死というものから生を逆算する
先日叔父さんが亡くなった。
つい最近、友人が書いていた記事とも重なって
図らずも死生観について考えさせられることになる。
葬式に参列した日、いろんなことが頭の中をぐるぐるした。
火葬され、骨になった叔父さんを見て感じたこと。
「なんてあっけないんだろう」
何について「あっけない」と感じたのか
自分でも分からなかった。
死とはなんだ
あの白く、固い物質に内臓や筋肉、皮膚、毛がまとわりつくことによって、個として意思を持ち、思考・行動する躯体となる。
それって何なんだろうか。
まとったものによって外見に特徴を持ち、長年蓄積された経験や知識によって構築される思考が、他者から唯一無二の存在と認識させる。
個として認識されたそれと時間を共有することで、記憶に刻まれ、目の前におらずともそれのことを考え、思考の中まで想像する。
それって何なんだろうか。
骨を見ても涙は出なかった。
じゃあ骨だけで生まれ、歩いたり、喋ったりできたなら
動かなくなったそれを見て感じることはあるのだろうか。
壊れた機械のように横たわるそれを見て、何を感じるのだろう。
まだ肉体が残された叔父さんを見て、僕はボロボロ泣いた。
そして、その日の感情をまだ整理できないでいる。
死から生を逆算する
死とは、肉体と意思が分断することなのかもしれない。
だとすると生とは意思を持ち、それによって肉体が動くことだ。
そしてそれによって他者に影響を与える行動を「生命活動」とするならば、自分の意思によって肉体が動く限り、生命活動を続けていたい。
笑わせたり、悲しませたりするかもしれない。
けど、それが生命活動なら
生きている実感を得られるなら
それはそれでアリなのかもしれない。
顔の見える範囲の人たちと
影響を与え合って生きていく。
ガムシャラに生きていたい。
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