大阪・真田山 陸軍墓地と三光神社
大阪市内で高台の土地があります。上町台地といいまして。
おなじみ大阪城や四天王寺など歴史的建造物も多いところ。観光客の賑わいと反対に、訪れるひともなく歴史に埋もれゆく場所もあるのです。
三光神社と真田山陸軍墓地のいまをご案内いたしましょう。
(3011文字)
たまつくり
JR大阪環状線の玉造駅です。たまぞう駅と読んでしまいませんか。
親から「ここでタマを造ってたから、たまつくり」と教えられたのはいつの日か。
わたしはてっきりパチンコ玉かと。……勾玉とはつゆ知らず。
歴史に詳しいかたなら「玉造部」と、ピンとくるのでしょうね。今回は、そんな玉造駅からスタートです。
◆オマケ・企業本社のまち◆
大阪城を仰ぎ見る、上町台地のすそ野。明治以降、川の運搬路や鉄道も通るまち。
玉造・森ノ宮かいわいは、森下仁丹さんをはじめ、サクラクレパスさんなどの老舗の本社があるところです。
JR玉造駅の北の駅、森之宮駅は、大阪城を中心に終戦まで極東一といわれた陸軍の兵器・武器製造工場(大阪砲兵工廠)がありました。
いまの、大阪城ホール・大阪ビジネスパーク・大阪城公園・森ノ宮電車区・車検場のあるところです。広大な敷地の軍需工場でした。
そのため大企業は、ちかくの玉造駅周辺(大阪環状線の内側・中央区)に集まって来たのでしょう。
お膝もとの玉造 (大阪環状線の外側・東成区)は、軍需用品や縫製などの町工場がとても多かったのです。
玉造駅に沿い南に伸びる日之出商店街は、たいそう賑わいました。
しかし1945年の空襲で、あたり一帯は瓦礫に。
三光神社も被害を受けたのです。
真田山陸軍墓地
約50年まえ、わたしが小学生のころ。社会見学や遠足は大阪城や天王寺動物園などでした。
真田山陸軍墓地など戦争遺跡は郷土史に登場しませんでした。
高度成長期といわれた時代。過去の負の遺産を置きざりに。
いまから思えば、明治・大正時代生まれの戦争の語り部も多数ご存命だったのに……。
あまり話題にのぼらない真田山陸軍墓地。ゆかりある遺族ぞ知る、つらく悲しい墓地。
我が家には戦争で軍隊にいたものはいなかったのもあります。
近年、平和のたいせつさ、毎日の暮らしのありがたさが身に染みるようになりました。
玉造・三光神社は行ったことがありますが、すぐとなりの真田山陸軍墓地には行ったことがありません。
よい機会です。むかしを訪ねることにしました。
玉造・ドラマで町おこし
大河ドラマ「真田丸」で玉造・三光神社など真田幸村が脚光を浴びたのが2016年のこと。
真田幸村にあやかり、日之出商店街や地域の町おこしもさかんに。あちこちに、わかりやすい案内板が立ちます。
関係ない、といわれればそれまでですが、「真田山陸軍墓地」の文字はありません。
たしか、三光神社・隣接地のはず。
まずは三光神社をめざします。
真田幸村公之像と真田の抜穴跡
まわりより、さらに高いところに宰相山公園があります。いかにも出世しそうな名前ですね。
公園のなか、三光神社・拝殿前に「史跡 真田の抜穴跡」と「真田幸村公之像」があります。
大坂城とつながる穴。真田の抜穴は、狭くて人1人が入れるくらいです。
ふだんは、鉄格子で閉じられています。年一回・11月に公開されます。石の階段を上ります。
三光神社・片側だけの鳥居
もより駅は……
●JR・Osaka Metro(大阪メトロ)
・玉造駅…徒歩約3分
石鳥居の片側の脚だけ残ります。
痛々しい姿。たまたま軍需工場の近くというだけで……。二度と戦争をくり返してはいけないのです。
片側だけの鳥居は、あやまちを後世に伝えるため保存されています。
参拝のあとは、真田山陸軍墓地へ参りましょう。
真田山陸軍墓地のいま
宰相山公園に戻り、真田山陸軍墓地に向かいます。左手の白い石畳が見えます。かなり新しいのでは?
この小道を上ったところ。
真田山陸軍墓地。うわさでは荒れているらしいのですが……。
これが出入り口でしょうか。門や壁があるわけでもなく、ちいさな通路があるだけ。
◆お知らせの看板より◆
■国有建物(納骨堂)の耐震補強工事実施。
■令和5年8月16日~令和7年2月22日
■通行制限時間
平日、土曜 8:00~17:30
上記以外の時間帯及び日曜、祝日、作業休業日は通行できます。
なんと、わたしが出向いたときには工事で、なかに入れませんでした。
「陸軍省」の文字と緑のフェンス。
規則的に並ぶ墓標が、近くまで並んでいます。
はじめて見る、真田山陸軍墓地。
空虚というのか、何て言うのか……独特の空気です。
1871年(明治4)に、日本で最初に設置された軍用墓地で、現在の面積は約一五.〇九〇平方メートルあります (中略)
墓地内には、一七八三年(明治六年)の徴兵制以前に属する兵士の墓碑にはじまり、西南戦争や日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦を経て約五一〇〇基の個人墓碑、約八二〇〇人の遺骨等を納めた納骨堂があります
わたしは、第二次世界大戦の時の戦没者墓地と思っていました。
近代日本の戦争で犠牲になった方々の墓地だったのですね。
写真はこれだけしか撮っていません。
撮ることもできませんでした。
しばらくは、歴史に埋もれくぼんだ空間にのまれていました。
もし真田山陸軍墓地が解放されていても、わたしは入れなかった。
わたしにふさわしい平凡な毎日。平和をかみしめながら帰路に着きました。
いつも こころに うるおいを
水分補給もわすれずに
さいごまでお読みくださり
ありがとうございます。
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