見出し画像

感謝されない教師こそ

二月も後半になり、卒業シーズンが近づきつつあります。

学校の教員をしていると、卒業時期には生徒や保護者から感謝をされることが多々あります。

もちろん、感謝してもらえるのはうれしいことです。

感謝されることに対して私の力がどれほど寄与したか、というと甚だ疑問ではありますが、感謝してもらえたということ自体はとてもありがたいことだと私も思います。

しかし、その一方でこうも考えてしまうのです。

「感謝されてよいのだろうか」と。

感謝をされるということ

感謝をされるということは、私の行動や働きかけが生徒に対して何らかの良い変化をもたらした、ということになります。

それ自体は決して悪いことではないでしょう。

しかし、その変化は教師という私の外発的要因によってもたらされたものでしかありません。

つまり、その時点で本人の内発的かつ継続的な変化となり得たかどうかは不明確ということになります。

もちろん、その後の進路でその変化や成長が継続的になったケースもあるのでしょうが、卒業以降の観測ができない私としては卒業までに内発化できなかった、という反省材料となるのです。

自分の変化や成長を自発的なものとして認識する

逆に、教師の働きかけが上手くいった状態とはどういうものかを考えます。

それは、外的には大きな変化があったにも関わらず、本人が自分自身で悩み、考え、結論を出し、成長できたと認識している状態ではないでしょうか。

その過程で担任など教師の助力はあっても、結局は自分で結果に繋げることが出来た、むしろ教師はあまり参考にならなかった、ぐらいの存在であることが実は望ましいのではないでしょうか。

これは保護者視点においても同じで、教師の手厚い支援でどうにかなった、ではなく自分で考え、友人や周囲の人間の刺激で自然と変わっていった、という認識する状態が理想ではないでしょうか。

では、どうすればそのような認識にできるのでしょうか。

その一つの手法として、最高学年の1年間で生徒をどれだけ自走させることが出来たか、ではないかと考えます。

1、2年生の時からの徹底的な議論による考え方のフォーマット形成や学習の習慣づけ、進路への興味関心を刺激、そういった下準備をした上で、最後の1年間で教師の存在感を限りなく薄くしていくことが教育の完成形のように私は考えています。

サービス業としての教師業のジレンマ

そうすると、大きなジレンマが発生します。

私の勤めるような私立学校においては、教師業は教育を預かるという大義名分だけでなく、サービス業でもある、という考え方が不可欠です。

生徒が集まらなければ廃業となり、自身を職を失うことになるからです。もちろん私立学校は私学助成金などの公的援助を受けていますので、塾、予備校業界ほどの厳しさはありませんが、近隣の公立学校や私学、最近は広域通信制高校との競争に常にさらされています。

そしてその競争に勝ち残るためには生徒や保護者の満足度を上げることは重要な業務ともなります。

このジレンマを解消する術を私は持ち合わせていません。だからこそ、冒頭のような悩みを抱えてしまうのでしょう。

本当に何もしない教師との区別がつかない

さらに、別の問題があります。

私が考える理想的な状態へ近づくほどに教師の存在感が消えることになります。

そうすると、生徒へ全く働きかけをしない「ダメ教師」との区別がつかなくなってしまいます。

しかし、何もしない教師だとしてもその結果、生徒に大きな成長や変化があったとすれば、「何もしない」という行為そのものに(結果的には)価値があったとも言えてしまうことになります。

教育の結果をいかに評価するのか

教育の結果は定量的に評価することが難しく、高校では偏差値や難関大合格といったわかりやすい指標に頼りがちになります。

しかしこれらは本人の成長を表す尺度としては不十分であり、学力的な伸びと偶然性に左右されるものでしかありません。

逆に生徒本人や保護者からの満足度や感謝という定性的な評価もまた、人気取りのパフォーマンスに陥りがちといえます。

結論が出ない問題ですが、個人的な感触を最後に一つ。

最後のHR

担任をしていると卒業式の日、考えることがあります。

最後の別れがあっさりしているクラスほど、教師に依存的ではなく自立した個人へと生徒達は成長できたのではないかと。

そんなとき、他のクラスよりも早く生徒や保護者からあっさりと解放された寂しさを感じつつも、少し誇らしい気持ちになるのです、私は。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?