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判定困難な「教員の適性」からの「でもしか先生」歓迎論

「でもしか先生」という言葉を聞いたことがある人も多いと思います。

主にやる気がない教員に対して使われる表現で、最初に流行ったのは1950年代というなかなか伝統ある表現のようです。

でもしか先生(でもしかせんせい)とは、日本各地において学校の教師が不足していた第二次大戦終結から高度経済成長期(おおむね1950年代から1970年代)に教師の採用枠が急増し、教師の志願者のほとんどが容易に就職できた時代に、他にやりたい仕事がないから「先生でもやろう」あるいは特別な技能がないから「先生にしかなれない」などといった消極的な動機から教師の職に就いた、無気力で不活発な教師に対する蔑称である。文部科学省中央教育審議会の会議等においても用いられている。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

教員人気と生徒数減少

その後は人材確保法(学校教育の水準の維持向上のための義務教育諸学校の教職員の人材確保に関する特別措置法)や給特法の成立で、教員志望者数が一定数確保できるようになりました。

また、1990年代をピークとして団塊ジュニア以降の子供の数の減少や、地方からの人口流出により学校の数は減り続けました。

しかし、長引く不況の中で教員の志望者はそこまでの減少が見られなかったこともあり、公立学校の採用試験の倍率は2010年代前半まで高止まりし続けていました。

近年になり小中学校の労働問題が大きくクローズアップされ、また若者の人権意識や仕事観の変化に伴い、採用試験の志願倍率が大きく下がっているというのが現在の状況です。

「教員の適性」の判断は困難

どんな仕事や職業にも適性というものが存在します。

営業職には営業職の、事務職には事務職の、職務内容だけでなく、その企業や業界の風土や文化などがそうした適性に関係してきます。

しかし他の職業よりも「教員の適性」の判断は困難です。その理由について私は以下の3点ではないかと私は考えています。

  1. 教員の職務内容や実態を知った気になりやすい

  2. 仕事の幅が広く多岐にわたる

  3. 学校や校種、教科による細分化が激しい

1.教員の職務内容や実態を知った気になりやすい

誰しもが生徒だった経験を持ち、学校には義務教育だけでも9年間、高校や大学まで入れれば10年以上にわたって学校に通っています。

生徒の立場から教員を見ているため、その仕事の中身や実態をわかった気になります。しかし生徒側から見える教員の仕事は氷山の一角に過ぎません。

その結果、生徒側からは見えない教員の仕事の実態(時間や給与、部活動から雑務全般)を知らないまま教員を志望し、採用に至るということは少なくありません。

当然ながら、彼らの知っている業務と実際の業務のギャップに苦しむことは目に見えています。

2.仕事の幅が広く多岐にわたる

教員の仕事に関しての知識があったとしても、実際には非常に幅が広いのが教員の仕事の特徴です。

授業やその準備、部活動とその引率、書類作成業務、申請関係業務、種々の会計管理、業者との折衝、システムエンジニアもどき、設備管理などホワイトカラーからブルーカラーの仕事までを内包しています。
(これらを切り分けることは教育現場の解決すべき課題ですが、現状はごちゃまぜの状態です)

こうした仕事の幅が広く多岐にわたる場合、すべてに適性がある人材はほとんどいません。

また、授業が中心と考えていた場合、むしろ他の業務の割合が多く適性を見分けづらくしています。

3.学校や校種、教科による細分化が激しい

さらに上記の業務の割り振りや内容に関しても、小学校のように部活動はないが給食指導その他生活全般に関わるものから、高校のように外部との折衝などが多いものまで校種によって様々です。

また公立か私立か、普通高校か実業系か、さらに自身の担当教科によって職務内容が分かれています。

通常の企業の場合、適性が低い場合は配置異動によって職務を変えて適正化することが可能ですが、教科免許と紐づき業務がある学校組織ではそうした対応も難しくなります。

事前に「教員の適性」を測ることは不可能

以上のことから、就職前の段階において教員の適性を測ること自体が困難、むしろ不可能ということになります。

もちろん他の職業においても適性を測ること自体は難しいのでしょうが、教員の場合はさらにその傾向が強いと言えるでしょう。

特定の業務に対する適性があっても、それ以外の全く別ジャンルの業務を同時に担当することが多い上に、先輩の体験談なども学校、教科、校種で全く異なる話となるため、OB訪問といったものが何一つ役に立たないのです。

逆に言えば、いかに志望動機が強くとも適性が不明であるのであれば、それほど教員という仕事に幻想を抱いていない人間であっても、適性がある可能性は十分に存在するのではないでしょうか。

「でもしか先生」の可能性

志望段階での高い意欲や意識ではなく、多様な業務に柔軟に対応し取り組むかどうかの方が教員の場合はよっぽど大事なようにも感じます。

だからこそ「でもしか先生」と呼ばれるような方も十分に適性を持つ可能性があり、排除せずに、サポートしていくことが重要だと考えます。

むしろ、個人的な経験から、初任者で4月初旬の始業式前に「生徒のために」という言葉を口にするやる気のある新人を信用する方が難しい印象さえあります。

実際にあったこともなければ、名前も顔も知らない生徒のために、と言える使命感には感嘆しますが、もやっとした違和感を抱いてしまうのです。

それぐらいならば「給料と安定で教員になりました」ぐらいの言葉をうそぶく人の方が、その言葉を信用できるとさえ感じることもあります。
(まあそれもどうかとは思いますが)

教員の選択肢を増やしてほしい

だからこそ、現在の大学生は教員の適性など考えずに教員免許の取得は考えておいてほしいのです。

学校教員の世界は、免許更新制度によって潜在的な教員免許取得者が労働市場から姿を消したため、かつてない売り手市場となっています。

幸いなことに免許更新もなくなり、選択肢として教員という職業を入れることもそれほど負担にはならないと思います。

多くの学生に志望動機は「でもしか」であっても、教員の道を考えてほしいと思います。

そして、公立だけでなく私学も選択肢に入れてもらえるとありがたいな、と期待をするのです。

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