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「誰とでも仲良く」どころか、「誰とも仲良くしない」でも構わない

「一年生になったら」という童謡の「ともだち100人できるかな」という歌詞を知らない人はいないでしょう。

私は高校に勤務しているので、小学1年生ほどには緊張や期待をして入学している生徒は少ないと思います。

しかし、それでも友達が多いほど良い、という固定観念は日本社会に根強く、親世代だけでなく高校生にも浸透しています。

「誰とでも仲良く」を重荷に感じる人々

そうした教育方針に関して警鐘を鳴らす記事がありました。

上記の記事の内容は極端ですが、協調的であることをあまりに肯定的にとらえすぎる空気感に息苦しさを感じる人は少なくありません。

かく言う私自身も友人関係が極端に狭く(というよりもほぼ無い)、またプライベートなどで他者と付き合うことを苦手としています。

記事では親の言葉が子供を縛っているようでしたが、往々にして学校の教員もそうした声掛けを生徒にしているように思います。

特に小中学校はその傾向が強いように思います。
(これは学齢による指導方針とも関連するので、批判をしているわけではありません)

「誰とも仲良くしない」は否定される

流石に高校になれば、「誰とでも仲良く」と言われることは少なくなります。

しかし、一方で「誰とも仲良くしない」を肯定されることは依然として少ないままではないでしょうか。

確かに、業務上のやり取りなどにおいて最低限のやり取りは必要でしょう。しかし、それを行うことは「仲良くする」こととは異なります。

メールや文書上で、あるいは業務遂行上最低限必要な言語コミュニケーションを行っているにも関わらず、そうした態度を否定的に捉えられるケースは決して少なくありません。

この根本には、「誰とも仲良くしない」ことは否定すべきものであるという価値観が広く根付いているからと考えられます。

「多様性」を声高に叫ぶ声の大きい人

「多様性」を認める動きが進んでいます。老若男女、性的マイノリティや障害の有無などを互いに認めて社会に参画していこうという考えは望ましい動きです。

しかし、同時にそうした動きの多くは声の大きい人たちの主動で進んでおり、主張する力の強い人の意見が優先される疑似的な欧米社会化となっているようにも感じるのです。

誰もが主役になれる社会を実現する、というスローガンは非の打ちどころがありません。

しかし、はたして本当に誰もが主役になりたいと思っているのでしょうか。

ひっそりと「誰とも仲良くしない」生き方

「誰とも仲良くしない」を望む人はひっそりと静かに生きたいだけのようにも思えます。

そうした日陰の存在の人を不幸であると一方的に判断し、日の当たる場所に連れ出すことは本当の「多様性」を尊重していると言えるのでしょうか。

誰も否定をしないが、誰も肯定しない生き方があってもよいのだという認識こそが本当の意味での「多様性」の尊重とも思えるのです。

まずは、「誰とも仲良くしない」人を否定しないという意識が広がることを切に願うところです。

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