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ブラームスがドイツレクイエムに込めた人間本来の生き方

今年7月に横浜みらとみらい大ホールで2千人で作る世界平和のための合唱公演。

歌う曲はブラームスのドイツレクイエムです。レクイエム(鎮魂歌)と題されながら、ブラームス自身がキリスト教の典礼音楽ではないと言っている少し不思議な曲。私は生ある者の魂を清め、活性化する音楽と受け取っています。

今回の記事では、聖書から引用された歌詞の内容を取り上げて、ブラームスが今生きている人間に示した人としての真っ当な生き方について、私なりに解釈したいと思います。

個人的には、イエス・キリストの愛の教えに近いのではないかと思っています。 教会の教えとは一線を画するア・コース・イン・ミラクル(奇跡のコース)のようなイメージです。


今の生き方への疑問

悲しみを背負う人たちは幸いである

悲しみを背負う人たちは幸いである。なぜなら、彼らは慰められるはずだから。

(マタイ福音書5:4)

聖書によく出きそうな表現ですね。以前、私は「はずだから」と言われても、慰めにもならないと思っていました。だって現実を見たらそうじゃない ことだらけだから。 無責任でしょうと。

しかしながら、 「必要なことしか起きない」という考え方を前提にすれば、違った解釈が可能であることに気づきました。

どんなことも 魂を磨き、命を輝かせるために起きている。一見辛く、悲しいい 出来事であってもです。 それをどう捉え、どう生かすかは私たち次第なのですが、きちんと受け入れて正しく向き合えば、必ず慰められ幸せに近づいていくに違いありません。

言ってみれば、ネガティブで ありがたくない出来事は、実のところ、悟りへの入り口なのです。 この言葉が、第一曲の最初のフレーズであることは、この レクイエム 全体が ブラームスからの悟りへの誘いであることを象徴しているかのようです。

すべての肉体は草の如く、その栄華は草の花のようなもの

すべての肉体、それは草のごとく、そして、その栄華は、草の花のようなものである。草枯れ、花は散るのだ。

(ペテロの第一の手紙1:24)

このフレーズを初めて目にした時、草をつまらないものと捉え、諸行無常を訴えていると思いました。

確かに、そんな意味合いはあるかもしれませんが、今はもう少しニュートラルに捉えています。

つまり、 草は枯れ、花は散るというのは、 紛れもなく 当たり前の事実であり、それも大自然の営みです。

人間だからといって、少しも草より偉いわけではない。人間だって肉体は滅び、 栄華も過ぎ去る。人間も自然の一部であり、 移りゆく営みを共にしているのだと言うことに気づきなさいと言われている気がします。

全ての人々は無のようである

見よ、私の日はあなたの前では束の間であり、私の一生はあなたの前では無に等しい。あぁ、まことに、すべての人々は無のようである。そんなに確固として生きていてさえも。

(詩篇39:5)

みんな頑張って生きてると思います。毎日やるべきことに追われながら。悩んだり苦しんだり、それでも懸命に頑張っているけれど、それは本当の意味で意味のあることなのでしょうか。

ここでいう確固とした生き方とは、たとえばビジネスで成功してお金をたくさん稼いだり、社会で 多くの人に認められる生き方かもしれない。

でも、人間としての生き方の本質を基準に照らせれば、 今、多くの人がしている絵に見えるもの、表面的なものに囚われた生き方は、 やはり無に等しいもののように思えてしまうのです。

人は影のようにさまよい、彼らは虚しいことのために騒ぎ回るのです。彼は積み蓄えるけれども、誰がそれを収めるかを知りません。

(詩篇39:6 )

現代社会に生きる私たちのことを言われているようです。スマホに目を落としとぼとぼと歩いている若者、 仕事に忙殺されちっとも今にいない人々、 不安からお金を貯め込んだとしても、最後にそれを根こそぎ奪い去っていくのは死あるのみです。

人として本来の生き方への誘い

だから今は耐え忍びなさい、主の復活される将来まで

だから今は耐え忍びなさい、愛する兄弟たちを、主の復活される将来まで。見よ、農夫は、大地の尊い実りを、 堪え忍んで待っている。朝と夕の雨があるまで。

(ヤコブの手紙5: 7)

ここで農業が出てくるのは象徴的です。「日本農村教育」という戦時中に書かれた本には、 農業について大意次のようにあります。

農業というものは化育を賛するものであり、命の発展を図ることである。化育とは命のあるものと命のあるものとが向き合って、一方の命が他方の命を刺激し、これをして円満完全に発展させることである。その命が発展完成していくのは、ひとえに神様の御力による。農業というものは、作物に自分を捧げることであるから、自我本位のわがまま根性を突き破らねばダメである。

「 日本農村教育」加藤 完治

ブラームスは、命を育む神、すなわち大宇宙の神秘の力を受け取るには、己の自我を制御し、命に向き合ってしっかりとやるべきことをやる必要があると言っているように、私には思えます。

称えるべきは、本当の自分

正しい者の魂は神の御手の中にあり、そしていかなる苦悩も彼らに触れる事は無い

(知恵の書3:1)

私たちは皆、眠り続けるのではない。最後のラッパが鳴る時、一瞬に、突然にして帰られるのである。と言うのは、ラッパが響いて、死者たちは朽ちないものとして復活し、私たちは変えられるであろうから。

(コリント人への 第一の手紙15:51−52)

主よ、あなたこそは、栄光と誉と力を受けるにふさわしい方。なぜなら、あなたは万物を造られたのです。あなたの意志によって、万物は存在し、また造られたのであります。

(ヨハネの黙示録14:11)

今から後、主にあって死ぬものは幸いである。「然り」と御霊ハ言う、「彼らはその労苦を解かれて休み、その仕事は彼らについていく」と。

(ヨハネの黙示録14:13)

前節で見たように、正しい努力を積み重ねれば、幻想から目覚め、本当の自分に気づき、死をも超越する境地に達する、といったような内容でしょうか。

ここで大切な事は、私たちはただ救われるだけの無力な存在ではないということです。私の世界は私が作っている。それはとりもなおさず私たち一人一人が自分の世界の創造主であるということ。

ここに散りばめられた主、神を称える言葉は、私たちの本当の自己 に向けられる賞賛でもあるのです。

私たちの内に秘められた、素晴らしい自分自身の本質に気づき、喜びと幸福に満ちた人生に向けて前に進んで行こう。ブラームスからそんなふうに呼びかけられているように感じます。

そんな魂鎮め、魂振りの歌が、ブラームスドイツレクイエムではないかと、個人的に考えています。

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