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生徒の行動を自分の指導の成果として喧伝する教員に感じる違和感


教員、講師の尽力と結果の相関性

学校の教員として指導をしていて常に感じるのが指導をすることと、生徒の変化や進路決定に関する相関性です。

もちろん、こちらが力を入れて指導したり、しっかりと予習や教材研究に取り組むことで授業のクオリティが上がることは言うまでもありません。

しかし一方で授業の内容が良いからといって生徒の得点が必ずしも上がるわけでないのも確かです。

むしろ手抜きの指導をすることで本人たちが奮起し、むしろ想定された結果を大きく上回る実績になった、ということもあるのです。

そうした点を踏まえると、学校教員の評価を生徒の結果ベースで判断するのはかなり難しいと言えるでしょう。

尽力するのは大前提という性善説

つまるところ、学校の教員の世界は生徒のために尽力するのは当然であるという性善説に基づいて業務が成立しています。

事実、予習や準備をせずとも教書を読むだけでも授業という形式自体は成立してしまうからです。(そして実際にそうした授業まがいのものを提供している人間は少数ですが存在します)

その上、公立の場合は給特法によって残業という概念が存在しないために無償奉仕で際限のない長時間労働をしてしまう温床ともなっているようです。

とはいえ、そうした性善説が教育現場を支えてきたのも事実であり、また教員を志望する若者の多くはそうした気質を持つ人が多いように感じます。

生徒の行動を自分の指導の成果とする違和感

そんな教員文化の中においても、自己顕示欲の高い人は存在します。

高校で言えばそうした人は生徒の合格した大学を見て、自分の指導の成果とするようです。しかしさすがに自分の成果だ、とあからさまに言うわけではなく、言葉の端々に出てきます。

「○○大学に通した△さんは~」

こうした発言を聞くとつい気になってしまいます。「通った」ではなく「通した」なんですね、と。

加えて言えば彼(あるいは彼女)はそうした自分の無意識の自己顕示欲に気づいていないようにも見えます。ごく自然にその言葉が出てきているのです。

もちろんその発言自体は決して悪意のあるものではありませんし、当該生徒も本当にその教員に感謝をしているケースも多々あります。

ただ、個人的に私にはその言葉と感覚に受け入れがたいものがあるだけなのです。

不登校の発言

こうした発言はSNSでも目にします。

この方が書いている手法ややり方には納得する部分も多く、十分に参考になる手法でしょう。また、自分のやり方や能力に自信があり、自他ともに認めるほどの優秀な方なのでしょう。

不登校の生徒や家庭にとっては何らかの助けになるアドバイスとも言えます。

しかし、どんなに素晴らしいアドバイスも最初の一文が私には気になり、あまり頭に入ってこないのです。

私は学年主任のときに、7年間連続で不登校を出しませんでした。

不登校の存在は現在の学校現場においては受け入れざるを得ない事実であり、様々な要素や要因が絡み合って発生する現象です。(そして、不登校自体は決して=悪ではない)

それは担任や学年主任の独力で解決するものではありませんし、少なくとも学年主任のおかげで7年連続で不登校を「出さなかった」という状況はどう考えてもあり得ないのです。

あくまでも「たまたま」、「偶然」という時の運と地域や保護者の協力があって起きた偶発的な現象に過ぎません。

それを自身の力によって成し得たように喧伝することに対し、私は違和感を感じずにはいられないのです。
(自分を大きく見せることで成立する商法なのかもしれません)

教員は何もしていない

私の中で常に意識していることは「教員は生徒のサポート役」に過ぎないということを徹底することです。

学校に来るのも、勉強をするのも、合格を勝ち取るのも、全て生徒が自身の力で成し遂げたものです。

むしろ、そう感じるように仕向けること、自分でできるようになった、成長できたと実感させることが重要であり、教員に恩義をいかに感じさせないことこそが重要だと考えています。

何でもしているのに、何にもしていないように見せることこそが私の教員としての本懐なのです。

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