。むしろ効率がいい」

という言葉です。果たしてこの言葉を実際に日本中の学校で実行することで効率性は上がるのでしょうか。

学校の役割

学校の役割には大まかに2つが考えられます。

一つは学力、そしてもう一つは社会性の養成です。

学力の養成

歴史を振り返ると、国民国家においては国家を構成する最小単位である個人のスペックアップを目的として近代教育が成立しました。

その中で最も重要視されたのが学力です。

社会をけん引する人材にとって、自然科学、人文科学、社会科学などの知識は不可欠です。

また、大量消費社会を支える良き消費者も、ある程度の知識があればこそ消費行動を貪欲に行うでしょう。

つまり学校や教育というシステムと学力の養成は不可分と言えます。その点で学力の養成は学校の役割の第一義と言えるでしょう。

社会性の養成

アリストテレスは人間を社会的動物である、と評したように人間同士の関わりや社会とつながることは人間にとって極めて重要です。

通信技術が発達した現代社会におけるパンデミックやロックダウンはその価値を人々に再認識させることになったようです。

その意味で学校におけるリアルなコミュニケーションの重要性は高いでしょう。特に小中学生がオンラインのコミュニケーションを自由に行うことは難しいことを考えると、学校の存在は不可欠です。

もちろん、同世代の人間だけの限られたコミュニティになりがち、という欠点はありますが、こうしたコミュニケーションの場としての存在は、社会性を養成するという学校の役割と言えるでしょう。

映像授業の効果と校種による限界

映像授業の使用目的を考えると、先ほどの学力の養成が目的であることは自明です。つまり、そもそも社会性を養うことに関しては不向きでしょう。

では、学力養成に関してはどうでしょうか。

たしかに、そこら中にいる学校教員よりも予備校講師の方が分かりやすく授業をする可能性は高いでしょう。

そもそも、予備講師は授業に特化した人材であり、プロフェッショナルです。かなうはずがありません。

しかし、小学生が映像授業を何時間にもわたって見続けることが可能でしょうか。自分の復習を自律的に行うことが可能でしょうか。

ほとんどの場合は不可能でしょう。そしてそれは中学生にしてもほぼ変わりません。

高校ならばオール映像授業は実現可能か

では、高校生ならば可能でしょうか。

おそらくは、「教師不要~」を書いた人の多くは高校を想定していたのだと思います。

結論から言えば、不可能です。

こうした話において「偏差値65以上の生徒ならば可能」といった表現をすることがあります。

これは正規分布の場合、上位7%に相当します。ただ、これは大学受験を考えている生徒の7%ということです。偏差値60以上でも16%になります。

高校には実業系の学校が存在します。これらの学校を、受験エリートの大半は存在を認識していないか、極めて少数の例外的存在だと考えているでしょう。

しかし、実際には総合学科や専門学科の生徒数は40%強の割合です。

つまり、5割強の生徒しか大学受験に参加せずそのうちの10%にのみ可能なシステムを導入することが現実的に可能なのでしょうか。

おそらく本当にごく一部の進学校以外は不可能でしょう。

しかし、逆にそれらの上位進学校の多くは授業やカリキュラムに強い独自性を持っており、大学受験を目的としない学業の修得を目指すケースも多く見られます。

それゆえ、受験のための授業動画をフル活用するということは学校の哲学やコンセプトとは相反する教育活動のように感じます。

人間は想像以上に怠惰で無能

教員という仕事を二十年近くして感じることは、人間がどれほどに可能性を持っているか、と同時にいかに怠惰で自堕落で無能であるか、ということです。

客観的に見て、あと少し努力ができればもっと違う未来が見られたのでは、という生徒を何人も送り出してきました。

もちろん、その例の多くが私や私たちの力不足だったということを否定はしません。

しかし、同時に本人が後少しでも自分で動き出していたら、大きく変われたのではないか、とも感じる事例は決して少なくありません。

学校と教員の存在意義

学校というレールの上でさえそうなのです。ましてや学校の授業やカリキュラムに乗らずに完全にフリーな状態で動画視聴だけで自立学習をすることは難しいでしょう。

授業動画を利用することに対しては賛成です。あのクオリティの授業を聞いて学習をする効果の高さは十分に承知しています。

しかし、学習状況の進捗確認、課題を設定、テストによる確認、質問や相談を受ける助言者、伴走者という存在は必要不可欠です。

そしてそのポジションに一番近いのは、教科専門知識のある教員であり現状においては最も適任である確率が高いのではないでしょうか。

今の視点で高校時代を俯瞰することの無意味さ

この手の議論において上から目線で語る人の多くが、大人になって社会を経験した後のメタな視点で、高校生に戻った自分の最適解を探す体で話しているケースを良く見ます。

その様子は意識高い彼らが嫌悪する「異世界転生アニメ」(私は好きですが…)の主人公のそれと大差無いように見えます。

実際、コロナ禍において一日中オンライン授業をやっていた学校は生徒も教員もギブアップしたという事例を多数目にしてきました。

映像授業で全てを学べるほどに人間は優秀ではなくて、もっと不出来で、不器用で、不完全な存在なのだと認めることがまずはスタートラインでしょう。

その上で、オンラインの活用性を探ることがより豊かな教育活動につながるのではないでしょうか。

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