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001冊目-『侍女の物語』マーガレット・アトウッド 書評-ジェンダー古今東西

定期的にディストピア物を観たくなる時がある。ジョージ・オーウェルの『1984年』に始まり、アンソニー・バージェスの『時計じかけのオレンジ』、映画で言えばリドリー・スコットの『ブレードランナー』が挙げられるだろう。そして、今回取り上げるのがマーガレット・アトウッドの『侍女の物語』だ。
 1985年に発表された本書はまさにジョージ・オーウェルの『1984年』を下敷きにしながら、その風景を女性視点から再構成している。
 舞台設定は22世紀初めのアメリカ、ニューイングランドのどこかであり、その名前を「ギレアデ共和国」に変えている。ギレアデ共和国は革命によって大統領や政府高官が殺害され、クーデターによりキリスト教原理主義の神権政治が復活した国に変貌を遂げていた。
 エイズの流行や細菌戦争、放射能などによる環境汚染によって白人の出生率は異常なまでに低下したため、国家の関心は子供を増やすこと、その一点に集中している。そこでは女性は「産む機械」と役割を課され、その役割を全うするための「小母たち」と呼ばれる女性による統制機構が出来上がっていた。
 つまり、女性を利用するならまず女性から働きかけさせるということである。
 「妻」「便利妻」「侍女」「女中」「小母」と役割を当てがわれ、周りの目から少しでも疑いの目をかけられれば「不完全女性」の烙印を押され、「コロニー」送りにされてしまう。つまるところ、待っているのは「死」のみ。ということである。
 劣悪な環境の中で主人公のオブフレッドは「侍女」としてある司令官の家に仕えている。「侍女」とはある家庭の妻が子供を産めないときの代理出産をする者として、社会に位置付けられている。
 彼女には夫も娘もいたが、クーデターをきっかけに離ればなれになり、赤いセンターと呼ばれる施設での再教育のすえ、司令官の家で子を産むことになっていった。猶予は月経が3回訪れるまでとなっており、それまでに妊娠できなければ「廃棄」されることが予定されている。

 ただただディストピアな設定を抱えながらも、著者の切り口と展開の上手さから、作品には常に緊張感が漂っている。少しずつ明かされる主人公やギレアデ共和国の過去にはサスペンスのエッセンスが落とし込まれているのだ。
 ジョージ・オーウェルの『1984年』をベースにした後継の作品は多いものの、過剰な設定にすればするほど失敗すればチープなものになってしまう。しかし、『侍女の物語』の優れた点は、歪んだ世界の歪んだ人物が唱える言葉にそれ相応の説得力を持たせているからである。
それは第2章の「買い物」において主人公が赤いセンターにいた小母、リディアのセリフからも読み取れる。小母とは、ギレアデ共和国で女性の再教育を行なっている老婆たちである。
” 自由には2種類あるのです、とリディア小母は言った。したいことをする自由と、されたくないことをされない自由です。あの無秩序にあったのは、したいことをする自由でした。今、あなた方に与えられたのは、されたくないことをされない自由なのです。それを過小評価してはいけませんよ。”
 女性を再教育する理由づけとしてのセリフ。されたくないことをされない自由とはレイプや性暴力の被害を受けない自由である。確かに、今日においても女性が服装や振る舞いによって性被害を受ける社会であることは否定できず、それゆえリディア小母のセリフがふと刺さってしまうことがある。しかし、『侍女の物語』の世界でその自由を享受するためには、女性には顔に白のヴェールを被せられ、体を覆ったスカートを穿かされることになる。その上で「侍女」たちは使える家父長の子供を産む、つまり選択の余地なく性交=レイプされるという事実すら歪んで教え込まれてしまっているのだ。つまり、10の悪を1つの正論で支えているのである。

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 ディストピア作品をここまで女性の視点から、また女性を取り巻く状況を詳細に描いた作品は1985年時点では存在しなかった。本作がエクリチュール・フェミニンの要素を持っていることは間違いなく、それは男性作家によって今まで描かれてこなかった女性の身体現象を詩的な文章に起こしたからだろう。
 主人公は自分の月経についてこう語っている。
” 泥沼や湿地に沈みこむように、自分の体の中に沈みこんでいく。そこは、私だけが足場を知っている場所。足元の不確かな、私自身の領域だ。私は大地になり、未来の噂を聞くためにその地面に自分の耳を当てる。体の一つ一つの疼き、かすかな痛みの呟き、抜け殻のさざなみ、体の組織の拡大と縮小、肉の洩らすたわごとに聞き入る……それらは兆候であり、それについて知っておかねばならない。毎月、私は月経が来るのを恐る恐る待つ。というのも、月経があれば私は失敗したことになるから。今まで何度も私は他人の期待に応えるのに失敗してきた。それは今では私自身の期待でもある。”
また別の「侍女」が出産を迎えた日でも、そのような記述が見られる。
”この部屋は嫌な匂いもする。窓を開ければいいのに。私たち自身の体の匂い。それに、もっと動物的な別の匂いも漂ってくる。ジャニンから漂ってきているに違いない。洞穴の匂い、人が住んでいる洞窟の匂い、かつて我が家の猫がベッドの上で出産した時―――彼女の卵巣を除去する前のことだ―――の格子縞の毛布の匂い。子宮の匂い。”
  このような”女性”の記述は現在でも有効であり、日本ではまだまだ足りていないように感じる。
ぼくがここで思い出したのが日本のドラマ『来世ではちゃんとします』の第1期だった。
 『来世ではちゃんとします』でも女性の生理について取り上げられていて、それは今までのような妊娠と出産とは結び付けられない日常としての生理の描かれ方だった。
 第1期の第2話において、主人公の桃江がセフレ(A君、B君~E君と5人いる!)に対して生理だと告げた時の反応をパターン分けして、それをコミカルな皮肉に昇華させてみせた。
 既存のシスヘテロ男性の監督からすれば躊躇してしまうネタも女性なら盛り込める。記述できることこそが重要なのではないかと思う。当たり前だが、あらゆるジェンダーに限らず、当事者のことは当事者が一番描き出せるのである。

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さて、ここからは『侍女の物語』における「愛」が持つ意味について考えてみたい。つまり、主人公のオブフレッドが考える愛とはなんだったのか、またその愛が意味するものとは何かについて。
 まず主人公のセリフを読み解いてみよう。
”愛です、と私は言った。
愛?と司令官は言った。どんな種類の愛です?
恋に落ちることですと私は言った。”
このやりとりから、まず彼女が考える愛とは恋愛であることが示される。そして
”彼の唇が、手が、私に押し当てられもう待っていられない気分になる。彼はすでに動いている。愛、ずいぶん久しぶりだ。私の皮膚は再び生き返り、両腕を彼の体に回して落ちていく。至る所を、果てしなく水が穏やかに流れている。私はこれは一回きりのことだと思っていた。”
などの描写から、彼女においては恋愛と性愛が結びついていることも分かる、つまりオブフレッドにおける愛とは愛=恋愛≒性愛なのである。
そして、彼女において恋愛は非常に大きな意味を持っていることが示される。
”恋は人生の重大事だった。恋愛はわたしたちが自分を理解するための手段だった。もし恋に落ちないような、恋をしないような者がいたら、それはミュータントに、宇宙からの侵略者に違いなかった。誰もがその事は知っていた。”
とまで言い切っている。ここでアロマンティックやアセクシュアルが軽くサイコ的扱いを受けているのに深くは触れないが、いずれにせよ、彼女の重大な関心ごとは恋愛≒性愛なのである。
 そして、恋愛≒性愛は彼女において、このディストピアを生きる日常の活力にもなっていた。
 若い男性で<保護者>と呼ばれる兵士に、性的な誘惑を与えてみたり(もちろんそのようなことは禁じられている)。司令官の家に仕えているニックを性的空想に使ったりしていたのである。
実際にニックとは物語の終盤で性関係を持つことになる。それは本人たちが望んで、という形ではなかったが、オブフレッドはその関係に今までは得られなかったほどの安心と満足感を得るのである。そうして彼女に与えられた「愛」によって、彼女はディストピアから抜け出そうとすることすら諦めてしまうのだ。つまり、現実を甘受するということである。
” 実を言うとね、私はもうここを離れたいとも、逃亡をしたいとも、自由を目指して国境を越えたいとも思わないのよ。私はここに、ニックと一緒にいたいの。彼の近くに。”
 そんな恋愛で解決できる問題だったのだろうかと、妙に拍子抜けしてしまったのだが、彼女が欲しかったのは自由ではなく、愛であり、それは何よりも恋愛だったことが示される。
 
実はこの拍子抜け感を他の作品でも感じたことがあった。
 それがスタジオジブリ作品の2016年公開、マイケル・デュドク・ドゥ・ヴィット監督の『レッドタートル』だった。
 『レッドタートル』では大海に投げ出された男がある無人島に漂着し、そこから竹で作ったいかだで島からの脱出を試みるも失敗し、その後死んだアシカの皮を使って帆を作り、巨大ないかだを使って海に出ようとしてもまた失敗してしまう。それでも、彼はいかだを作って海に乗り出そうと果敢に挑戦し続けるのである。
 男にとっても視聴者にとっても、島から出ることが至上命題だったことが物語の前半では示されているのだが、これが女性の登場によってガラリと変わってしまう。突如現れた女性に恋をした男は、それ以降島から出ようとも考えなくなるのだ。つまり、ロマンティックラブ一発で全ての問題が解決してしまったことになる。おいおい、恋愛さえあればなんもいらないのかよと思わずにはいられなかったが、その後男と女は子供を作って、その子供が島を脱出するので、一応島からの脱出というゴールは達成される。
 このように考えてみると『侍女の物語』は『レッドタートル』の女性版と見ることもできるかもしれない。もちろん、ディストピア度が全く違うし、そもそも比較されるタイトルではないのだが、あえて共通点を挙げてみれば、ディストピアに置かれた女/男がいつか脱出をしようと考えている。しかし、異性との恋愛によって承認を与えられ、当初の目的を果たすことを諦める。という流れが確かにあるように思える。
『侍女の物語』では最終的にそれも裏切られていたことが判明するのだが、それと同時に彼女の未来がどうなったかは読者に委ねられてしまうのだ。著者マーガレット・アトウッドは恋愛に完全な肯定も、完全な否定も与えず、物語は幕を閉じるのである。
 

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長々と書いてきたが、これでも書き残したことはある。しかし、初回から気負いすぎるのも、続かなくなってしまうので、最後に、今まで書いてきたこととは全く関係のない『侍女の物語』からの好きなセリフでこの文章を終えたい。

”でも、これも覚えておいてほしいのだけれど、許しもまた1つの権力なのである。許しを乞うことは権力であり、許しを与えたり与えなかったりする事は、多分最も大きな権力なのだ。(オブフレッド)”


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