見出し画像

【短編小説】朝と夜のフラミンゴ

物心ついたころから私は、2人分の人生を背負っていた。

100年続く、由緒正しき名家。私はその家の、双子の妹として生まれた。

姉は生まれた頃から病気があり、外に出ることができなかった。頬には大きな痣があり、不吉の象徴であるとされ、人目に触れることをゆるされなかった。

代わりに私は、将来跡取りとして表に立つ身分として、美しく健やかで在ることを教えられた。勉学、作法、芸術、馬術。社交場で必要なことは、容赦なく厳しく指導された。

「ごめんね」

姉はいつも、私に言った。

「お姉ちゃんが謝ることない」

私はいつも、姉に言った。

私は姉が好きだった。
姉は聡明で賢く、美しい顔立ちをしていて、自身の境遇を決して呪ったりしなかった。空想家で、いつか世界中を旅することを夢見ていた。知識も豊富で、瞳は美しく輝いていた。
姉のことを醜いという人は、姉の痣の部分しか知らないのだと思った。その証拠に、姉をよく知る人たちはみな、姉のことが好きだった。

姉は部屋から出られないのに、いつも私より数歩先にいた。眩しくて、眩しくて、私は目を細めて姉を見ていた。近くて遠くて、触れられるようで触れられない。姉はそんな存在だった。

*

時折姉は、夜眠る前に私を呼んだ。決まって、月の見えない暗い夜だった。
華奢な手で私の手を握り、

「死ぬのがこわい」

そう言って、静かに泣いた。細い肩を震わせて、声を殺して泣いた。
このときだけは、世界の不幸をすべて背負ったような顔をしていた。

「どうして、私の身体はこんなに思い通りにならないの、どうして」

私はただ、姉が落ち着くまで背中をさすった。その時だけは、姉の存在を近くに感じるような気がした。そんな夜を重ねるうち、自分のなかに、冷たい感情が波紋のように広がっていくのを感じた。

―姉にも、負の感情がある。
その事実が、自分を慰めているのだ。

そう悟ったとき私は、あまりの自分の醜さに吐き気を覚えた。私は姉のことが好きだ、それは間違いない。しかし同時に、深く深く羨んでいたのだ。何もしなくても愛される姉を。世間知らずで夢見がちな姉を。私はなんて汚い人間なのだろう。本当は、姉に触れる資格すらないのだ。この汚れた手で、姉の背中を汚している気がした。

でも、成長していくたびに、自分の醜い感情を誤魔化すことはできなくなっていった。

次第に私は、姉が負の感情を見せるときしか、姉を直視することができなくなった。姉の肩をさすりながら、負の感情に呑まれ、優越感に浸っている自分がゆるせなかった。世界でいちばん、醜い生き物だと思った。

「ごめんね、弱い私で」

泣き止んだあと、姉は必ずそう謝った。

ちがう、弱いのは私だ。

私はあなたが弱いことに安堵しているのだ。あなたの負の感情を、自分の安心材料にしているのだ。お願い、愚かだと罵って、お願い。

けれど実際には、何も言えなかった。ただ姉の骨ばった手を、贖罪のように握りしめ、月のない夜空を眺めることしかできなかった。

*

14歳になった頃、姉の病状は急速に悪化した。医師からは、次の誕生日を迎えられないかもしれないと告げられた。

それでもなお、姉は気丈に振る舞った。散り際は美しく在りたいと、身辺整理を自ら行い、客人を丁寧にもてなした。姉の周りにはいつも人がいた。手紙は毎日届いた。姉には私の知らない文通相手がたくさんいた。私が入り込む隙間はほとんどなかった。私は現実から目を背けるように、稽古に明け暮れるようになった。

そんなある夜、久しぶりに姉は、私を部屋に呼び出した。嵐の夜だった。

「眠るのがこわいから、そばにいてくれない」

姉はそう言った。
私は頷いた。

雨風が、窓を強く打ちつけていた。その日姉は珍しく、泣いていなかった。ただ静かに、窓の外を見ていた。暗がりでも眩しい横顔を、私は目を細めて見ていた。

「私が弱いせいで、あなたにすべてを背負わせることになってしまった。ごめんね」

ぽつりと、姉は言った。
そして、私が口を開く前に、

「ねえ、あなたは私が憎いと思ったこと、ある?」

と尋ねた。
その瞬間、心に大きな波が打った。脈拍数がにわかに上がり、脳内がじんじんと熱くなった。

姉は、私をまっすぐ見ていた。
すべて見透かされていたのだと、その時悟った。

「ない」

それでも私は、嘘をついた。
どこまでも愚かで、浅ましいと思った。でも今更、姉にすべてさらけ出すことができなかった。自分の感情を、言語化する能力がなかった。

姉はしばらく、私を見つめた。
遠くで雷が鳴っていた。
木々が激しく揺らいでいた。
雨粒が絶えず滴り落ちていた。

幾分の沈黙ののち、

「ありがとう」

姉は、ひとことだけ言った。
そのほかに、何も聞いてくることはなかった。

そのまま静かに窓の外を見つめ、やがて寝息を立て始めた。
私はそのそばで、感情を持て余し、呆然としていた。感情に名前をつけることができなかった。泣くことすらできなかった。どうしようもなかった。ゆるしを乞うように姉を見つめた。そこにはただ静寂だけがあった。

嵐が止み、東の空が白み始める頃、姉は息を引き取った。私の左手を、最期まで掴んだままで。

*

棺に横たわった姉の顔を、私は直視することができなかった。

私は未来永劫、姉の横に並ぶことも、向き合って話すこともできないのだと思った。

葬式のあと、姉が一日を過ごしていたベッドのそばで、私は泣こうとした。しかし涙は出てきてくれなかった。泣くことで、ゆるされたいだけのような気がした。勝手にゆるされたがっている自分のことなど、到底ゆるすことはできなかった。

姉がひとりで眺めていた景色を、私も眺めた。
彼女の視線の先には、何が映っていたのだろう。彼女が望んでいた明日は、どんな色をしていたのだろう。
どんなに見ようとしても、反射した自分の顔以外、見ることはできなかった。

どうしようもないほど、その顔は姉に似ていた。


日が暮れていく。斜陽が部屋を満たしていく。

滅びゆく光の中に、姉の面影を見る。
目を焦がしながら、直視する。

私は永遠に、あなたに追いつけない。
あなたと向き合うことすらできない。

これからは、どんなに苦しかろうが、あなたという概念を背負って、歩いていくしかない。あなたの光も闇も傷も痛みも。あなたに言えなかったこと、言いたかったこと、全部背負って。

それが、私に与えられた呪いだ。
美しく、逃れられない呪いだ。

追いつけないまま、私は祈った。
数歩後ろから、ただ、祈った。

本当は、あなたと向き合って話ができれば、それでよかった。それで、よかった。

言葉にならない感情を夕陽に透過して、
朝と夜の間にこぼれ落ちた光を抱いて、

ひとりでいつまでも、祈っていた。




眠れない夜のための詩を、そっとつくります。